第8話 偽物を本物に

 廊下を誰かが走ってくる音が響く。扉を開けて入ってきたのは明彦だった。


「真守! 石膏像が戻ってきたって本当か?」

「ああ。このとおりだ」


 僕は美術室の台の上に、その石膏像を置いてみせた。高さ三十センチほどの優雅な姿勢をとった西洋の女性の像。色は経年のため白というより少し薄汚れて灰色になっている。そして胴体と手の所にひびわれを修復した跡が残ってしまっていた。


 星原から事情を聞いた次の週の朝、彼女は早速、修復した石膏像を持ってきてくれた。僕はそれを受け取ってから明彦の携帯電話に「石膏像が戻ってきたから美術室に来てほしい」とメールして呼び出したわけである。


「一体誰が戻したんだ?」

「さあ、そこまでは。僕が今日、展示室に様子を見に来たら置いてあったんだ」


 僕は星原が戻しに来たことは明彦に伏せておくことにした。そのことを話すと中野のことも話さなくてはいけなくなるし、星原の個人的な事情を僕が勝手に吹聴するのはためらわれたからだ。


「しかし、やっぱり壊されていたんだな。修復はしてあるみたいだが。……ちょっとばかりひび割れの跡が目立つぜ。まるで交通事故にあった後のリハビリ中の女性だな」


 確かに見ようによっては、薄布をまとったその姿は、包帯か患者服にみえなくもないが。


「やれやれ。俺たちがこれを持って飯田橋の所に返しに行ったら『お前らが壊したくせに誰かが持って行ったことにして誤魔化したんだろう』とか言われそうだ」

「ま、すんなり返したら、僕らが犯人にされるかもね」


 僕の言葉に含むものを感じたのか、明彦が「ん?」と僕を見た。


「明彦。これを見てくれ」


 僕はもう一つの石膏像を取り出して見せた。星原が準備した同じ形の女性の石膏像、裏側に卒業生が寄贈をした旨が刻まれていない『新品の石膏像』だ。


「……どうしたんだ、これ?」

「ま、あるところから僕が手に入れた。なあ、明彦。飯田橋先生には証拠もなしに犯人扱いされかけたことだし、一丁やり返してみないか。つまりあれさ。キリンの逸話じゃあないが『偽物』を『本物』だったことにしようってわけなんだけど」


