瀕死の少年(その一)

 新帝国歴三百五十年、ドラグニ山山中。 

 

 八歳になったばかりの娘パリスを、森のそばに広がる花畑で遊ばせながら、昨日仕掛けた獣用の罠をダビドは見て回っていた。

 いつもならば、鹿なりイノシシなりの獣が仕掛けた罠のどれかに一頭は捕まっている。

 だが、この日はどの罠にも獲物は見当たらない。


 ――こういう日もある……まあ今日は、パリスを遊ばせられただけで良しとするか。


 空模様は少し怪しいけれど、花畑で明るく楽しそうに駆けていた娘の笑顔を思い出し、収穫が無い残念さをダビドは慰める。


 急いで獲物を手に入れないと食料に困るというわけでもない。それより、なかなか遊んであげられない娘と、ここに来るまでの間に会話できたことの方が収穫かもしれない。

 ダビドは、ついでに娘と少し遊んでやるかと花畑に足を向けた。


 娘のところへ戻ろうと振り向くと、頬に当たる風が冷たくなっているのにふいに気付いた。まだ夕暮れには遠い昼間にもかかわらず、空を真っ黒な雲が覆い始めている。

 空が急激に暗くなり出し、風も強くなり始め、雨も降ってきた。


 空模様の変化は速く、雨がどんどん激しくなり、雷の音も遠くから近づいてくる。

 

 ――これは……遊びは中止だ。急いで村まで戻らないと……。


 駆け足でパリスのところまでダビドは戻り、暗くなりつつある空を見上げている娘に駆け寄る。

 

デボラかあさんの予測が外れるなんて珍しい。それもこれほど大きく崩れる天気を間違えたなんて、俺の知るかぎり初めてじゃないか?」


 空を見上げてダビドはつぶやく。


「お婆ちゃん?」

「ああ、心配しなくていいよ。お婆ちゃんの予想だって外れることだってあるさ。もう少し頑張れよ。この分だと村に戻るのは、雨が弱くなってからの方がいいな……近くに小屋があるから、そこで雨宿りしよう」


 美しい金髪がこれ以上雨に濡れないよう上着を被せ、片手でパリスを抱きあげた。

 ダビドに似た青い瞳が、急に抱かれて不思議そうにキョトンとしている。

 つい口に出た祖母の名前に反応した興味深そうな娘の表情に微笑み、安心させようとダビドは抱いた腕に力を入れた。


 ドラグニ山の中腹やや上にあるベネト村まではしばらく歩かなければ戻れない。

 強くなってきたにはきたが、戻る気になれば戻れないほどの雨じゃない。

 だが、娘をずぶ濡れにして戻れば、妻のジネットが目をつり上げて怒るだろう。

 それは避けたいと、妻の怒った顔を想像して肩をすくめた。


 村の猟師が休憩や天候不順の際に利用するための小屋が近くにある。そこまで行けば雨風はしのげるし、火を起こして干し肉をあぶることもできる。

 濡れた衣服を乾かすこともできるだろう。

 雨が弱くなるまで娘と語りあうのもいいかもしれない。


 ダビドはそう考えて、村に戻るときには少し遠回りになるが、小屋がある山道に向かう。

 雨ができるだけ当たらないよう、娘の頭に手をおき、森を分ける道を早足で歩いた。 


 小屋に着き、張りだしたひさしの下に立ち止まると、ダビドはパリスを下ろす。

「先に中へ入っていなさい」と娘に言い、薪を持ってくるため小屋裏へ足を向けた。


 小屋裏から、雨に濡れないよう薪を抱えて戻ると、パリスが中に入らずに扉を開けたまま、ただ立っている。


 小屋の中は薄暗いから、怖くてダビドを待っていたのかと考えたが、中をジッと見ているだけでパリスは怖がっているようには見えない。

 それに、パリスはもともとお転婆てんばで、暗がりを怖がるような娘ではない。

 それどころか危なそうなことでも楽しむ……親泣かせな娘だ。

 パリスの母、ダビドの妻ジネットは、男勝りで無鉄砲と言ってもいいくらいのパリスの活発さをいつも気に病んでいる。

 十歳年上の兄スタニーにすら、気に入らないことがあれば、時には殴りかかろうとするほど気が強いからだ。


 八歳の女の子が、気持ちだけで十歳年上の兄に向かっていく姿には、ダビドもいつも苦笑している。

 勝ち負けなど頭にはなく、とにかく気持ちに素直に従って飛びついていくのだ。

 もちろん兄にかなうはずはなく、両手を捕まえられジタバタし、終いには悔し涙を流す。

 疲れて眠るまでのかなりの時間、涙目で口を結んで兄を睨む……パリスはそんな娘なのだ。

 まあ、一眠りして起きるとケロッとし、兄とも仲良く話し遊ぶので微笑ましい兄妹きょうだい喧嘩に終わり、パリスの、気は強いがしつこくない性格を好ましく思っている。


 気持ちの強い娘だから、今も鳴り響く雷に怯えるような様子はなくても不思議ではない。

 では……。


 ――どうして小屋の外に居るのだ?


 何か魔獣や獣が居るなら、扉を閉めてダビドを呼びに来るはずだ。

 そして自分も……無謀にも……木切れを持って一緒に戦おうとするだろう。

 

 しかし、目の前の娘はただ見つめているだけ。


「パリス、どうしたんだい?」

「……知らない人が居るの……」

 

 小屋の中を指さし、視線をダビドに向けずにパリスは答える。

 その声から、パリスが不思議そうに思っているのがダビドに伝わった。

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