第14話 親切心とすれ違い

 五時間目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。


 教室内の生徒たちは雑談を交わすか携帯電話をいじるなどして、思い思いに時間を過ごしている。あれから一日経過した午後の授業の休み時間である。僕らのクラスの次の時間割は美術だった。


「真守。次の授業、教室移動だろ。……急ごうぜ」

「そうだな。……確か今日は彫刻だったか」


 クラスメイト達の何人かは教材を持って廊下の方へ動き始めていた。明彦は孤立しがちな日野崎にも気を遣って声をかける。


「日野崎も一緒に行くか?」

「あ、うん。ちょっと待って。……誰かロッカーの上に彫刻刀を置き忘れているみたい」


 彼女は教室の左に並べられたボックス棚の上を指さした。


「困っているかもしれないし、持ち主に届けておくよ」

「……そうか」


 相変わらず親切な少女だ。


 それから僕らは三人で本校舎から渡り廊下を通って実習棟の美術室に向かい、入り口のところで分かれた。美術室には既に僕ら以外のクラスメイト達が集合していたようで彼らの喧騒が響いている。


 室内には八つほどの作業台があり、出席番号順のグループで分けられているのだ。僕らもそれぞれのグループごとの席に着いた。そして授業の準備をしようと教材を取り出そうとしたその時だった。


「何、勝手なことをしてんのよ! この泥棒!」


 怒号が響き渡った。

 突然の出来事に美術室内は静まり返る。何が起きたのかと目をやると、板橋が日野崎に食ってかかっているではないか。怒鳴られた日野崎は呆然とした顔だ。


「あ、あたしはただ。教室に彫刻刀を忘れている人がいたみたいだから、届けようと思って」


 僕はさっき日野崎が誰かの忘れていた彫刻刀を届けようとしていたことを思い出す。そして会話から察するに、それは板橋のものだったらしい。……しかし。


「置いてきたと思って一度教室に戻っても見つからないし。あんたがまた嫌がらせしたってわけね」


 どうやら板橋が教室に取りに戻った際に入れ違いになって、盗まれたと主張している状況のようだ。その発言に美術室内の生徒たちがざわめき始める。


「またって何の話?」

「ほら、あれだよ。去年の女子サッカー部の盗難の奴」


 そんな声が漏れ聞こえてくる。

 板橋の発言でそれまで日野崎のことを良く知らなかった人間にまで、彼女が女子サッカー部の盗難の犯人とされていることが広まりつつあるようだ。


「おい、待てよ。言いすぎだ」


 止めに入ったのは明彦だった。


「日野崎は忘れ物を見つけて親切に届けようとしたんだろうが。それを泥棒呼ばわりは被害妄想が過ぎるだろ」


 だが、板橋たちは「ハッ」と鼻で笑って言い返す。


「被害妄想? 馬鹿言わないでよ。そいつには前科があるのよ? 一度人の物を取っていったんだから信用できなくて当たり前でしょうが」

「だが、それは日野崎と決まっていないだろうが?」

「そいつに決まっているでしょ。レギュラー落ちして代わりに入ったあたしに逆恨みしたんだよ。それとも何? やっていないって証明できるの?」

「それは……」


 口ごもる明彦に板橋は「ほら」と勝ち誇る。


 僕も何か日野崎のために言ってやらねばと頭の片隅で考える。考えようとする。しかし、どうしたことか突然の展開に動揺するばかりで何も思い浮かばない。「どうした。何をしているんだ? 自分も明彦のように反論してやれ」そう僕の中の何かが叫ぶが、体の方はそれと裏腹に全く動いてくれない。


 日野崎は僕の窮地を何の躊躇もなく助けてくれたというのに僕ときたら焦燥で頭に血が上るばかりでどうすれば良いのか分からない。いやそれどころか「僕が何か言っても状況は変わらないんじゃないか。ならわざわざ周囲の反感を買うかもしれないようなことは言わない方が良いんじゃないか」とそんな考えが頭をよぎっていた。


