Epilogue.
一八九〇年、雪降る夜に
控えめなノックの音が響いた。
そこで、うとうとしていたドロッセルは我に返っていた。
目をこすりながら、「どうした?」と声を掛ける。その手元には調整途中のマギグラフの部品や、工具類などが広がっていた。
「――お茶をお持ちしました」
「ん? ああ……ありがとう。入ってくれ」
ドアが開き、銀の盆にティーセットを載せたノエルが入ってきた。ドロッセルはいったん手を止めて、静かに茶の支度を調える従者の姿に見入った。
「……本当に、キャロルが帰ると一気に静かになるな」
「はい」
「あいつはしゃべってないと落ち着かない奴だからなぁ……」
「そうですか」
淡々としたノエルの応答を聞きつつ、ドロッセルはぐっと伸びをする。
夕食を終えてからずっとマギグラフの調整に勤しんでいたせいで、体中の筋肉が固まってしまっていた。軽く首の骨を鳴らしながら、ドロッセルは立ち上がった。
ベッドの上で、トム=ナインがなにやら寝言を言った。
そのふさふさの毛並みを一撫でしてやりつつ、ドロッセルは窓辺に向かった。
「……今日は街も静かだな」
呟きながら、カーテンを開ける。そこで、ドロッセルは思わず歓声を上げた。
「わぁ、雪だ……!」
白い薄片が、闇に舞っている。
まるで空から粉砂糖を振りまいているようだ。雪はオレンジ色のガス灯に煌めきながら、待ちの景色を徐々に白く塗り替えていく。
「ねぇ、ノエル! すごいよ、雪が――っ」
珍しくはしゃいで、ドロッセルは振り返った。
が、いつも通り無機質なノエルのまなざしを受けて我に返る。見る見るうちにその顔が紅潮し、ドロッセルはごまかすように何度か咳払いをした。
「……雪が、降っている。きれいだ」
「そうですか」
必死で子供じみた一面を隠そうとする主の様子など気にするそぶりもなく、ノエルは答えた。
そして湯気を立てるカップを手に、静かに近づいてきた。
窓辺に腰掛けたドロッセルの傍に立ち、窓硝子を覗いて一言。
「雪ですね」
「ああ」
「明日は水道管凍結の恐れがあります」
「うん……」
こんなに味気のない会話はあまりない。ドロッセルはゆるゆるとうなずきながら、本来なら心弾むはずの雪景色を力無く見つめた。
と、そこにカップが差し出される。
「どうぞ、お嬢様」
「あ……ああ、ありがとう」
カップを受け取り、ドロッセルは口を付けた。
いつも通りの優しい味が広がった。ほんの少しのミルクと、少し濃いめに淹れた紅茶のどっちりとした渋み、ゴールデンシロップのほのかな甘さ。
ドロッセルの好きな味だ。
ノエルがこれを淹れてくれるたびに、ドロッセルはなんだか嬉しくなる。
『心がない』『心を持ってはいけない』と言い切る彼が、ちゃんと自分の好きなものを覚えていてくれていること。感情が希薄でも、そんな心遣いをしてくれること。
そんな些細なことに、心が暖められる。
ドロッセルはふっと微笑んで、もう一口紅茶に口を付けた。
「……さっき、父とのクリスマスを思い出した」
「そうですか」
ノエルの返答は淡泊だ。ドロッセルは特に気にせず、言葉を続ける。
「いつのことだったかわからない。ただ、私がさんざんいじめられた後で……父に、クリスマスなんてくだらないって言われた後だったかな」
いじめられて、父の冷たい言葉に傷ついて。
そうしてドロッセルは泣き疲れ、ベッドの中で眠りについた。
「泣いて、眠って、そうして起きたら――驚くことにプレゼントがあった」
小さな箱がドアの前に置いてあった。
枕元にも、ツリーの下にもない。包装すらもされていない。
そんな、あまりにもやる気も素っ気もない
「……この時点で私はもう
ドロッセルはそこで言葉を切り、頭に手を伸ばした。
高く結い上げた赤髪――それをまとめている髪留めを外し、掌に載せる。
