第5話 騙し絵は何を語る
美術室に入ると何人かの生徒たちがキャンバスに向かいあって絵筆を動かしている。おそらくは美術部員だろう。僕らは軽く会釈して(無視されたが)石膏像が無くなった展示室内に再び足を踏み入れる。
「特に前と変わった様子はなさそうだな」と明彦が呟く。
僕も室内を改めて眺めてみる。
ガラスの陳列棚とその中に展示された彫刻や日本画、卒業生が残したらしい版画。授業の際に使う道具や色彩表などが仕舞われた戸棚とその上に置かれたブロンズ像。そして、その上の壁には絵画がかけられている。
「本当だ。……石膏像はここの戸棚の上にあったはずなんだよね」
僕は言いながら戸棚の一番大きな引きだしを開けてみる。もしかして石膏像を隠してあるのではないか、と期待してみたが中に入っていたのはデッサンや美術関係の専門書だけだった。
「ああ、ブロンズ像の横にな。そのカエルが描かれた絵の下のあたりだ」
明彦の言葉に引っかかるものを感じる。
カエル? 蛙?
「あれ? そこにあったのってカエルじゃなくて馬の絵じゃなかったっけ?」
僕は一年の時に何度か展示室に入ったことがあるが、確か展示室内に飾られていたのは馬の頭が描かれた絵だったはずだ。。
「いや? この絵はどう見てもカエルだろ?」
僕は引きだしを閉じて顔を上げる。壁にかかっていたのは、明彦の言うとおり横長の額に入れられたカエルの全身を真横から描いた絵だった。いや……これは?
「…………明彦。やっぱりこれは、馬の絵だよ」
「は?」
「この絵は……騙し絵だ。見る角度で別の絵になるんだ。首を九十度折り曲げてみてくれ」
「そんなナチュラルに自殺を教唆されても困るが」
「ああ、悪かった。言葉のあやだ。腰でも首でもいいから、とにかく視線を九十度傾けてこの絵を見てくれ」
「ん、……ああ! なるほどこりゃあ、馬の頭だな」
明彦は体操をするときのように腰を真横に曲げて、絵を見上げながら呟いた。
そう。壁に飾られた絵は一見するとカエルだが別の角度から見ると、カエルの顔の部分が馬の鼻になり、カエルの後ろ足の付け根の影が馬の目に見えるような構図になっていたのだ。
「明彦はこういう絵があった事、知っていた?」
「いや、何度か出入りしていたけど意識したことはなかったな」
とその時、僕の脳裏に昨日の星原とかわした会話が甦った。
『自分の足で見上げた方が』
『本来の姿から別のものになり果てる』
『話の裏を調べてみたら』
上を見上げる? 別のものになる? 裏を調べてみたら?
「なあ。明彦はキリンがどうしてキリンと呼ばれているのか知っているか?」
明彦は振り返って、何を言いだすのかと言う目で僕を見た。
「そりゃ、あれだろ? 中国の伝説上の生き物の名前からとったんじゃなかったか」
「その通りだけど、もう少し詳しい逸話がある。昨日ちょっとしたきっかけがあって調べたんだけどな。麒麟というのは顔は龍、鹿の身体に、馬のような蹄と牛の尾を持つ伝説上の霊獣で、この生き物が姿を現すのは素晴らしい政治が行われている時代とされていたんだ」
「……それで?」
「そこで明の時代に皇帝の家来が『皇帝の治世は麒麟が現れるくらい素晴らしいんですよ』と持ち上げて機嫌を取るために、首の長い草食動物いわゆる英語で言うジラフを連れてきて麒麟ということにしてしまったんだ。それにちなんで、その後も日本ではキリンとよばれるようになった。……架空の生き物の名前だったのに実在の生き物をそれに見立てた結果、本当にそう呼ばれるようになったというわけさ」
明彦は僕の言葉を聞いていたが、なおの事よくわからないという表情をする。
「つまり? その話が何なんだ?」
「不自然に歪められた物事には誰かの意図が介在しているってことだよ。この絵も本当は縦長の馬の絵だったのに本来とは違う見方をすることで、横長のカエルの絵として見られている」
「誰かが目的を持って絵を傾けたっていうのか?」
