第21話 帰り道、そして誘い

 数日後のある木曜日の放課後のことだった。いつもなら僕は予備校に向かうところだが、この日は英語の先生が急病のため授業が別の日に振り替えられることになり時間が空いてしまった。明彦は用事があるため先に帰ってしまったし、星原もこの日は私用があるらしく『部活』もない。


 予備校までの時間が空いてしまって手持無沙汰な気持ちになった僕は、校舎裏の非常階段に向かった。


 本校舎の裏側にあるこの非常階段は一番上の階まで上ると、野球部のグラウンドとその向こうにある木々に覆われた山の稜線を一望できる。今の時間ならちょうど夕日が見えるし、僕にとっては学校内のお気に入りの場所の一つなのだ。


 だが階段を上ったところで「おや」と僕は目を見張る。先客がいたのだ。


 非常階段の手すりから景色を眺めていた少女は「あれ」とこちらを振り返った。


 そこに立っていたのは僕とよく遭遇する例の不可思議な少女だった。


「あ、ええと。あなたは。駅で見かけた……」

「ああ。良く会うみたいだね。こんなところでも顔を合わせるとは思わなかったけど」

「ごめんなさい。私、ここから下を見るのが好きなのでよく来るんですけど。もしかしてお邪魔ですか?」

「いや。そんなことはないよ。僕も同じだ。ここに上って景色を見るのが好きなんだ。でも別に僕だけの場所というわけじゃあないし。先にいたのは君だろ」

「じゃあ、よかったら隣に来ます?」


 そう言って彼女は手すりの場所を空けるように二、三歩ほど左に移動する。


「そうかい? ありがとう。ええっと……」

「大久保です。一年C組の大久保可奈子。先輩は?」


 僕も彼女の隣にきて手すりにもたれながら名乗る。


「二年B組の月ノ下真守」

「月ノ下先輩、ですね。ここよく来るんですか?」

「たまにね」

「そうですか。ここって見晴らしがよくて、でも人なんかほとんど通らなくてこんな場所を見つけたのは私だけだと思っていました。なんだかちょっと悔しいです」


 大久保さんはそう言ってすこし顔を膨らませて見せた。


「僕はこういう場所を探すのが得意なんだ。ああ、ところでさ。聞きたいことがあるんだけど」

「はい? 何ですか?」

「大久保さんは帰る時ってどの路線を使っているの」

「え? 私は市営バスとJRで乗り換えた後、私鉄を使っていますけれど」


 僕と同じ通学路である。


「でも。駅とかで何度か見かけたことがあるけど、そのたびに電車が来ても乗ろうとしなかったよね」

「ああ。……それは人を待っていたんです」


 彼女はそういってふっと微笑した。ただその笑顔はどこか寂し気で、そこにあるのは肯定的な感情ではなく、むしろ苦しみを覆い隠そうと無理に笑っているように僕には思えた。


「その人は……結局来たの?」

「はい」

「そうか」


 僕は何だか拍子抜けした。僕の心を読むかのように行く先々で待ち構えているように見えたが、実のところは帰り道が同じでたまたま人を待っていただけだったのだ。何かミステリアスな秘密でもあるのかと妄想していた自分が恥ずかしい。


