3.プディングに願いを

 そして十二月二十四日は飛ぶように過ぎ――十二月二十五日。

 クリスマスを迎え、街は一転して静まりかえっている。

 この日、人々は親しい友人や家族とともにディナーをとり、クリスマスを楽しむ。そのため常はひっきりなしに街を行く馬車の姿も、自動車の影もない。

 そして、マイヤー人形工房はクリスマスの支度を完遂した。

 ヒイラギやキャンドルで飾られた食堂で、ドロッセルは天井を見上げ放心していた。

 膝の上では、トム=ナインがぐぅぐぅと小さないびきをかいて眠っている。

 そしてドロッセルの向かいの席には、キャロルがついていた。

 テーブルに突っ伏したまま、死んだように微動だにしない。


「……クリスマスおめでとう」


 かすれた声で呼びかけると、小さく頭を揺らした。どうやら生きているようだ。


「おはようございます」


 静かな挨拶とともにノエルが入ってくる。手には銀の盆をもち、湯気の立つ紅茶とコーヒーとを満たした二つのカップとビスケットの皿を載せている。


「……おはよう、ノエル」

「…………う」


 ドロッセルは力無く挨拶し、キャロルは小さく呻いた。

 ノエルはうなずくと、ドロッセルの傍に紅茶のカップを置いた。そしてキャロルの傍にコーヒーを置き、ビスケットの皿を中央に配する。

 ほぼ同時に二人から手が伸び、温められたほかほかのビスケットを取った。


「朝食はどうなさいますか」

「……いらない。どうせ昼からクリスマスディナーだもの」


 顔をわずかに動かし、キャロルはテーブルに半身を横たえたままビスケットを貪る。淑女的には眉をひそめるようなマナーだが、そう言っていられるような状態でもない。


「そうだな……あとはもう、ガチョウをローストするだけだ」


 ドロッセルもまたさくりとビスケットをかじり、呟いた。

 が、そこで首を横に振る。


「いや……まだ一つあった。大事なことを忘れていた」

「大事なことぉ?」


 コーヒーをぐびぐびと飲みながらキャロルが眉を上げた。

 ドロッセルはうなずくと立ち上がり、いったん部屋を出た。台所の戸棚から木べらと、布で蓋をした銅製のボウルを取り、再び食堂へと戻る。


「これだ、クリスマス・プディングだよ。全員でかき混ぜないと」

「……プディングならもう一月前に作らなかった?」


 クリスマス・プディングは、イギリスのクリスマスには欠かせない菓子だ。

 様々なドライフルーツやナッツを風味付けし、牛脂とともに生地に練り込む。これを一度蒸し上げてから熟成し、クリスマス当日に再度蒸すことで完成する。


「十一月はばたばたしていたから、作っている暇がなかったんだ。それに、先生がいつパリから帰ってくるかもわからなかったから」

「あー……そうだったわね。じゃ、その生地とっとと蒸しちゃいなさいよ」

「そうもいかない。ほら、おまじないをやらないと」


 ドロッセルは断固として首を振り、ボウルを持ち上げた。

 すると、再びテーブルに突っ伏していたキャロルの肩が細かく震える。くつくつと笑いながら、彼女は首をひねってドロッセルを見上げた。


「律儀ねぇ、それ」

「クリスマス・プディングにおまじないは欠かせないだろう」

「……おまじない?」


 ノエルが無表情のまま、少しだけ首を傾げた。


「ああ、クリスマスプディングにはおまじないがあるんだ」


 ドロッセルはうなずき、木べらを入れたボウルをテーブルに置いた。


「生地を蒸す前に、一人ずつ願い事をしながら一回ずつ生地を時計回りにかき混ぜる」

「なんだか毎回これやってるのよねぇ。可愛らしいこと」


 キャロルがさっそくボウルを引き寄せ、ぐるりと生地を時計回りにかき混ぜた。

 そして目を閉じ、意識を集中する。

 からかっているような口ぶりだったわりに、願いをかける様子は真剣だ。なんだかんだ彼女もこの慣習を気に入っているのかもしれない。

 目を閉じて願うキャロルの姿は、いつにも増して美しい。

 少し伏せた顔に、亜麻色の髪がはらりとかかっている。高い鼻梁、整った眉、艶やかな唇。こうして静かにしていると、その美しさが際立って見えた。