「ああ。……なくなった石膏像は土台は十センチ四方で高さは三十センチぐらいだった。これを踏まえると、この『縦』に飾られた絵を誰かが『横』にしたことには意味があるとは思わないか?」
僕は言いながら近くにあった踏み台を戸棚の前に持ってきた。明彦はああ、と納得した表情になる。
「そういうことか。この絵が入っている額は木の板で出来ているし、あの女性の石膏像を裏側に隠すことぐらい出来るかもしれないな」
「ただし、それには『絵も横長にして飾らないと』安定しないし横から見えてすぐばれちゃうだろうけどね」
踏み台の上に足を乗せ、僕は絵の裏側を覗き込んだ。しかし、そこには……。
「どうだ? 石膏像はあったか?」
「石膏像はなかった。……でも」
「……?」
「こんなものがあった」
ぼくは「それ」を指でつまみあげて、明彦に渡した。
「こりゃあ、『手』か? 石膏像の『手』の部分?」
そう。手のひらに乗せられるほどの小さな白い塊、それは石膏像の手の一部分だった。明彦はため息をついてぼやいた。
「なるほど。石膏像はここに隠してあったが誰かが持って行ってしまった。しかも今や無傷じゃないらしい」
「そうだね。ここに隠してあった。たぶん僕らが掃除していたときも石膏像はなくなったように見えたけれど、実はごくごく近く頭上に置かれていたというわけだ」
明彦は僕の言葉にううむと唸って考えをまとめ始めた。
「ということは犯人は『美術の授業が終わった直後』にさりげなく展示室に行って石膏像を隠した。そして、人気が無くなってから回収しに来たということか。おいおいこいつはヘビーだ。絵の裏に石膏像を隠すぐらいものの数十秒でできる。授業が終わってクラスの人間が教室に戻ろうと動きまわっている最中に、ほんの少しの時間誰かが展示室に入ったとしても気にかける奴なんていない。どうやって犯人を探し出せばいい?」
頭を抱える明彦をよそに、僕は疑問が頭をかすめていた。
つまり「星原は何故、石膏像が隠されていた場所を僕に示唆したのか」ということだ。
隠された場所を知っていたということは彼女が犯人なのだろうか。
しかしそうだとしたら、わざわざ遠回しに僕に教える理由がわからない。
それとも星原は犯人ではないのか?
そう、例えば別の誰かが石膏像を隠したが、星原はそのことを知っていたのでさりげなく僕に在りかを教えようとした。
うん。これが一番しっくりくる。星原が犯人なら大事になりそうになったからと言って自分からヒントを出して見つけさせるのはリスクが高すぎる。
ということは「犯人である別の誰か」は星原のよく知っている身近な人物なのだろうか。
それはいったい誰なのか。
石膏像を持って行って得をする人間なんているのだろうか。
頭の中に疑問符が次々と浮かぶが、どれ一つとしてまともに答えが出てこない。
犯人の動機がわかれば自ずと特定も可能になる気がするのだが。
明彦も完全に思考が行きづまったらしくワシワシと頭を掻きむしっていた。
「この場でこれ以上考えてもどうしようもねえな。……とりあえず今日は諦めて帰ろう。何か思いついたら互いに連絡するということにしようぜ」
明彦が疲れた表情でそう呟く。僕もその言葉に頷いたのだった。
僕の家は都内から電車で一時間程度のベッドタウンにある一軒家である。
「ただいま」と言いながら玄関を開けると「あら。おかえりなさい」といつもの声で母さんが出迎える。
僕と少し目元が似ていて、年齢より一回り若く見られるのが自慢のごく普通の専業主婦だ。
「あと三十分くらいで夕飯だから着替えて一息ついたら下りていらっしゃい。お父さんは仕事で遅くなるから先に二人で食べましょう」
「はーい」
僕は二階の自室の部屋に入ると、部屋着に着替えてごろんとベッドの上に横たわった。
宿題や予習などやることがないわけではないが、それよりも例の石膏像の一件をはっきりさせないと落ち着かない。僕は天井を見上げながら石膏像の一件について考えを巡らせることにした。
まず状況を最初から整理してみよう。
犯人は一昨日の六時間目の美術の授業が終わった後で片付けをする生徒たちの喧騒にまぎれて展示室に足を踏み入れた。そして縦長の馬の絵を横に傾けてその裏に石膏像を隠してから教室に向かった。