「ああ、でもさ。僕も大久保さんと同じ路線使っているけど、朝はあまり会わないよね」

「私、園芸部員なんですよ。それで朝は花の水やりで忙しいから早く来なくちゃいけないんです。だから先輩とは出会わなかったのかもしれませんね」

「へえ。園芸部?」

「ええ。ほら、あの花壇とか」


 大久保さんは非常階段の真下の方を指さした。そこには野球部のグランドを囲んでいる金網があり、すぐ隣に煉瓦でできた花壇が並んでいる。


「あの花壇の世話をしているのは大久保さんだったのか。綺麗に花を咲かせているなあ。感心するよ」

「それほどでもないです。懸命に世話をすれば花も応えてくれるものですよ?」

「それなら、あの花が綺麗に咲くのは大久保さんの心がけってことだろう」


 大久保さんは僕の言葉に一瞬きょとんとした後で笑った。


「そんな風に言われると照れちゃいますね」

「あの赤いのはカーネーションだよね。同じ花壇に咲いている黄色いのはなんていう花なんだ?」

「あれはチグリジアです。トラユリともいいますけど」

「隣の花壇もカーネーションか。色は黄色いけど」

「ええ。……ところで先輩。話は変わるんですけど」


 大久保さんは僕の顔を横目で見ながら思いつめたような声を出した。


「先輩は彼女とかいるんですか?」

「? ……いや。いないけど」

「それじゃあ、時々でいいんですけど私と一緒に帰りませんか?」

「え?」


 僕は急な話に何と答えればいいのかわからず、思わず無言で彼女の方を見た。


「駄目ですか?」


 僕が戸惑っているのが伝わったのだろうか、彼女は困ったような表情になっていた。


「駄目ってわけではないけど。……毎日は無理かな。僕も友達と一緒に帰ることもあるし、今日はこれから予備校に行く予定なんだ。君だって園芸部もあるし友達と一緒に帰ることもあるんじゃあないか」

「いえ、毎日でなくとも良いんです。一緒に帰れそうな日だけでも。先輩のこと、興味があって」


 これはこの子にもてている、と言って良いのだろうか。でも話が急すぎるような気もする。ただ悪い気はしないのも確かだった。


「わかった。一緒に帰れそうな日はそうしようか」

「本当ですか。ありがとうございます。……それじゃあ、こうしましょう」


 彼女は嬉しそうに笑って、先ほど話していた花壇を指さした。


「私に部活も用事もなくて一緒に帰れそうなときには、朝のうちにあの花壇の横のバケツを右側の花壇の所にさりげなく置いておきます。放課後になる前までに見に来て、もし先輩がその日一緒に帰れるのならそのままバケツをあの右側の花壇の所に置いておいてください。帰れないときは左側の花壇の所に置いておいてください」

「僕が一緒に帰れるときは右側の赤いカーネーションの花壇。無理なら左の黄色いカーネーションの花壇。……逆に、君の方に用事とかあって無理なら朝のうちにバケツを左の花壇の所に置いておくという事かな?」

「はい」

「秘密の暗号みたいで面白いけど。……携帯電話のメールとかでは駄目なのか?」

「校内でメールの着信音とかが鳴ってしまうと良くないかと思いまして。うちの学校最近そういうの厳しいみたいですし。先輩もむやみに人に知られたくないですよね?」


 なるほど。彼女なりに気を遣っているらしい。


「いいよ。一緒に帰る時には何処で待ち合わせしようか」

「私は校門を出たバス停の所で待っていますので、そこで合流するというのはどうですか。もし知り合いとかいて人目が気になるようでしたらさりげなく同じバスに乗って同じ方向に行けばいいですし」

「わかった。じゃあ明日からはそうしよう。それじゃあ、僕は今日は予備校があるからそろそろ帰るよ。また、ね」

「はい。月ノ下先輩」


 先輩、か。まっとうな部活に入っていないからそんな風に呼ばれるのは何だか初めての気がする。新鮮でくすぐったくて変な気分だ。


 でも彼女に話しかけられて悪い気がしないのは確かだった。




 数日後のある日、僕は校門を出て少し歩いたところにあるバス停に向かった。


 何人かの女子生徒に紛れて大久保さんは立っていた。同じクラスの生徒と一緒にいるらしくなにやら雑談をしていたが、僕に気が付くと一瞬目くばせをしてそれからそっけなく友人たちと話を続けていた。


 やがてバスが来て僕も彼女も乗り込むがバスの中でも彼女は友人と話し込んでいる。僕は彼女から少し離れた吊革につかまってなんとなく様子をうかがいながらも他人のふりを続けた。