「これが、入っていたんだ」
小さなガーネットを嵌めた金属の髪留めだ。飾り気のない質素な見た目だが、頑丈な造りをしていて、どれだけ落としてもぶつけても歪み一つない。
「……多分、これはあの人が作ったんだと思う」
ドロッセルは、じっと髪留めを見つめた。
今でも父を恐れている。そして恐らく、憎んでもいる。
――けれども、本当にそれだけなのか。
そして、父はどうだったのだろう。自分のことを、どう思っていたのだろう。
小さな髪留めは何も答えない。
ドロッセルは緩く首を横に振った。赤髪をまとめ、再びガーネットの髪留めを着け直す。
やがて、その視線は部屋の隅に置かれたコート掛けに向けられた。
そこにはワインレッドのコートが――ベルベットが下がっている。
見た目には普通のコートのようにしか見えないが、時折ゴゴゴと小さな寝言が聞こえた。
「――父の本を読んでみようと思う」
ドロッセルはぽつりと言った。
ノエルは表情も変えず、じっと主人を見つめる。
「お前が先日言ったとおりだ。私は父でも、父の所有物でもない。私は私の意思で、私の人形を作る。今までも――これからも」
ドロッセルはきっぱりとした口調で言い切ると、髪留めに触れた。
金属は冷たく、ひやりとしている。
「お前の言葉だけじゃない。マリブと出会って……そして、プラーと戦って。少しだけ、あの人の技術を学ぶことに自分の中でも区切りが付いた気がする」
常人でありながらも仕事屋を目指すマリブ。
そして、父と瓜二つの姿に変じたバルトアンデルス。
この二つの出会いがもたらした変化は、きっとこれから自分が生きていく上でとっても大切なものになる――そんな気がしていた。
「……考え方を変えるきっかけになったのはお前の言葉が大きい。ありがとう、ノエル」
「いいえ、お嬢様。私は何も、大したことは」
ノエルは目を伏せ、恭しく礼をする。
窓辺に置いたカップに手を伸ばし、ドロッセルは紅茶に口を付けた。
「さっき、プディングにおまじないを掛けただろう?」
「はい」
「私はいつも、『来年の自分は少しでもましになっていますように』って祈っていたんだ」
ドロッセルは小さく笑って、自分の手に目を落とす。
「『魔術が安定するように』『少しでも皆に馬鹿にされないように』……って。来年の自分が、少しでも惨めでないようにと祈っていた」
ノエルは無言だった。
その視線が自分の左腕に注がれているのを感じながら、ドロッセルは窓を見る。
窓硝子に浮かぶ露に、街灯の明かりが滲んでみえた。
「……今年は違うことを願った」
左手を伸ばし、窓硝子に触れる。
指先が少しだけ濡れた。しんしんと冷えた夜気が伝わってくる。露の浮かぶ硝子にすっと線を描き、ドロッセルは口を開いた。
「『来年も皆で過ごせるように』と願った。……そうして、ちょっと決意した」
「決意?」
「ああ。『もっと強い意志を持とう』って」
囁き、線を結ぶ。窓硝子に描かれた円を見て、小さくうなずく。
「……今年は、異端免許をもらった。それだけじゃなくて、いろんなことがあった」
異界に迷い込んだ。
レプリカや異形と戦った。人間に殺されかかった。
ただただ恐怖の対象だった父親の知らない一面を知り、忘れていたことを思い出した。
そうして自分の傷と心臓の秘密を知り――従者に出逢った。
そんな激動の日々の中で、ドロッセルは気づいた。
「私には、わからないことが多い。将来のことも、自分のことも。迷うことも、悩むことも多い……これからどうすればいいのか、どうなるかもわからない」
「だから、」とドロッセルはいったん言葉を切り、ノエルに視線を向ける。
ノエルはいつも通りの無表情で、見つめ返してきた。日没後の闇のような――あるいは夜明け前の闇のように青い瞳を見つめ、ドロッセルは口を開いた。
