9.ドロッセル・ガーネットを永遠に包む霧
「右も左も低脳ばかり。おまけに正面には出来損ない」
淡々とラングレーは言葉を連ね、懐中時計をポケットにしまった。
服の布地をきつく握りしめ、ドロッセルはなにも言わずにラングレーを睨む。金の瞳、薄い唇、筋張った手、引き締まった体――その全てを見逃さないように。
「……なんて馬鹿げた空間だ。僕は、こんなところに時間をとられている暇はないんだが」
「あ……?」
キャロルのこめかみが引きつった。
ラングレーは腕を組み、退屈そうな顔でキャロルを見つめた。
「なんだ、聞こえなかったのか? なら、低脳にわかるように話してやろう。……大人しくその五体を地面に横たえろ。君達がなにをしようと、どうせ僕には届かない」
「この野郎――!」
「――届くよ。そして、すぐに終わる」
ドロッセルの言葉に、声を荒げかけたキャロルが驚いたように目を見開く。
パトリシアもまた驚愕の視線を向けてくる。マリブはというと相手が誰なのかもわかっていない様子で、ラングレーとドロッセルとを見つめていた。
唯一ノエルだけが、いつものように静かなまなざしでドロッセルを見つめていた。
「……すぐに終わる? 聞き間違いか?」
淡々とした言葉に、ドロッセルは振り返った。
父の顔をした異形が顎をさすりながら、冷やかに見つめてくる。
凍てつくようなそのまなざしは、父そのものだ。目を合わせただけで、ドロッセルは自分の胃がきゅうっと縮み上がるような気がした。
「お前は、僕の才能を何一つ継がなかった。そんなお前が、僕を倒すというのか?」
「……ああ。私は本物には勝てないよ、きっと」
ドロッセルは視線を爪先に落とした。
レイモンド・ラングレー。英国最高――あるいは十九世紀最高の人形師。ヒラリーと同じく不老の魔法使いであり、実力は勝るとも劣らない。
幾多もの騒擾事件の糸を引き、国家転覆さえもはかった。
革命家にして、大罪人――それが――ドロッセル・ガーネットの父親だ。
彼との戦いなど考えたくもない。
それどころか、相対することさえ避けたいと思っていた。――少し前までは。
ドロッセルは目を閉じ、呼吸を整えた。
「でも、きっと勝てる。――いや、勝たなきゃいけない」
「……へぇ」
ラングレーは一瞬、瞑目した。
そうしてわずかに顎を上向かせ、目を開く。父が誰かの話を聞くときの姿勢だ。見下ろすようなその仕草が、どこまでも似ている。
だが――ドロッセルは首を振り、その金の瞳を見つめ返した。
「お前は紛い物だ。父じゃない」
ラングレーは答えない。ただ、冷やかにドロッセルを見下ろしている。
ドロッセルは手を上げ、その体を指さした。
「……揺らいでいるぞ、バルトアンデルス」
ラングレーがわずかに視線を動かし、ドロッセルが示した先を見る。
コートに包まれた肩。その輪郭はわずかに揺らぎ、黒い煙を細く漂わせていた。
「――お前は、無敵じゃない。今までのダメージはちゃんと蓄積されている。さっきからの攻撃で、群体を形成する個体が大量に死滅しているはずだ」
わずかに眉を寄せ、ラングレーがドロッセルを睨んだ。
思えば、自分は父の姿をあまり正面から見たことがなかった気がする。記憶の中の父はほとんど横顔か、後ろ姿。いつも物憂げで、冷やかな顔をしていた。
こうして、自分を睨む父の姿は記憶にない。
だから――ドロッセルはマギグラフを嵌めた左手を伸ばした。
「お前は父じゃない。ただの偽物だ」
正面に立つ男を指さし、ドロッセルはきっぱりと言い切った。
黄金の瞳は揺るがず、まっすぐに父の姿を――そのまがい物の姿を捉えていた。
「だから、お前なんかに私達は負けない」
「威勢は良いな」
低い声とともに、ラングレーの手が動いた。
ぽ、ぽ、ぽ――小さく爆ぜるような音が無数に響く。それとともに、異形のの掌上に青い光の玉がいくつも浮かびあがっていった。
「
パトリシアが呻くように言うのを、ドロッセルは聞いた。
それはラングレーの最も得意とした術の名前。
