7.Mayday,Mayday

「くそっ――みんな……!」

「――ひひひ」


 もがくドロッセルの耳元で何者かが笑った。

 それは先ほどさんざん聞いたバルトアンデルスの笑い声に酷似していた。

 目の前に、ぼこぼこと無数の眼球が現われる。

 ――そして、口も。


「ごちそうだ ごちそうだ」


 ギザギザの歯が現われ、嘲笑うように弧を描いた。そこから放たれる声は、大勢の人間が一斉にしゃべっているような奇妙なものだった。

 ドロッセルは息を飲む。


「お前、しゃべれるのか……!」

「しゃべれるとも われわれは ながいあいだ にんげんをまなんだ」


 鋭利な歯を持つ巨大な口はそう語り、なにが楽しいのか「ひひひっ」と笑った。

 その周囲で無数の眼球や口が現われては、消える。その異様な風景を見つめながら、ドロッセルは冷や汗が背筋に滲むのを感じていた。


「バルトアンデルスが人間の言葉をしゃべれるなんて、知らなかったな……」

「われわれは ふつうの ばるとあんでるす じゃない」


 口が、不機嫌そうに歪んだ。

 同時に鋭い灰色の歯がぐっと間近に迫り、ドロッセルは息を飲む。異形は威嚇するようにその歯をカチカチと鳴らしながら言葉を続けた。


「われわれは ぷらー ななじゅうななちょうの わたしからなる もっともおおきく もっともちからある ばるとあんでるす」


 七十七兆の私――異様な響きを持つ言葉に、ドロッセルは一瞬困惑する。

 しかしすぐにその意味を理解して目を見開く。


「バルトアンデルスは、群体の異形か! じゃあ、昨日私達が倒したのは――!」

「ありすとるは われわれから せんじつ わかれた われわれ」


『アリストル』というのは、恐らく先ほど倒したバルトアンデルスの名前だろう。

 そして今ドロッセルの目の前にいるのがプラー。

 恐らくアリストルの分裂の元となったバルトアンデルス――いわば、親にあたる存在だ。

 つまり、バルトアンデルスは二体いたのだ。


「くそっ……! やっぱり環状線トンネルを使って移動していたんだな! この近辺で怪異が頻発していたのは、このトレーターズゲート駅がお前の巣穴だったから――!」

「ああ にんげん ごちそうだ ごちそうだ」


 群衆じみた声の中にうっとりとした響きが混じる。背筋に冷たいものを感じるドロッセルの前で、プラーの口がいびつな孤を描いた。


「もるぐうぉーかー より ずっといい あんなやつ よりずっといい」

「モルグウォーカーだと……?」

「まぬけな もるぐうぉーかー なめたら おちて しんじゃった」

「あの転落死したモルグウォーカーのことか!」


 先ほど見たモルグウォーカーの死骸が脳裏に蘇る。

 高所でも俊敏に移動するはずのあの異形が、何故落下して死んだのか――ずっと心のどこかで引っかかっていたその疑問の答えが今、目の前にあった。


「あのモルグウォーカーは、お前に襲われて死んだんだな! お前に霊気を吸い取られて、そのまま建物から落下した……!」

「まずかった あいつ ほんとに まずかった にんげんの ほうが ずっといい」


 目の前でいくつもの口が無数に現われ、歌うように口ずさむ。


「にんげんの こころは いぎょうより うまい」


 だから、バルトアンデルスは襲う。

 人間が恐れるもの、愛するものに姿を変じるのは、それによって人間が見せる様々な感情を愛でるためだとプラーは語る。


「われわれも むかしは ただの ばるとあんでるす だった けれど へんしんを くりかえすうち しった にんげんの こころの おもしろさ かんじょうの おいしさ」


 プラーが舌なめずりをする様を、ドロッセルは睨み付ける。

 無数の笑い声が聞こえた。それはまるでさざ波のように近くから、そして遠くから折り重なるように響き、ドロッセルを幾重にも嘲笑う。