 明彦は僕のやろうとしていることを察したのか「ははぁ」と小さくつぶやき、不敵な微笑を浮かべた。


「オーケー。その話、乗った!」




 その日の放課後、明彦は職員室の扉を開いた。


「失礼しまーす! 飯田橋先生はいらっしゃいますか?」


 飯田橋先生は席にいたが周りの席の先生は外している。他に何人か先生が残っているが少し離れたところで作業をしていた。まずまず理想的な状況だ。


「なんだ、お前たちか。どうした?」


 飯田橋先生が怪訝な表情をして僕らを見た。


「見つかったんですよ! 石膏像が!」

「何? 本当か?」


 僕が石膏像をいれた箱を手に持って駆け寄る。


「はい! こちらです」

「お、おう。それか」


 僕は飯田橋先生の机の方へ急ぎ足で近づいていく。


「しかし、どこにあったんだ?」

「先日の朝、展示室に行ったら戻してあったんです。一応、念のため飯田橋先生にお渡ししようと思いまして」


 僕は箱の上部分を開けて、飯田橋先生に見せた。そこには傷一つない新品の石膏像が入っている。


「間違いないな。しかし、まさかお前らが取っていったんじゃあるまいな」

「そんな。僕らがこんなもの持っていても何の得もないでしょう。ましてや、自分で取っていって自分で返すなんて意味のないことしませんよ……。それじゃあ、お渡しします」

「ん、ああ。わかった」


 明彦は石膏像を箱から取り出して先生に手渡した。飯田橋先生もそれを受け取って机の上に置いた。


「それじゃあ早速、大崎先生に知らせて……」


 飯田橋先生が何か言いかけたその時、ガシャンと言う激しい音が響き渡った。


「ん、なああああっ!」


 飯田橋先生は野太い大声を上げた。先生が受け取った数秒後、箱が傾いて石膏像が床に落ちたのである。


「ああっ。何やっているんですか。先生」


 わざとらしく明彦が近づいてきた。石膏像は床に落ちて首や手足などが五、六か所ほど折れてしまっている。


「い、いや。今、軽くひじか何かぶつけたかもしれんが。あ、安定していなかったのか!?」


 実は、飯田橋先生に渡した石膏像には細い糸を付けていた。そして先生が目を離した瞬間に僕が糸を勢いよく引っ張ったのである。


 白髪頭の男性教諭が狼狽した様子に、周りの先生も何事かという目で立ち上がってこっちを見ている。先生はおろおろと周りの目を気にし始めた。


「あーあ、やっちゃいましたねえ」


 明彦が飯田橋先生のそばに来て、破片を回収するふりをして死角を作る。その隙に僕は素早く糸を回収した。


 飯田橋先生は動揺してはいるものの、一応自分が受け取った後で落としてしまったことは認めざるを得ないのか、若干弱気になりながらもごもごと反論を始めた。


「いや、でも机から落とすほど体が当たったような感じはしなかったんだが……」

「まあ、待ってください。先生。もしかしたら、どうにかなるかもしれません」


 ここで状況を細かく調べられると面倒なことになる。それよりも飯田橋先生が動揺しているうちに、こちらから解決策を提示した方が丸め込みやすい。


「な、なんとかなる?」

「ええ、実はこういうのを修復する専門の店がうちの近くにあるので、もし良かったら頼んでみましょうか?」

「ほ、本当か?」

「はい」


 飯田橋先生はすがるような顔で僕を見た。




 翌日。静まり返った廊下を僕は一人歩いていた。夕暮れが近づいて、橙色の光が窓から差し込んでいる。僕は星原が修復した石膏像を持って美術室に入った。


 あの後の顛末について語ると、僕は「星原の修復した石膏像」を持って職員室の飯田橋先生に見せに行った。当然、胴体と手の所に若干修復の跡は残っていたが飯田橋先生は「あんなに壊れたものがここまで直せたのなら、まあ上出来だろう」とため息をつきながら受け取った。その後、飯田橋先生は大崎先生に「実はアクシデントがあって壊れてしまったのですが、どうにかある程度元に戻しました」と弁解しつつ石膏像を見せていた。


 言うまでもないかもしれないが飯田橋先生が壊したのは卒業生が寄贈したものではなく「星原が準備した新品の石膏像」である。そのまま修復した石膏像を渡すと「なぜ、壊されていたんだ? 誰が修復したんだ?」と勘繰られ僕らも疑われる可能性がある。


 そこで星原が用意した新品の石膏像を派手に壊してもらい、後から修復した石膏像を渡したのである。一度、偽物の石膏像が派手に壊れたのを見せた後で、今度は壊れ方がそれほどひどくはない本物の石膏像を渡せばかなり上手に修復できたように見えるわけだ。


 明彦は「だーはっはっはっ! 最高だったぜ! 飯田橋の顔ったら見物だったな!」と職員室を出た後で大笑いしていた。 


 僕はその後大崎先生に「責任を持って展示室に戻しておきます」と告げて、石膏像を持って一人で展示室に向かっていたのだった。


 展示室の扉を開けて、石膏像を飾ってあった戸棚の上にそっと置いた。


「ふう。これで一件落着ってね」

「…………そう。それは良かったわ」

「……!?」


 僕は驚いて振り返った。

 扉の裏側に立っていたのは小柄で物静かな雰囲気の少女。星原だった。


「驚かさないでくれ。……この前の仕返しのつもりか?」

「それも少しあるけれど。お礼を言いたかったの」


 彼女は両手を腰の前に組んで礼儀正しくお辞儀をして見せる。


「あなたのおかげで、石膏像を壊したのが誰かも追及されることもなかったし、私も中野さんに負い目を感じずに済んだわ。ありがとう」


 かしこまりすぎていて、むしろ僕の方が恐縮してしまいそうだ。


「別に礼には及ばないよ。僕が勝手にやったことだ。……ああ。でもこの際だから聞いておきたいことがあるんだ」

「何の話?」

「星原は下駄箱で僕に話しかけたのは、犯人探しにどの程度こだわっているのか探りを入れるためだったって言っていたよな? でもそれだけじゃあなかった。星原はあの時ハイヒールの起源の話をしたり連絡先を交換してキリンの由来のことを後で伝えてきた」

「あ。……ええ」

「あれ、石膏像の隠し場所をさりげなく教えようとしていたんだよな。でもどうしてわざわざ、僕たちにヒントをくれたのかと思ってさ。星原は中野に協力する立場に立っていた。石膏像が壊れて隠されていたことを僕らに教えたらまずいはずだろ?」


