Ⅳ.マイヤー人形工房のクリスマス

1.堅物とミンスパイ

 ――十二月二十四日。

 冬の薄青い空の下、街の空気はいつもとは様変わりしていた。

 店は赤と緑のクリスマス飾りに彩られ、街灯や街路樹には電飾まで施されている。

 人々はいつにも増してせわしないが、どこか楽しげに見えた。

 もみの木を括りつけて移動する自動車、贈り物を買いに店に走る紳士、サンタ・クロースファーザー・クリスマスの格好で呼売りをする商人、無言劇の看板を体の前後に下げて歩く広告屋――

 屋台は温かいモルドワインを売り、オルガン弾きはクリスマス・キャロルを奏でている。

 そうして、クリスマスを前に街が盛り上がりを見せる中――。


「――そんなに大きなバルトアンデルスだったんだね」

「ああ、本当に」


 ヒラリーの言葉に、ドロッセルはうなずいた。

 場所はバックヤードの副局長室。クリスマスの飾りは先日よりも派手になり、ちょっとしたおもちゃ屋のような有様になっている。

 ドロッセルとノエルは先日と同じように、ヒラリーとともに紅茶を飲んでいた。

 足下にはトム=ナインが寝そべり、爪研ぎしたそうな顔でテーブルの脚をじっと見ている。


「巨大なバルトアンデルスに関しては、前例がない事もない」


 そう言って、ヒラリーはカップを傾ける。

 背後にはダンカンが控え、苦虫を噛み潰したような顔でクリスマスツリーを睨んでいる。


「ただそこまで成長した個体はバックヤードの記録でも一、二例ほどだ」

「……特殊な個体だったのですか」

「そうだね。大当たりってわけ」


 静かなノエルの言葉にうなずき、ヒラリーは大皿に手を伸ばす。

 大皿にはミンスパイが山盛りにされている。様々なドライフルーツを刻み、香辛料とブランデーで風味をつけて中に詰めた、クリスマスには欠かせないパイだ。


「なかなかない事だよ。この国だとそもそもバルトアンデルス自体が珍しいんだから」

「嬉しくない……」


 ドロッセルはがっくりと肩を落とし、ミルクティーに口を付けた。

 隣ではノエルが無言で、爪研ぎをしようとしているトム=ナインの捕獲を試みている。

 バルトアンデルスは群体の異形。

 恐らく、通常はある程度成長した時点で二つの個体に分裂するのだろう。昨夜戦ったプラーも、アリストルという別個体を生み出していた。

 つまり、分裂する前はあれ以上の大きさだったのだろうか。

 ドロッセルは首を振り、嫌な想像を忘れるためにミンスパイに手を伸ばした。


「ともあれ、無事で良かった。――そして、ごめんね」

「えっ……?」


 伸ばし駆けた手を止め、ドロッセルは顔を上げた。

 不満げに鳴き立てるトム=ナインを抱え上げ、ノエルもまた無表情でヒラリーを見る。


「バックヤードは、免許を取得した仕事屋の力量を判断した上で依頼を紹介する」


 カップを置き、ヒラリーは申し訳なさそうに胸元に手を当てた。


「今回の依頼は、どう考えても新米の君に紹介するようなものじゃなかった」

「いや……異界では、なにが起きてもおかしくはない」


 ドロッセルはぽつりと言って、首を横に振った。


「先生にさんざん教えられた。『必ず不測の事態が起きるものだと思え』って。あんな場所じゃ、全てが順調にいくわけじゃないだろう」

「その通り」


 重々しい声に、ドロッセルは思わず肩を震わせた。

 ダンカンがクリスマスツリーから視線を移し、ドロッセル達を見つめていた。その顔は相変わらず険しい。まなざしは鋭く、笑みの欠片一つない。


「異形、異界、怪異……霊気の絡む事柄というものは予測がつかない。我々は実力を見定めて依頼を出す。それでも、絶対に安全だとは決して言えない」


 だから、バックヤードは依頼のために長大な資料を作成する。

 確認されている異形、周辺の地図、考え得る事態――文章こそ平易な言葉で記されているが、その情報量は膨大だ。その資料の最後に契約書を添え、サインをさせる。

 不測の事態が起きた際の対処と、その責任の所在を明らかにするため。

 そして仕事屋の覚悟を確かめるために。

 なにが起きるかわからない。命の保証など存在しない。

 ――それでも怪異に挑むのか、と。


「皆、忘れがちだがな。本来『名前を書く』という行為は、重いものだ」

「……名前は時に、人の命や意思を左右する」


 淡々と語るテノールの声に、ドロッセルは思わず隣を見る。


「だから……記名という行為は、慎重にならなければなりません」


 暴れるトム=ナインを押さえ込み、ノエルは目を伏せていた。なにか、彼なりに名前を書くという行為に思うところがあったのだろうか。

 ダンカンはうなずき、深くため息をつく。