 まるで絵画に描かれた聖女のようだ。


「――お金がいっぱい欲しい」


 しかし願い事は聖女にはほど遠いものだった。


「欲望に忠実だな」

「そりゃお金はいっぱいあって困るものじゃないでしょ。――ほら次、あんたよ」


 ドロッセルはボウルを受け取り、木ベラを手に取った。

 取るに足らないおまじないだと頭ではわかってはいる。それでもこの時は、一年の中でもっとも大切な儀式のように思えてならない。

 何を願うか。何を望むか。

 今までは、ずっと次の一年は今のひどい自分よりましになるようと願っていた。その仄暗い願いは、いまだに叶った気がしない。今も心のどこかで燻っている。

 今年も、そう願うのか。

 ドロッセルは数秒考えた後、ぐるりと生地をかき混ぜた。


「……よし。私は願った」

「なにが欲しいって願ったの? 身長? 美貌? それともおっぱい?」

「呪われろ。――ノエルはどうする?」


 ボウルを手に、ドロッセルはノエルに視線を向ける。


「……従者がすることではないでしょう」

「そうか。私は主人とか従者とか、別に気にしなくとも良いと思うんだが……」

「いいえ。主従の境界は重要です、お嬢様」

「そうか」とドロッセルは言葉を濁し、ボウルの中の生地を見下ろした。


 従者としての立場を重んじるノエルの価値観は尊重する。

 しかし、それでも少し寂しい気がした。

 それに彼には、願うという行為はやや難しいものかもしれない。


「まぁ、無理強いはしないよ。じゃあ――」

「別に気にしなくても良いと思うわよ」


 その視線が一気にキャロルに集中する。ドロッセルとノエルだけでなく、いつの間にか目を覚ましていたトム=ナインまでも彼女を見つめていた。

 それを気にする様子もなく、キャロルはコーヒーにビスケットを浸している。


「主人も従者も、富めるものも貧しきものも、常人も異端者も関係なし。愛と寛容、慈悲と平等の季節。それがクリスマスってものでしょう?」

「キャロル……」


 珍しく良いことを言う。ドロッセルは一瞬感動した。

 さくりとビスケットをかじり、キャロルは満足げにうなずいた。


「……いいわねぇ、クリスマス。将来的に世界人類全てがあたしを崇めるようになっても、クリスマスだけは残しておいてあげることにしましょう」

「キャロル……」


 なんだかひどくがっかりした気分になった。

 肩を落とすドロッセルをよそに、ノエルは唇に指を当てて考え込むそぶりを見せた。

 その様を見て、キャロルはふっと微笑んだ。


「なにかを願ったり祈ったりすることに、立場なんて考えなくて良いのよ」

「……そうですか」


 ノエルはいつも通り答えた。

 そうして、ドロッセルに向かって手を差し伸べた。

 一瞬ドロッセルはその意図を掴めず、ノエルと彼の手とを見た。しかしどうやら彼がボウルを求めているらしいと察すると、恐る恐るその手にボウルを渡した。

 ノエルはそれを受け取ると、しばらく中身を見つめた。

 やがておもむろに木べらに手を伸ばすと、ぐるりと時計回りに生地をかき混ぜる。

 瞼を伏せ、数秒。

 目を開いたノエルは、無言でドロッセルにボウルを差し出す。


「……もう、いいのか?」

「はい。願うべきと思われることを願いました」

「そうか。なら、良かった」


 受け取ったボウルの重みは変わらない。

 中の生地が増えたわけでも、なにか特別なスパイスが加えられたわけでもない。

 けれどもドロッセルはなんだか嬉しくなって、ボウルを見つめた。

 そしてそれを、トム=ナインの前に差し出す。

 トム=ナインはボウルを覗き込み、なにやらにゃごにゃごと鳴いた。

 続いて、ボウルは椅子の背に掛けてあったベルベットの前に。

 ベルベットは襟を揺らし、ゴゴゴと低い声で鳴いた。

 願いをかけたのかどうかは不明だが、とりあえず彼らに代わって生地をかき混ぜてやった。


「よし、これで全員だな」

「そうね。まぁ今年は店長がいないけど仕方がないわ。ちゃっちゃと蒸しちゃいましょ」

「オーブンにはすでに火をいれてあります」

