6.Departure

 ――その駅の名前は、現界では『ホワイトタワー駅』という。

 異界の地下鉄は静まりかえっていた。

 現界側の構造を繁栄しているとは言え、当然そこには列車も乗客も駅員も存在しない。

 どこか寒々しいランプの光に照らされた駅を、一行は静かに見回した。


「……なにもいないけど」


 キャロルが怪訝そうな顔でプラットフォームを歩く。


「ああ、特に異変は感じない」


 ドロッセルは大胆に線路を横切り、向かいのプラットフォームに立った。現界では到底褒められた行為ではないが、列車の来ない異界では問題ない。

 空っぽの売店、無人の改札口、滅茶苦茶な路線図――がらんとした構内に、特に異常はない。


「……向こう側と変わりませんね」


 ドロッセルに続いてプラットフォームに上がったノエルが顎を撫でる。


「ああ……どう見ても、ノッドノルの普通の駅だ」

「ルーカスの霊探も反応していないわ。やっぱり、トムの誤探知じゃない?」


 キャロルの近くで痕跡を探っていたパトリシアが振り返る。

 その足下で、凜々しく尻尾を立てたルーカスが一声吠えた。パトリシアの言うとおり、この犬型オートマタには特に警戒している様子は見られない。

 ドロッセルは首を傾げて、自分の猫型オートマタを見下ろす。

 トム=ナインはオレンジ色の毛並みを逆立て、線路を――正確には、トンネルを睨んでいた。


「……トンネルに何かあるのか?」

「えー、あんな陰気な場所に行かなきゃいけないわけ?」


 キャロルがうんざりした顔でしゃがみこんだ。


「線路やトンネルは最終列車の後に、定期的にバックヤードに委託を受けた人形師が巡回しているはずよ。異形が潜んでいるとは思えないけれど」

「巡回しているのは現界側だけか?」


 ドロッセルが問うと、パトリシアは「そうね」とうなずいた。


「異界での長時間の行動は消耗するから……でも、ノッドノルは異界の浅瀬。ロンドンと重なり合うようにしてここは存在しているから――」

「もしノッドノルに異形が現われた場合は、現界のロンドンに必ず怪異が起こる……」


 ドロッセルは難しい顔で腕を組んだ。

 表裏一体――あるいは水面と水中。

 異端者達の間では、ロンドンとノッドノルの関係はそのように形容されることが多い。

 ロンドンを通る人々の姿は、ノッドノルでは影として移る。

 そして現界での心霊写真やポルターガイストなどの怪奇現象の大半は、ノッドノル側に異形がいることによって引き起こされるという。


「現界で怪異の兆候があれば、異界側に移動して確認する。見逃すとは思えないけど……」

「――なァ」


 その声に、パトリシアとドロッセルは振り返った。

 改札口に立ったマリブが、どこか不安げな表情で周囲を見回している。


「線路は見てるんだよな……それって、幽霊駅も見てるのか?」

「幽霊駅……?」


 聞き慣れない響きにドロッセルは首を傾げる。

 マリブはうなずくと、長い足でひょいと改札口を通り抜けた。


「廃線になって使われなくなった駅だよ。地下鉄の場合だと、そういう駅って地上側の施設はなくすんだけど――地下には残してあったりするんだ」


 マリブはそろそろと改札口を抜けると、プラットホームに立った。

 その視線の先には、薄闇のわだかまるトンネルがぽっかりと口を開けている。


「ここらへんにもあったはずだぜ。ホワイトタワー駅と、クイーンズ・ハウス駅の間だよ。確か……トレーターズゲート駅って名前だったかな」

「……クイーンズ・ハウス駅は、確かこの次の駅だったかと」


 ノエルが駅名の看板をちらりと確認する。しかし異界の他の施設と同じく看板は文字が混沌としていて、まるで読めたものではない

 マリブはじっとトンネルの先を見つめたまま、うなずく。


「最近、環状線を作るとか、駅を統合するとかで――何年か前になくなったんだ、その駅」

「……トレーターズゲート駅って、地下に施設が残ってたりするの?」