「……せめて、意志を強く持とうと思う」
いかなる事象にも揺るぐことのない不動の意思。
そんな強い自我を持てば、きっとこの先に何が起ころうとも恐れることはない。
ドロッセルはそう言って、きつく左手を握りしめた。
「私はまだ未熟だ。お前に苦労を掛けることもあると思う。だから――」
「――なにがあろうとも、どのような時でも」
耳に心地に良いテノールの声に、ドロッセルは口を閉じる。
ノエルは表情も変えずにドロッセルを見つめていた。その口が、言葉を続ける。
「私は貴女の従者です。――お嬢様」
「……そうか」
ドロッセルはうなずいた。何度も、うなずいた。
窓の外の明かりは滲み、揺れて見える。それを見ながら、カップに口を付けた。
紅茶は少し冷えてしまっている。
しかし、何故だか寒さが和らいだように思えた。
胸の奥底が落ち着いたような気がした。いつも――無意識下でずっと揺らぎ続けていた心が、静かなノエルの声に鎮められた。
ドロッセルはまた紅茶に口を付け、「そういえばお前は何を願ったんだ?」とたずねた。
すると、ノエルが珍しくたじろいだ気配があった。
「ノエル?」
隣を見ると、ノエルはすでに佇まいを直している。
しかし、やはり少しだけ様子がおかしい。無機質な青い瞳をまたたかせ、彼は白い手袋を嵌めた手を口元に当てた。表情を隠そうとしているように見えた。
「別に、言いたくないなら無理に言わなくとも――」
「――貴女の」
感情のない声に、ドロッセルは口を閉じる。
ノエルは口元に手を当てたまま、言葉に迷うように唇を動かした。
しかし、そこで彼はまぶたを伏せた。
「……特別なことは願っておりません」
「そうか、わかった」
本当は気になった。
『貴女の』――その後に、何を言おうとしたのか。ノエルが願った『特別なことでないこと』は、一体なんだったのか。
しかしそれ以上は言及せず、ドロッセルは微笑んでうなずいた。
ぬるくなった紅茶で手を温めながら、窓の外を見る。
「……明日の朝は、雪が積もっているといいな」
「路面凍結の恐れもあります」
「あ……うん。怖いからな、路面凍結」
淡々と話すノエルの言葉に苦笑して、ドロッセルは紅茶を飲み干した。
窓の外は、どんどん白くなっていく。その景色を見ていると、自然とある歌が唇から零れた。
「Should auld acquaintance be forgot,」
オールド・ラング・サイン――その歌を小さく口ずさみ、ドロッセルは目を伏せた。
「……父が好きな歌だった」
「そうですか」
「ああ」
ドロッセルはうなずき、さらに「and never brought to mind」と歌う。
そうして、囁いた。
「…………私も、この歌が好きだと思う」
躊躇いがあった。
父と同じものが好きだと言うことに、何故だかいつも喉を緩く絞められるような抵抗を感じていた。けれどもドロッセルはそれを堪え、言い切った。
「うん……やっぱり、好きだ。私もこの歌が好き」
「……歌に続きは、あるのですか?」
ノエルに静かにたずねられ、ドロッセルは一瞬目を見開いた。
しかしすぐにその表情をぱっとほころばせ、「ああ」と何度もうなずいた。
深呼吸して、咳払いをして喉の調子を整える。先ほどまでは気にならなかったはずなのに、ノエルが耳を傾けていると思うと気合いの入り具合が違った。
そうして、ドロッセルは歌う。
隣で、ノエルが静かに耳を傾けている。
窓の外では、闇がますます深まっていく。
煌めくロンドンに、真白の雪が降り積もっていく。
――一八九〇年のクリスマスが、ゆっくりと過ぎていく。
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