「ありがとう。今年は熟成が足りないのが少し気がかりだな」

「そんなに悪くはならないんじゃない? じゃ、お昼作っちゃいましょ。――あ、あたし、お昼食べたら帰るから。同居人が待ってるし」


 隠されていたガチョウは綺麗に焼き上がった。

 クリスマス・プディングも蒸し上がり、そこそこ満足の行く出来になった。

 夜のうちにあらかた支度を終えていたこともあり、クリスマス・ディナーの用意は流れるようにして終わった。前日の嵐のような有様が嘘のようだった。

 アルコールを飛ばしたモルドワインのグラスも全員に行き渡り、全ての支度は完了した。


「……今年も、問題なくクリスマスを迎えられたな」


 テーブルに並べた皿を見て、ドロッセルは小さくうなずく。


「色々あったけどねぇ」


 ぱんっとクラッカーを鳴らして、キャロルはその中身を確認した。折りたたまれた紙製の王冠を取りだし、足下でくつろいでいたトム=ナインの首に掛ける。

 ノエルはじっと、テーブルの上に鎮座するクリスマス・プディングを見ていた。


「そういえばあんた、それ」


 キャロルが、目の前に置かれた皿を一つ指さす。

 それはドロッセルが作った、牡蠣のクリームスープだった。塩漬けにして保存した牡蠣といくつかの香草とを合わせたシンプルな料理だ。


「私のスープがどうかしたか?」

「よく作ってるけどさ、店長に教えてもらったレシピなの?」

「いや、これは――」


 ドロッセルはそこで、口を閉じた。

 思えばこれは、昔から知っているレシピだった。このマイヤー人形工房に来る前から、このスープの作り方だけは知っていた。


『牡蠣でなくとも、魚介ならなんでも良い。鱈でも、鮭でも、帆立でも』

『ディルが少しあればなおよろしい』


 気怠げな口調でアドバイスをしながら、自分にこれを教えたのは恐らく――。

 ドロッセルは無意識に、髪留めに触れた。

 そしてじっと、湯気を立てるクリームスープを見つめる。


「……ドロッセル?」


 キャロルに名前を呼ばれ、我に返る。

 ドロッセルは首を振り、気遣わしげな様子で見つめてくるキャロルとノエルに微笑んだ。

 モルドワインを満たしたグラスを取り、立ち上がる。


「なんでもない。――さぁ、冷める前に食べてしまおうか」

「そうね。毛玉ちゃんも待ちきれないみたいだし」


 キャロルがにっと笑って、足下を見下ろした。

 紙の王冠を首に掛けたトム=ナインが、猫用に調理されたガチョウ肉を前にしてよだれを垂らしている。皆が食べ出すのを待っているあたり、律儀な猫だ。

 ノエルはというと、いつも通りドロッセルの傍に控えている。

 そして、彼の手にもモルドワインのグラスがあった。


「そういえば……ノエルは、お酒って飲めるのか?」

「あまり記憶はありません。……ただ、生前はそれなりに」


 その静かな返答を聞き、ドロッセルは酒を呑むノエルの姿を考える。

 常に静謐に振る舞う従者が、酒に酔う様子があまり想像がつかない。

 それこそ、給油する機械のように淡々と飲みそうだ。

 ドロッセルは「そうか」とうなずくと、グラスを見下ろした。


「じゃあ、先生に代わって今年は私が――っと、何に乾杯しようか? 女王陛下の健康?」

「そりゃもちろんあたしに」

「よし、皆の健康と安寧にしよう」

「無視するなんて良い度胸ね」


 ドロッセルはグラスを手にテーブルを見回す。

 不満げに唇を尖らせるキャロルに、静かにドロッセルの合図を待つノエル、足下でよだれを垂らしているトム=ナイン、満足げに襟を揺らすベルベット――。

 ささやかなテーブルだ。

 けれども、こうして今年も無事にクリスマスを祝うことができる。

 きっと今もロンドン中で、皆がドロッセル達と同じようにクリスマスを祝っているのだろう。

 常人も異端者も――そして、そこにこれからドロッセル達が加わる。

 ドロッセルは微笑み、軽くグラスを持ち上げた。


「メリークリスマス。これから一年の皆の健康と安寧を祈って――乾杯!」

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