 駅に着いてバスから降りた彼女は友人たちと別れた。どうやら一緒にいた生徒たちは帰り道が違うらしい。


 級友たちの姿が見えなくなるやいなや、彼女は唐突に僕の近くまで来てニッコリ笑う。


「それじゃあ帰りましょうか。先輩」

「ああ。うん」


 あれから僕と大久保さんは週に二回くらいのペースで一緒に帰るようになった。


 大久保さんはうちの学校の生徒がいるところではよそよそしい雰囲気を崩さないが、僕と二人きりになると親しげに話しかけてくる。そのギャップが僕をまた戸惑わせた。


「先輩は、休みの日とか何をするんです?」

「勉強と読書かな。大久保さんは?」

「部活の当番で花に水やりしたり、映画をみたりとかですね」

「へえ。僕の友達でも映画が好きな奴がいるけどな。どんな映画を見るの」

「可愛い動物が出てくる映画とか好きですね。感動しますし」


 ストーリーよりも映像重視なのかな。


 僕と大久保さんはいつも雑談をしながら電車に乗って、どこかに寄り道をするでもなく私鉄に乗り換える。


 その様子はたぶん他人から見ればどこかぎこちなく映るのだろう。


「それじゃあ、先輩。さようなら」

「ああ。気を付けて」


 彼女は僕の最寄り駅のひとつ前の駅で電車から降りて手を振る。

 まあ、彼女と一緒に帰るようになってまだ二週間だ。こんなものかもしれない。




 僕と大久保さんは一緒に帰るようにはなっているものの、最初からスムーズにことが進んだかというとそういうわけでもなかった。


 例えば大久保さんと一緒に帰る約束をしてすぐ次の週。僕は予定がなかったので、右側の赤いカーネーションが咲いている花壇にバケツを置いたままにしておいたのだが、放課後になってから急に明彦が声をかけてきたのだ。


「真守。今日帰りに本屋寄っていこうぜ」

「へ? 本屋?」

「お前がこの間探してるって言っていた漫画、見つかったんだよ。遠慮せず俺に感謝していいぞ?」

「いや、今日は……」

「駄目なのか? 用事でもあるのか」

「いや、駄目ってわけじゃあなくて」


 家の手伝いとか予備校があるという言いわけは星原との『部活』に出るときに使ってしまっていて断る理由が出てこなかった。


 結局僕は放課後になってから校門のところで大久保さんをつかまえて「申し訳ないけど、急用が入って今日は一緒に帰れなくなってしまったんだ」と伝える羽目になった。


 それを聞いた大久保さんは「どうしても無理なんですか?」と残念そうに僕に念を押していた。


 その後、次に一緒に帰る時には埋め合わせもかねて彼女に駅の自販機で飲み物をおごったりして、何度も時間を共にするうちに少しずつ彼女の事もわかってきた。


 割とインドア派で、休日は家でのんびりするタイプであること。


 たまにお菓子作りに挑戦するけど、失敗して試食してもらった友人に笑われたことがあること。


 スポーツは苦手なので運動神経が良い人には憧れること。


 どれも他愛無い雑談の中で彼女から聞いたことだ。でも僕には未だに彼女がどうして僕と一緒に帰ろうとするのかよくわからなかった。


 確かに可愛らしい女の子ではあるし、一緒にいるのが嫌というわけではないのだが、彼女の意図がよく解らないのだ。結局彼女は何がしたいのだろう? 単純に僕に好意を持っていると見ていいのだろうか?


 だが、こんな風に疑問に思う僕の気持ちをよそに今日も彼女は帰り道で僕の隣を歩きながら小首をかしげて見せる。


「どうしたんですか? 先輩」

「いや、なんでもないよ」と僕は首を小さく横に振った。




 それは僕と大久保さんが帰り道を共にするようになって三週間が過ぎたころのことだった。


 その日、僕は明彦と一緒に帰っていた。


「ふうん。明彦って服を買いに行くときに、まず買いに行くときに着る服を気にするのか」

「まあな。いわゆる『買いに行くための服』がないと何か気後れするというかさ」

「僕はそういうのはあまり気にしないけどなあ。大体それを気にしていたら何もできないだろう。それを言い出したら、恋愛をするための恋愛経験がないとか仕事に就くための勤務経験がないとかいうことになって最初の一歩が永遠に踏み出せないじゃないか」

「ほほう。言ってくれますなあ。ということは真守先生は恋愛も恐れずにどんどん踏み出してくということでよろしいですかな? それじゃあ、一つあそこにいる女の子にでも声をかけてこいよ」