「感情の美味しさ……感情によって変異する霊気か。それがお前達の獲物なんだな」

「とくに きょうふは うまいぞ どろっせる・がーねっと」


 自分の名前を口にされ、ドロッセルはぐっと眉間のしわを深くする。


「おまえらを のみこんでやろう こころをなぶり しゃぶりつくしてやろう あの もるぐうぉーかー みたいに われわれの はらのそこに とけてしまうまで」

「そんなことさせるか……! 一体何に姿を変えようと、お前はここで始末する!」


 眼球がぎょろぎょろと蠢く。

 鋭い声で言い放つドロッセルに、周囲を浮遊していた眼球の視線が集まる。

 プラーは「ひひひ」と愉快そうに笑い声を漏らした。


「やれるもの なら やってごらん でも」


 ごぽりと、何かが泡立つような音が聞こえた。

 同時に冷たい液体の感触を感じて、ドロッセルはどうにか首をひねって地面を見た。

 こぽこぽと、足下から水が湧いてくる。むっとした潮の匂いを感じた。


「えっ……」

「たぶん おまえらの こころが しぬのが さき」


 その嘲笑が響いた直後、ドロッセルの体は水中にあった。


「っぐ……!」


 とっさにベルベットが反応し、襟元が口と鼻とに密着する。

 パニックに陥りそうな思考を必死で沈め、ドロッセルはあたりの様子をうかがった。

 一面、青く暗い水。顔を上げれば、淡い光が彼方で揺れているのが見える。

 先ほどまでいた駅の影も形もない。

 どういうわけか、ドロッセルは海の中に放り出されていた。

 と、目の前でオレンジ色の毛並みが揺れた。

 トム=ナインだ。

 体を硬直させた猫が足元から浮かんでくるのを、ドロッセルはなんとか抱き留める。猫はドロッセルにしがみつき、抗議するようにごぼごぼと泡を吐いた。

 基本的にオートマタは呼吸を必要としない。

 故に器体に防水加工さえ施していれば、ある程度水中でも稼働できる。

 見たところベルベットは問題なく機能を発揮していて、トム=ナインも元気そうだ。

 この分ならば、恐らくノエルも大丈夫だろう。

 視界の端で影がよぎる。

 見れば、必死の形相でマリブが水面を目指し泳いでいくのが見えた。彼の先ではキャロルがヴェンデッタに、パトリシアがルーカスに捕まり、浮上を試みている。

 どうやらプラーに阻まれて見えなかったが、全員同じ場所にいたようだ。

 ドロッセルはトム=ナインを抱え、三人と同じように上に向かって泳ぎ始めた。

 プラーは力あるバルトアンデルスという。

 この水中への転移もあの異形の能力か。ともかくこの水の中から抜け出さねば――。


「われわれは なんにでも なれる」


 耳元でプラーの声が聞こえ、ドロッセルはばっと振り返った。

 無数の眼球も、ギザギザの歯を持った口も――プラーの姿はどこにもない。


「われわれは なんでも みえる」


 なのにプラーの声が、はっきりと聞こえる。

 バルトアンデルスは人の心を読み、その姿を自在に変えるという。恐れるもの、愛するもの。

 そしてプラーは先ほど、恐怖が美味だと語った。

 もし、この水中世界そのものがプラーが変身したものだとすれば。

 それは一体――誰の恐れを反映したものなのか。


「おまえが わすれた おそれも みえている」


 自分の下で、なにかが動いた。ドロッセルは視線を下げた。

 見覚えのある制帽が浮かんできた。頭上から差し込む光に、古い銀の徽章が煌めく。

 そしてその先に、白い手が力無く揺れているのが見えた。


『私の記憶は完全ではありませんから』


 瞬間、ドロッセルは方向を変えていた。

 死にものぐるいで手足を動かし、潜行する。トム=ナインが肩に爪を食い込ませる痛みが伝わってきたが、そんなことに意識を向けている暇はない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る