 キャロルがたずねると、マリブは困った顔で首を横に振る。

「さぁ……それはわからん。オレもこの辺りはあんまり詳しくなくてな」

「……もしその施設が残されているなら、異形の巣になっている可能性は高いわね。そして廃棄された路線なら、巡回の手が及んでいないことは十分にありえる」


 パトリシアが腕を組み、思案顔で唇に触れた。


「最近、ごっそり鉄道の路線も変わったりしたからな。……もはやわけがわからない」


 複雑怪奇なロンドンの路線図を思い出し、ドロッセルは額を押さえた。

 そして、思い出す。


「……あの、地図」


 バックヤードで見た地図。

 ロンドン中にいびつな円を描くように散らばったピン。

 特にホワイトタワー駅近辺にはピンが集中し、帯のようになっていた。


環状線インナー・サークルだ……」

 額を押さえたまま、ドロッセルは目を見開く。

 キャロルが訝しげに眉を上げた。


「環状線がどうしたの?」

「あの、最近怪異が起きた場所の分布図……多分、ロンドン地下鉄の環状線に沿ってるんだ」


 メトロポリタン鉄道とメトロポリタン・ディストリクト鉄道。

 二つの鉄道会社によって一八八四年に完成し、運行される――いびつな鉄道の円。

 もしも――異形が、異界側の環状線トンネルを移動しているのならば。

 そして、もし――その巣穴がこの近くにあるならば。

 ――奇妙な音がした。

 それは、排煙口を吹き抜ける風の音のようにも思えた。

 しかし背筋に走った寒気と、周囲の者達が一気に緊張の表情でトンネルに視線を向けるのを見て、ドロッセルは自分の感覚が間違っていなかったと知る。


「……誰が、笑った?」


 ゴーグルを装着し、マリブが固い声で言った。


「今、絶対に誰か笑ったよな? どっか、この近くで――」


 マリブが再び、トンネルの闇を見る。その手が、ハルペー=レプリカを引き抜いた。


「『ひひひ』って、笑ったよな……?」

「――マリブ。貴方は現界側に戻りなさい」


 マグノリアを抜いて、パトリシアが押し殺した声で言った。


「この先はモルグウォーカーよりも危険なものがいるわ。だから――」

「ダメよ。どうせ逃げられないわ」


 キャロルがその言葉を遮り、ひらりと手を揺らす。その背後にヴェールのような影が揺らめき、彼女の忠実な傀儡が姿を現した。

 パトリシアはわずかに眉を吊り上げ、キャロルを見た。

 ヴェンデッタの鉤爪の調子を確認しつつ、キャロルは軽く肩をすくめる。


「多分、追いかけてくる。だったら、あたし達といた方が良いわ」

「……そうね」


 パトリシアは瞑目し、小さくため息をついた。


「マリブ、絶対に離れないで。なにが起きるかわからないわ」

「お、おう……!」


 マリブは拳をぱんっと掌で受け止め、何度もうなずいた。

 一行は慎重に、トンネルに足を踏み入れた。

 トンネルからは冷たい風が吹き込んでくる。蒸気機関車の排煙のため、一部が吹き抜け構造になっていたり、排煙口が設けられていたりするのだ。

 耳を澄ませても、聞こえるのは風の音だけ。あの生理的な嫌悪感を煽る笑い声はない。


「ハッ、列車も来ないくせに煤だらけ」


 毒づくキャロルの声を受け、ドロッセルは壁や天井を見上げる。

 どこもかしこも、煤煙によって黒く染まっている。

 表層とはいえ異界であるノッドノルには蒸気機関車など来るはずもないが、このあたりも現界の影響を受けているらしい。


「今、列車が来たら嫌だな……轢かれてしまう」

「バカ言ってんじゃないわよ。来るわけないわ、異界に列車が」


 歩くにつれ、徐々に一行の空気が変わっていった。

 トム=ナインだけでなく、ルーカスまで落ち着きのない行動を見せるようになったのだ。


「落ち着いて、ルーカス」


 グルグルとうなり、苛立った様子で頭を振るルーカスをそっとパトリシアは制する。

