5.石壁と王の眼

 念のため、一行はその周囲一帯をさらに巡回した。

 しかし他にモルグウォーカーの姿はなく、ルーカスの霊探もなにも感知しなかった。

 唯一トム=ナインは落ち着かない様子だった。しかしどれだけくまなく探しても痕跡はなく、周囲にはもはや異形の気配はなかった。

 そうして一行は来た道を戻る形で、再びロンドン・ウォール付近へとたどり着いた。

 かつて現界側で、ルーカスとトムが反応を示した場所の近くだ。


「さ、用事も済んだしとっとと帰りましょ。クリスマスまで働きたくないわ」

「えぇ。時間が掛かってしまったわね」


 ぐるりと肩を回すキャロルに、パトリシアが静かにうなずいた。その足下にはルーカスが腰を下ろし、ぴんと背筋を伸ばして待機している。


「じゃ、道はあたしが開くから」

「待って。前に貴女が開いたときは、皆バラバラになってしまったわ。今度は私が開く」

「昨日のあれはバルトアンデルスが皆の感覚を狂わせていたせいでしょ」


 キャロルが不服そうに眉を寄せる。


「本当は皆、時間差とはいえ同じ場所にいた。でもバルトアンデルスの干渉のせいで、互いの姿が見えなくなっていた。だからあたしのせいじゃないわ」

「それでも不測の事態に備えて今度は私が」

「人形師の移動方法って理屈がわからないから嫌いなの!」


 なにやらキャロルとパトリシアががみがみと言い争いを始めた。マリブはというと長身を縮め、そんな二人の様子を怖々とうかがっている。

 自分が口を挟む余地はなさそうだ。

 とりあえずドロッセルはその場を離れ、ノエルの元に近づいた。


「ノエル、何か気になるのか?」


 足下にトム=ナインをじゃれつかせながら、ドロッセルはノエルに声を掛ける。

 ノエルは他の面々から少し離れた場所で、古い城壁の遺跡に触れている。ドロッセルが近づくと、彼はわずかに振り返った。


「……いえ、何も」


 そう静かに答え、ノエルはまた城壁に視線を戻す。

 ドロッセルはじっと彼と、彼の触れる城壁とを見つめた。

 ロンドン・ウォール。それは紀元後二世紀、ローマ人がロンディニウム――かつてのロンドンを守るために建てたいにしえの城壁だ。

 時とともに形を変え、そして消滅していったその残骸が、今ノエルの触れている壁だ。

 ――つまり、この壁はモードレッドの時代にはすでにここにあった。


「この壁のこと、覚えているのか?」

「いいえ……私の記憶は完全ではありませんから」


 白い指先を滑らせ、ノエルは首を振る。

 その紺碧の瞳からは、いつにもまして感情を読み取れない。


「……それに、恐らく私の生きていた世界とこの世界は完全に同一ではない」

「そうか。まだ、異界との境界が曖昧だった時代だから……」


 ドロッセルはノエルの隣に立ち、そっと壁に触れる。

 冷やかな石の感触が指に伝わってくる。しっとりと夜露に濡れたそれはドロッセルが生まれる前から――ノエルが人間として生きていた頃から、変わらずそこにあったのだろう。


「……少し、直球で聞いても良いか。嫌なら答えなくていい」

「なんなりと」

「その……何故、アーサー王を裏切ったんだ?」


 彼の真の名前を知ったときから、どうしても気になっていた。

 ためらいの滲むドロッセルの問いに、ノエルは小さく吐息した。思わず見上げた横顔には、相変わらずなんの表情も浮かんでいない。


「……先ほど申し上げたとおり、私の記憶は完全ではありません」


 淡々とノエルは語る。ドロッセルは、静かにその言葉に耳を傾けていた。


「彼の王につきましても、明確に覚えているのは殺された瞬間だけ。あの槍が背中へと抜けた感触だけは、私は鮮明に覚えている」


「そして、」とノエルはそこで一瞬口を閉じた。

 青い瞳を伏せ、ノエルはしばらく黙った。

 そうして何度か呼吸をする様は、感情表現に乏しい彼には珍しい行為だった。

 自分を落ち着けようとしているように、ドロッセルには見えた。


「…………あの、まなざしだけ」

「まなざし……自分を見る、アーサー王のまなざしか」

「はい」


 ノエルは短く答え、目を開いた。

 再び城壁を映した青い瞳は、常と変わらず風のない湖面のよう。その瞳と指とで何かを探るように城壁を辿るノエルの姿を、じっと見つめた。


「……だからあの叛逆の意図についても、はっきりと申し上げることはできません。申し訳ございません、お嬢様」

「いや、謝る必要はない。私も聞くべきではないことを――」

「……ただ、これだけはわかります」


 ノエルの囁きに、ドロッセルは口を噤んだ。

 ゆらりと青い瞳が揺れ、声も出せずにいるドロッセルの姿を捉えた。


「モードレッドという男は愚か者です。――きっと、貴女が思っている以上に」


 それは彼にしては珍しく、断固たる口調だった。

 その意図は――ドロッセルが口を開くよりも速く、ぱんぱんと手を打つ音が響いた。

 振り返れば、キャロルが不機嫌そうに手を鳴らしている。


「何グズグズしてんのよ、二人とも。さっさと現界に帰るわよ」

「……結局、どの手段で帰ることになったんだ?」


 ひとまずノエルとの会話を脇に置き、ドロッセルはたずねた。

 キャロルはうんざりした顔でパトリシアを示す。彼女は瞼を閉じ、意識を集中させていた。


「嘘だろう……お前が押し負けたのか」

「うるさいわね! ほら、さっさとこっちに来る!」

「八つ当たりはやめろよ……」


 ドロッセルはため息をつきながら歩き出そうとする。

 しかしわずかな抵抗を感じ、足を止めた。見れば、トム=ナインがズボンの裾を噛んでいる。

 猫はドロッセルのズボンから口を離し、ニャアと鳴いた。


「どうした、トム? これから帰るんだぞ」


 ドロッセルが声を掛けると、トム=ナインは転がるようにして駆け出した。

 そして、地下鉄の駅前で止まる。

 ふさふさの毛並みを振り乱し、猫はニャアニャアと何かを訴える。


「なんか、言ってるみたいだけどよォ……何言ってるのかさっぱりわからんな」


 マリブが頭を掻き、必死で鳴き立てる猫を困惑の表情で見つめた。

 彼以外の場の視線が、ノエルへと集中した。

 翻訳を求めるその視線に、珍しくノエルが一瞬たじろいだ。が、どうやら無言の要求を理解したらしい彼はトム=ナインの元へと歩く。

 隣に膝をつき、耳を傾けるノエルに猫は必死で鳴き立てた。

 ノエルはしばらくその声を聞いていたが、やがてドロッセル達を振り返った。


「……『汽車』『グルグル』を繰り返しています」

「またぁ? 一体何が言いたいわけ、そこのオレンジ毛玉は」

「え、オイ。というかノエルって猫語が――」

「それと……」


 混乱の只中にいるマリブの言葉をノエルが遮った。

 ノエルはまたしばらくトム=ナインの声を静かに聞き、口を開く。


「――『マダイル』と」

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