その後ホームルームが終わり、僕と明彦が掃除をしていた間もそのまま石膏像はあの場所に置かれたままだった。
しかし二日後に僕らが展示室に入った時には、もう犯人は石膏像を人目につかないうちに回収してしまった。
その過程で何かのアクシデントがあったのか石膏像は傷物になってしまったというわけだ。
ここまでの流れに間違いはないだろうかと僕は自分の思考を見直してみる。
「……いや、待てよ」
ひょっとして「石膏像を隠した後で壊れた」のではなくて、「壊してしまったから石膏像を隠した」という可能性はないだろうか。
こういっては何だが石膏像自体には大して金銭的価値があるわけでもない。持って行ったところで大したメリットはないはずである。しかしもし壊してしまったのだとしたらそれを誤魔化すために一時的に隠す必然性が生じてくる。
ただ、だとすれば犯人はたまたま他の目的で展示室に入った結果、石膏像を壊して隠す羽目になったということになる。しかし、その「他の目的」とは何なのだろう。
美術部員ならともかく特に用のない人間が入るところではないのだ。普通ならば。
それとも、あの時いつもと違う何かがあっただろうか? いや待てよ。明彦が飯田橋先生に問い詰められたときに確か……。
『そうですよ! それに僕ら基本的には真面目な生徒ですよ? 現に昨日の持ち物検査でも何も持っていなかったでしょう?』
そうだ。確か一昨日は持ち物検査があったのだ。
もしかすると犯人は持ち物検査で見つかると困る物を展示室に隠そうとしていたのではないか。そしてその時に誤って石膏像を壊してしまった。その為とっさに石膏像を隠してあとで持ち去ったとすればつじつまが合う。
ということは……。
僕の脳裏にある発言をした人物が思い出された。「あの人物」が犯人なのだとすれば、説明がつく。動機も僕自身の想像と言うかこじつけに近いが可能性としてありえないとは言えない。だがそれをどうやって確かめるかが問題だ。
しかし、星原はこの件にどう絡んでいるのだろう。
彼女は石膏像の隠し場所を知っていた。つまり犯人と近しい関係ということになる。そして僕にさりげなくそれを教えたのだとすると「問題が大きくなる前に僕らに回収させようとした」ということだろうか。
ううむ、と僕が唸ったそのとき「御飯よ! 下りてきなさい」という母さんの声が階下から響いてきた。僕は一度、考えるのを止めてベッドから起きあがる。
階段を下りて一階のリビングルームに行くと、テーブルの上に食事が並べられていた。
食卓に着いて僕はいただきますと手を合わせて礼をし、母さんも同じようにして箸を手に取った。
「そういえば、この間の調理実習は上手く行ったの?」
急に母さんに話を振られて、僕はとぼけた返事をしてしまう。
「へ? 何だっけ?」
「この子はもう。あなたが家庭科でカレーを作るって言うからお母さんが作り方のコツを懇切丁寧に伝授してあげたんでしょうが」
ああ、そう言えばそんなことがあった。
「ありがとう。おかげさまで上手く行きました」
「人から何かしてもらったら、その結果は報告するものよ。大体してあげた側だって責任があるし上手く行ったかどうか気になるでしょうが」
「ああ。はい、失礼しました」
全く細かいなあ、と心の中で呟きながらふと疑問に思う。
「でも、母さん?」
「ん?」
「逆に、もし誰かを助けようとアドバイスしてあげたとしたとして、その結果悪い方向に行ったら責任感じたりする?」
「何の話?」
「いや、例えばだけど」
「まあかえって悪くなるようなことがあれば、責任感じるかもしれないわね。それがどうかしたの?」
「いや。……別に」
確か星原の家は古美術商だと言っていた。それならば石膏像を手配することくらいできるかもしれないな、と僕は頭の片隅で考えた。
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