 一方、ドロッセルは傍に立つノエルの気配が変わったことに気づいた。


「……何か感じるのか?」

「少しだけ」


 ノエルは静かに答えた。その顔は相変わらず表情がない。しかしまなざしはいつになく鋭く、周囲を強く警戒していることがドロッセルにはわかった。


「なにかいます……お嬢様も、お気をつけて」


 その囁きを聞きつつドロッセルは銀符を探り、あたりに視線を向ける。

 トンネルをしばらく進んだところで、パトリシアが足を止めた。

 彼女が指し示した先に、こじんまりとしたプラットホームらしきものがあった。注意しなければ、トンネルの一部にしか見えない。


「トレーターズゲート駅……」


 その駅の名前をドロッセルは呟く。

 見たところ、プラットホームの向こうには改札口がある。どうやらマリブが言っていたような、地下にいくつかの施設が残されている類の幽霊駅のようだ。


「ここね。さっさと調べて、異形を始末して帰りましょ」

「ええ。きっとここには何かがあるわ」


 キャロルとパトリシアとが会話しながらプラットホームに近づこうとした。

 その時、トム=ナインがぴくりと耳を揺らした。直後狂ったように鳴き立て、ドロッセルの靴を噛んで思いっきり引っ張る。


「お、おい、トム! どうしたんだ……!」


 混乱するドロッセルはトム=ナインに触れようとする。

 しかし猫はその手を噛み、引っ張った。


「いって! おい!」

「ルーカス! どうしたの!」


 切羽詰まった声に顔を上げれば、ルーカスもまた必死で吠えていた。吠えながら、ぐいぐいとパトリシアの背中をプラットホームに向かって押している。

 その時、ドロッセルは奇妙な音を聞いた。

 高く響く――笛のような音。


「……あれ? なんだ、この音?」


 プラットホームの前で、マリブがきょろきょろとあたりを見回す。


「汽笛の音に決まってるでしょ。あんた機関車に乗ったことないの? ――よいしょっと」


 キャロルがうんざりした様子で答え、彼より先にプラットホームへと上がった。

 しかし直後、目を見開いて音の聞こえる方向を見た。


「なんで異界に列車が来るの!」


 トンネルの彼方――煌々と点ったオイルランプが見える。巨大な車輪が線路を転がる振動が、ドロッセル達の元にまで伝わってきていた。


「嘘だろ、おい!」


 マリブが絶句し、プラットホームへと慌てて飛び上がる。

 パトリシアとルーカスも反対側のホームに上がる。

 ドロッセルもそれを追いかけようとしたところで、体を抱き上げられた。


「うわっ――!」

「失礼します」


 しっかりとドロッセルを抱え、ノエルがプラットホームへと駆ける。迫る列車に、ドロッセルの体にしがみついたトム=ナインが悲鳴のような声を上げた。

 ごうっと風が押し寄せてくる。

 黒煙を噴き出して、鋼鉄の怪物が迫ってくる。

 その車輪に押し潰されるよりも速く、ノエルの俊足はプラットホームを踏んだ。彼のフロックコートの裾を掠め、列車が勢いよく滑り込んでくる。

 その腕から降り、ドロッセルは目の前を走る列車を呆然と見つめた。


「なんで、こんなところに列車が……!」

「おおかた異形の仕業でしょ。ふざけた真似を――ごほっ、げほっ……!」


 押し寄せる煙を払い、キャロルが咳き込んだ。

 排煙はもうもうと周囲に立ちこめ、視界を一気に塗り潰していく。

 またたく間に、辺りは黒一色に染まってしまった。漂う煙は濃密な闇に姿を変え、光が完全に絶えた瞬間――全身に嫌な寒気が走った。


「この煙、何かおかしいぞ……!」


 ドロッセルはどうにか動こうと必死で手足に力を込める。しかし高粘度の黒い物質が全身に纏わり付き、まるで身動きがとれない。

 物質は光も音も遮断し、すぐそばにいるはずのノエルの姿さえも見えなくなっていた。

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