 明彦が矢面に立つのを見かねたのだろうか、日野崎は絞り出すような声で「余計なことをしたよ。ごめんなさい」とクラスメイトたちの前で頭を下げた。


 僕はその姿に胸の中に鉛を詰められたように重い気分になったのだった。





 夕暮れが昇降口を赤く染めている。僕と明彦は無言で座り込んでいた。互いに言うべき言葉も見つからず、ただ重苦しい沈黙が続いていた。


「なんだ。待っていてくれたの?」

「待っていてくれたも、何も、今日は一緒に帰る約束だっただろ」


 明彦が気遣うような声音で答える。


「日野崎」


 明彦が腰を上げて、申し訳なさそうな目で日野崎を見た。僕も立ち上がって何か言おうとする。


「あの、日野崎。僕は何も、何もしてやれなくて本当に……」

「そんなこと気にしてたの? 別に月ノ下のせいじゃないでしょ?」


 日野崎は肩をすくめて飄々とした態度だった。


「あたしなら大丈夫だから。そんな心配そうな顔で見ないでよ」

「いや。でも……」

「でも、これからはもうあたしに関わらない方が良いよ」

「え?」

「だって、あんたたちまで悪く思われるじゃない」

「そんなこと、僕らが気にするわけないだろ。なあ?」

「ああ」と明彦も頷いた。 


 僕は元々クラスでも影が薄い方だ。今更孤立しようが知った事か。それよりも全く悪いことをしていない彼女をここまで追い込むこの状況が許せない。


「あんたたち、お人好しだよねえ」


 日野崎はそう言って笑って見せる。


「わかった。でもとりあえず今日は二人で帰りなよ。あたしは用事があるからさ」

 そういって日野崎は笑って僕たちの背中を押した。日野崎に押し切られるような形で昇降口から出てきた僕たちは互いに見やった。

「気丈な奴だな」と明彦は呟いた。

「うん」


 僕と明彦はそのまま校門の方へ歩き出した。しばらく僕ら二人の足音だけが響く。


「明彦」

「ん」

「ちょっとトイレ行ってくるよ。先に歩いていてくれ」

「そうか」


 僕は踵を返すと本校舎の入り口近くにある男子トイレに速足で駆け込んだ。


 トイレで用を足してから水道の蛇口で手を洗う。濡れた手をハンカチで拭きながら鏡を見ると、友人を救うために声を上げることすらできなかった腰の抜けた男の顔がそこにはあった。


 つくづく自分が情けない。それに比べて、と僕は日野崎のことを想った。


 実際、僕は日野崎に感心するばかりだった。親切にしようとした相手にあんな風に言われても文句の一つも言わずに自分のことなど心配するなと笑って見せた。なんていう芯の強さなのだろう。


 僕は自己嫌悪を噛みしめながらトイレから出て再度昇降口から下校しようとした。

その時。何かが聞こえた気がして僕は立ち止まった。なんとなく息を殺してそっと校舎の裏手の方を覗き込む。


「うあ。くっ、ひくっ……」


 日野崎だった。あの日野崎がぽろぽろと涙を流していた。正直信じられなかった。あの、男二人に平然と立ち向かってみせる勇ましい日野崎がぽろぽろと涙を流していたのだ。


 僕は内心驚きながらも「それはそうだよな」と頭のどこかで納得していた。


 考えてみれば当たり前じゃないか。日野崎だって聖人君子でもなければロボットでもない。僕と同じ大人になりきれていないどこにでもいる高校生なんだ。誰かを助けようとしたその気持ちが報われなくて傷つけられたら悲しむのが当たり前だ。さっきの僕らに見せた笑顔だって心配させまいと虚勢を張っていたに決まっている。


 きっと見苦しい自分の姿を見られたくなかったのだろう。僕はそんなことにも気づけなかった。何にせよ今できることは、何も見なかったことにしてこの場を立ち去ることだけだ。だけど。


「このままにはしておけないよな。流石に」


 僕はいつも自分の事を疑ってきた。自分のすることが本当に正しい事なのか自信をもてなくて、他人に干渉するような行為も反抗的な態度を取ってぶつかるようなことも回避して生きてきた。だが今回だけは彼女のために何かをしなくてはならない。僕は静かに決心した。

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