 明彦は通りの向こうにいる派手な化粧をした女の子を指さした。


「いや、それとこれとは話が別だろ。……あれ?」


 僕は道路を挟んだ反対側の喫茶店に見覚えのある人物がいることに気が付いた。大久保さんだ。


 喫茶店の自動ドアから出てきて、そのまま急ぎ足でどこかへ向かおうとしている。だがその表情は涙にくれて目を真っ赤に腫らしているのがわかった。


「すまない、明彦。ちょっと知り合いを見かけてさ」

「知り合い?」

「うん。先に帰っていてくれないか」


 明彦はほう、と少し驚いた顔をして「後で詳しい話を聞かせろよ」とからかうような笑みを浮かべる。だが今の僕は明彦の目を気にしている場合ではない。


 大久保さんは人込みの中に紛れて姿が見えなくなりそうだった。僕は車が来ていないのを確かめて道路を横切る。そのまま駆け足で大久保さんを追いかけた。


「ちょっと待って」

「え? 月ノ下先輩?」


 何区画かの建物を通り過ぎたところで僕はようやく大久保さんに追いついた。


「あの、落ち込んでいるみたいだけど何かあったの?」

「え……」


 大久保さんは躊躇うようにうつむく。


「ほら。なんだか出会った時から大久保さんって、何か悩んでいるように見えてさ。僕に何かできることがあるなら言ってくれよ」

「私…………私は、先輩にそんな風に優しくしてもらう資格なんてないかもしれませんよ」

「え」


 大久保さんはしゃくりあげるような声で呟く。


「私は多分先輩が思っているような女の子ではなくて、ずるくて汚い子なんです」


 そういうと大久保さんは何かを押し殺すかのように、自分の下唇を噛みしめた。


「何をそんなに思いつめているのかわからないけどさ。せめて話してみてくれないか。人に話を聞いてもらうだけでも楽になるっていうよ」

「は、はあ」

 

 僕と大久保さんはとりあえず駅まで移動してホームのベンチに座った。大久保さんも落ちついてきたらしく、もう涙は乾いていた。


「あ、ええと。私、友達と喧嘩しちゃったんです」

「喧嘩?」

「少し前はいつも一緒に遊んでいたのに、最近何だか用事が出来たって言って、避けられていて。……理由を聞いてもはっきり答えてくれないし。あまりしつこく聞くなって怒り始めちゃって、私もそれでかっとなって口論になってそのまま喧嘩別れしちゃって」

「……」

「でも。もういいんです。きっと私にも悪いところがあったからこうなったんです」


 詳しい事情は分からないが、大久保さんは嫌な思いをして落ち込んでいるのは確かだ。ならばその事を忘れさせてあげるのが僕にできることなのではないだろうか。


「あの、来週の日曜日とか暇かな?」

「はい? 特に予定はないですけど」

「落ち込んでいるときには、気分転換した方が良いっていうしさ。もしよかったら一緒に映画と食事でもどうかな、なんて」


 少し前の僕ならこんなことは断じてしない。こんなことをする行動力はない。ただこの時の僕の頭には、星原から聞かされた「女の子も積極的に声をかけた方が好意を持つ」という話と明彦から聞いた「女の子に声をかけても何か失うものがあるわけじゃあない」というアドバイスが印象深く残っている状態だったのだ。


 加えて涙を流している女の子を慰めるという、ちょっとドラマみたいなシチュエーションもまるで神様がくれたチャンスのように思えた。さらに言うなら一年生の大久保さんなら仮に断られてもほとんど顔を合わせないので気まずい思いはそれほどしないだろうなどと考えて、つい僕らしくもない行動をとっていた。


「……あ、ありがとうございます。先輩。それじゃあお誘い、喜んで行かせていただきます」

「ああ。それじゃあ時間と場所決まったら連絡するよ」

「あ、はい。……それじゃあ、メールアドレス交換します?」

「え? いいの?」

「花壇の合図はもうやめましょう。登校中の電車の中でメールしますから」


 かくして僕は生まれて初めて女の子をデートに誘うことになったのだった。

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