「……うむ。昨今の仕事屋には甘い奴が多い。本来、どれだけ簡単に見える依頼でも――例えばモルグウォーカー数体を狩る程度の依頼でも、決して油断がならんのだ」


 例えば、異形の数が想定よりも多いかもしれない。

 まったく見たこともないような変異した個体がいるかもしれない。


「起こりうる事態を数えればキリがない。そんな熱帯の空模様の如く不確かな状態で、それでも生き残るためには―――ガーネット、どうすれば良いと思う?」

「え、えっと……入念に準備をする……?」


 突然水を向けられ、ドロッセルはしどろもどろになる。

 すると、ダンカンはわずかに唇の端を上げた。

 どうやら笑った――らしい。

 一瞬、威嚇されたのかと思ってドロッセルは肩をすくめた。しかしどうやら相手が満足しているようなので、そっと緊張を緩める。


「そうだ。準備だ。丹念に丁寧に念入りに。ともかく準備を重ねろ。特に貴様のような人形師は己の才能や人形の性能だけでなく、準備がものを言う異端者だ」

「そしてともかく考えること、だね」


 ヒラリーが言って、ショートブレッドをかじる。


「がむしゃらに頑張るだけじゃ駄目さ。頑張り方を考えて、工夫するわけ」

「よく考えて、よく準備して、そうして行動する……」


 二人の言葉を脳内で噛み砕くように、ドロッセルはゆっくりとうなずく。

 そして眉を下げ、小さく笑った。


「私は考えすぎて動けなくなるところがあるから、気をつけないと」

「ふん、その点はグレースを見習え。行動力においてはあのじゃじゃ馬に勝るものはない」

「個人的にはもっと大人しくしてほしいんだけどねぇ」


 ヒラリーが深々とため息をついた。

 どうやら元上司である彼は、グレースの行動力には色々思うところもあるらしい。

 一方のダンカンは満足げにうなずいている。機嫌がずいぶん良いようだ。


「まぁ、今回の件はよくやった」


 その一言に、ドロッセルは一瞬目を見開く。

 ダンカン・エッジワース――元軍人。

 バックヤードで最も厳格な男として知られる彼が――近年はラングレー派絡みの事件を担当することの多かった彼が――。


「まぁまぁやるではないか、ドロッセル・ガーネット」


 ラングレーの娘である自分を、褒めた。

 そんなことが起きて良いのだろうか。あまりの事態にドロッセルの思考は真っ白になる。


「――しかし気を緩めるな。少しでもしくじれば、軟弱な貴様如きすぐに死ぬと思え。だいたい貴様には甘いところが多すぎる」


 満足感に浸る暇もなかった。気づけば、いつも通り叱られていた。


「は、はい……そう、その通りですね……」


 ドロッセルは我に返り、こくこくとうなずく。

 トム=ナインがノエルの膝から、自分の膝へと飛び移ってくる。なにやら不満げな様子の彼を撫でると、ざわついていた胸の内が少しずつ静まっていく気がした。


「良いか、英国の仕事屋たるものいついかなる時も――っぐ」

「もうそれくらいにしなよ、ダンカン」


 ダンカンの口に、椅子の上で膝立ちになったヒラリーがミンスパイを突っ込んだ。

 心底不服でならないといった顔で、ダンカンは無言でパイを頬張る。



「ここ最近、君は大変だったろう。いろんなことがあったね。傷ついたり、疲れたりもしていると思う。混乱していることも多いだろう」

「……ああ」


 ドロッセルはゆっくりとうなずく。

 ほんの一月前までただの人形師の弟子であり、見習いの仕事屋だった。

 けれども、ここしばらくの間に本当に多くのことが起きた。事件に巻き込まれ、殺されかけ、人形に襲われ、異形に襲われ――そうして、ここにいる。

 疲労した。そして、傷つきもした。

 けれども――ドロッセルはポケットを押さえ、隣を見上げた。

 ポケットの内には、異端免許がある。

 そして隣には、ノエルがいる。

 ノエルは顔を上げ、静かに見つめ返してきた。夕闇を思わせる青の瞳をじっと見つめ、ドロッセルはふっと唇を綻ばせた。


「……でも、嫌なことばかりではなかったよ」

「そうかい」


 ヒラリーは微笑み、うなずく。

 どうにかミンスパイを処理したダンカンはまだ叱りたりないと言った顔で、小さな上司の背中をじっと見つめている。


「――もうクリスマスだ。愛と寛容、そして幸福の季節だよ」


 しかしそんな部下の無言の訴えなど気にもせず、ヒラリーは大皿からもう一つパイをとった。

 星形の生地で蓋をしたミンスパイを、ヒラリーはじっと見つめた。

 そして手を伸ばし、それをドロッセルの皿に置く。


「異端者暇無しって言うけどさ。――こんな時くらい、ゆっくり休むと良い」

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