 星原は石膏像をすり替えて元に戻す手はずだった。わざわざ僕らに隠し場所を教える必要なんて特にないはずだ。


 僕の言葉に星原は虚を突かれた様子になった。む、と顔をしかめながら言葉を選ぶように答える。


「でも、その段階ではまだ石膏像の代わりが準備できるかどうかわからなかったもの。もし代わりを用意できなかったら月ノ下くんたちが犯人扱いされてしまうでしょう」


 彼女は言葉を濁しながらもごもごと答えた。


「私は良かれと思って、ただ友達を助けようと思って行動したわ。でも困っている友達を見過ごすのも望ましくないけれど、そのために無関係のあなたたちが理不尽に疑われるのも同じくらい間違っている気がして。……だから」

 

 ああ、なるほど。

 そういうことかと僕は得心した。

 

 星原は友人である中野の力になろうとしたが、その結果として僕と明彦に迷惑がかかってしまった。しかしそのまま隠し場所を教えれば成り行きとして中野のことも説明せざるを得なくなる。

 

 友人を売るようなことはできないが、そのために無関係の僕たちが犯人扱いされることを見過ごすこともできない。友情と罪悪感の板挟みという葛藤の果てに、直接教えるのではなく遠まわしにヒントを出すという行動を選んだのだ。


「つまり中野がここに隠したんだと直接教えることが出来ないから、せめてヒントを出したわけか。自分が僕らにしてやれることはこれが精いっぱいで、それでも気づかなかったのなら仕方がないと」


 そして新しい石膏像を用意してからもなるべく穏便に解決できるように尽力していた。少なくとも星原は自分の置かれた立場で可能な限り誠実であろうとしたということが僕にはわかった。

 

 彼女にとって今回の一件は本来他人事であったはずだ。だが、かつての友人が困っているのを見かねて助けたばかりに、その結果起こった「事故」の後始末までもすることになった。

 

 しかしもし上手くいかなければ何の関係もない僕らがつるし上げられる。最悪のケースを回避できるように、せめて壊れた石膏像の場所だけでも知らせておきたいと裏で奔走するはめになったというわけだ。


 まあ、実際には中野がその日のうちに像を回収してしまったので、星原のヒントをくれた行為そのものは空振りだったが。


「星原って結構いい奴だな」


 僕の言葉に彼女は「うう……」と小さくうなりながら頬を紅潮させた。


 どうやら恥ずかしがっているらしい。彼女はそんな内心を誤魔化すように逆に僕の方に質問を投げかける。


「それはそうと、私の方も気になっていたの。どうして石膏像をすり替えて先生の前で壊すなんて手間のかかることまでしてくれたの? ……いや、勿論おかげで誰が壊したのか追求されることはなくなったし、感謝はしているけれど」


 首をかしげる星原に僕は石膏像を横目で見ながら答える。


「そりゃあ、もしも石膏像が新品だとばれて、その後で本物が壊されたことが発覚したら、飯田橋先生は本格的に犯人探しをしようとしていただろうからね。それに僕と明彦だけが疑われるわけじゃあないにしても、クラス内の誰かが犯人となれば教室の雰囲気だって悪くなる」

「それで、あんな自分たちだけがリスクを負うようなことをしたの? 事情を知っていた私はともかく他の誰も感謝なんかしてくれないのに?」 


 本当のことを言うなら、星原が返そうとした石膏像が無傷だったのならそれをそのまま戻して万事めでたしめでたしだった。だが実際には本物の石膏像は壊されていたため星原が持ってきたのは代わりの新品の石膏像だ。


 いつも石膏像を見ている大崎先生なら違和感を覚えて「卒業生寄贈」の文字がないことに気が付いてしまうかもしれない。そうなれば、家が古美術商をやっている星原に疑いが向くのも時間の問題だろう。


 僕としては、友人をかばうために精一杯できることをしようとした星原が一番危ない橋を渡らされて、最後に泥をかぶることになるのが見るに堪えなかった。


 この世に存在するもので永遠に変わらないものなんてないかもしれない。しかし変わり果ててしまったものの本来の姿を気に留める星原の気持ちを、中野との関係に昔の形を見出してかつての友人を助けようとする星原の気持ちを汲んでやりたかった。


 だから一計を案じて飯田橋先生の前で一芝居打つことにしたわけだが、本人にそれを言うのはどうにも恥ずかしかったので建前と少しの本音を混ぜた答えを返すことにする。


「でも、中野も星原も追及されずに済んだし皆は持ち物検査を受けずに済むし、クラスの雰囲気も悪くなることを避けられた。全部丸く収まったんだから。別に良いじゃないか、これで」

「つまり、誰かに解ってもらえなくたって自分がこうするのが正しいと思ったからこうした?」

「そういうことだ」


 僕がこれ以上の説明は野暮だと言わんばかりに会話を終わらせようとしたその時。


 くっくっと不意に荒い息遣いのような、こもった咳のような音が響き始めた。


 いや、目の前の星原から聞こえてくるこれは……笑い声だ。


 笑い声? 