霊気を凝縮して作り出した球を大量に操り、敵を穿つ凶悪な攻撃。極めて高難易度のその術を、父は詠唱もなしに片手で行使していた。
そして目の前の異形も、父と同じように片手でその術を発動させて見せた。
「……僕は、お前の恐れそのものだ」
ラングレーが囁きつつも手首を曲げ、掌を跳ねるように動かす。
瞬間、霊気球が動いた。
まるで水面に向かう泡のように、いくつもの光の球が天井へと浮き上がっていく。
「な、なんだ、この数……!」
マリブが呆然と、見る見るうちに頭上を覆っていく霊気球を見上げる。
霊気球は、不気味なほど静かに広がっていく。トンネルはさながら先ほどの海底の如く、再び青い色彩に塗り潰されつつあった。
ノエルが目を細め、双剣を逆手に持ち替えた。
「……待て」
それを、ドロッセルは制した。
ノエルが動きを止めた。双剣を構えたまま、視線をこちらに向けてくる。
「……私の忌能を使えば防げます」
「霊気を温存してくれ。必要な時に言う」
ドロッセルは短く答えた。その目は油断無く、天井を飛ぶ霊気球を見つめている。
ノエルはしばらくドロッセルを見つめていたが、やがてうなずいた。
「――御意」
静かに礼を示す従者の姿を目の端に捉えながら、ドロッセルは天井を見上げた。
「何度、僕の姿を悪夢に見た?」
異形が淡々と言う。その両掌は、いまだ無数の霊気球を生み出している。
ドロッセルは答えずに、天井に視線を走らせた。
「目覚めれば悪夢からは逃げられる――けれども僕は暁に消える夢とは違う。僕は今たしかにここにいる。僕はレイモンド・ラングレーで、お前はその出来損ないの娘だ」
父の声が、淡々と言い聞かせてくる。
胃がきゅっと縮み上がる。鼓動が速くなる。けれどもドロッセルは答えない。
「お前は僕からは逃げられない。――僕はお前を永遠に包む霧」
幽霊駅の天井を、浮遊する霊気球が埋め尽くしていく。
まるで海の闇を漂う夜光虫のよう。不吉な光とともに乱舞するそれを見つめ、ドロッセルはマギグラフを嵌めた左手を何度か閉じ開きする。
「――絶叫しろ、出来損ない」
ラングレーがぱん、と手を叩いた。
直後――霊気球は爆ぜたように飛び散り、不規則な軌道を描いてドロッセルを狙った。
「ドロッセルッ!」
キャロルが叫ぶ。パトリシアが、なにか術を行使しようとしているのが見えた。
どっと青い光の群れが迫ってくる。
一撃でも掠めればその部分の皮膚がごっそりと抉られ、焼かれる。そんな死の光弾を前に、ドロッセルはマギグラフを嵌めた左手を振り上げた。
「【
「駄目よ、それじゃ――!」
炸裂する光のどこかでパトリシアが叫んだ。
魔術の等級というのは人と時代によって変動する。単純な威力だけでなく、魔術の複雑さ、行使や解呪の難易度などによってその等級は大きく上下するのだ。
しかしどの時代でも、廃城の露を銀麟障壁で防ごうとするのは無謀だと言われただろう。
『高級魔術とは、いわば霊気によって組み立てられた複雑なパズルだ』
かつて、ドロッセルにそう語ったのは誰だったろう。
師のグレース・マイヤーか――あるいは、本物のラングレーだったのか。
『その複雑さ故に、防御と解呪が難しく、一度に使う霊気の量も多い。しかし、それを比較的単純な構造を持つ初級、中級魔術で防ぐことは決して不可能ではない』
――相当量の霊気を消費すれば。
その記憶を反復しつつ、ドロッセルは左手を振り下ろした。
ありったけの霊気を注ぎ込む。クォーツが閃光を放つ。見えない
緑の瞳が煌々と光る。
オレンジの毛並みを炎のように波立たせ、トム=ナインは獅子の如き声で咆哮した。
咆哮がびりびりと異界の空気を揺るがす。
そして雨に晒される水面のように、中空に銀色に輝く波紋が無数に広がった。そこに、ほとんど光の洪水と化した青い霊気球の群れが叩き込まれる。
轟音とともに、爆発的な光が炸裂した。
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