 普段は無表情なすまし顔しか見せない、まるで人形のようなあの星原が?


 彼女は手で顔を抑えていたが、やがてこらえきれないというように声を出して笑い始めた。


「あはっ! あははははっ! 私も変わっている方だと思っていたけれど、あなたも結構変わっているわ」


 人を助けて変わり者呼ばわりされるとは、我ながら割に合っていない。だが虚勢や強がりを抜きにして僕は別にどうとも思わなかった。


 そもそも、感謝されようと思ってしたことではない。これは僕の性分なのだ。


 そうしないとなんだか気持ちが悪いという感覚のなせる業であり、つまりは自己満足だ。


 そしてもう一つ付け加えるなら。


 今、僕の目の前にいる屈託のない彼女の笑顔が、初めて見る彼女の笑顔が存外に可愛らしくて、僕の心象などどうでも良くなったということもある。


 何にせよ、用事は済んだので踵を返して帰ろうかと思ったその時、いつの間に距離を詰めていたのか、星原の顔が僕のすぐ近くにあった。


 彼女がきらりと目を輝かせて僕の顔を覗き込んでくる。


「……え? な、なんだよ」

「……ねえ。一つ聞きたいのだけれど、あなた部活には特に参加していないのでしょう?」

「そうだけど」

「じゃあ文芸部に入らない?」

「文芸部?」


 唐突な申し出だ。

 それに僕はこの学校に文芸部があるなんて聞いた覚えがない。


「そんな部活あるのか?」

「あるわ。私が勝手に作ったのだけど」


 それは非公式部活、というより同好会以下なのではなかろうか。


「ちなみに部室はどこにあるんだ?」

「図書室の隣の空き部屋が半分倉庫みたいになっているのを知っているでしょう? 実はあそこを先生の許可をもらって放課後使わせてもらっているの。家だと落ち着いて小説の構想とか練れないから」

「僕は創作活動にはあまり興味ないけど」

「別にあなたは何も書かなくてもいいの。ただ私の小説の構想とか聞いてもらって、感想や意見を言って欲しいの。自分じゃ良し悪しが分からないし、あなたの独特の目線というか考え方は結構参考になる気がするしね」


 どうやら星原は小説家を志望しているらしい。この間、展示室で話したときに「物語が一つ書けそう」とか何とか言っていたのは、その関係だったようだ。


「念のため聞くが、星原は他の誰かにも今までこんな風に声をかけたりしたのか?」

「……いいえ」


 ほんの一瞬葛藤してから彼女は答えた。


「じゃあ、他の人には内緒ってことにしておいた方が良いのかな」

「ええ。そうしてもらえると助かるわ」


 あまり他人に自分が小説を書いていることを知られたくはないらしい。


「ええっと。図書室の隣の空き部屋だっけ? そんなところを個人的な理由で使うのに、良く許可してもらえたもんだな」

「一人で集中して受験勉強するのに使うので、お願いします、っていったらOKしてもらえたわ」

「嘘ついたんかい」

「将来の目標のために参考になる本を読んだり、思索にふけるのも勉強のうちだもの。それで、どう? 毎日でなくとも、気の向いた時に来てくれればいいのだけれど」

「とりあえず、退屈はしなさそうだな」


 僕の遠回しな肯定を彼女は微笑で受け入れた。


「それじゃ、いつなら来られそう?」

「えっと、予備校がある日とかもあるから。……火曜と金曜ならべつに良いと思うけど」

「わかったわ。それじゃあ火曜と金曜の放課後に来てくれる?」

「ああ、了解した」


 こうして僕と彼女は放課後を共に過ごすようになった。


 そして、僕はこれをきっかけにいくつかの事件と遭遇するようになり、彼女とそれにかかわる数々の議論を交わすことになるのだが、それはまた別の話だ。

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