4.魔女の煙

 霧に満ちた小さな広場。ガス灯が青い火で周囲を照らすその中に、マリブはいた。

 そしてその視線の先には、一体のモルグウォーカー。


「おらおらおら――ッ!」


 怒号とともに、ゴーグルを装着したマリブが引き金を引く。

 立て続けに銃弾が響き、弾雨がモルグウォーカーを襲う。しかし異形は巨躯に見合わぬ俊敏な動きでそれをたやすく躱し、円を描くようにしてマリブへと迫った。


「ルーカス! 行って!」


 パトリシアの叫びに、ルーカスが応える。

 マリブとモルグウォーカーとの間に割り込んだ。咆哮する機械仕掛けの犬に対し、異形はクルクルと奇妙な唸り声を上げて石畳を叩く。


「大丈夫だって! 見てろ!」


 マリブがポケットから取りだした何かを地面に叩き付けた。

 紫がかった煙が炸裂し、一気にあたりに広がった。視界が一気に不透明になり、異形だけでなく人形師達まで動きを止める。

 鼻腔を刺す独特の香りに、ドロッセルはやや眉を寄せた。


「狼避けの香――魔女の煙幕か!」


 魔女によって調合された香――狼避けの香。

 異形の目と鼻を潰すこの呪具は、発動に霊気を必要としない。

 そのため人形師だけでなく、金持ちの常人でも身を守るために使われているらしい。

 魔女が調合した狼避け以外はまがい物で、その効果は大きく落ちる。

 しかし、マリブの使用したそれはどうやら純正品らしい。

 事実、凄絶な絶叫とともにモルグウォーカーが顔面を押さえるのがドロッセルには微かに見えた。ジュウジュウと肉が焼けるような嫌な音が響く。

 大きく腕を振り回し、よろめきながら後退する異形。

 その懐に、長身の影が潜り込んだ。


「ハルペー=レプリカ!」


 怒号とともに、草刈り鎌にも似た剣が煙幕を切り裂く。ヘルメス神の神器を元に作られたと思わしきその刃が、ガス灯に煌めいた。

 モルグウォーカーの焼け焦げた目に、その輝きが映るよりも早く。


「喰らえェ!」


 常人の刃が、異形の首を切断した。

 すっぱりと切れた断面から、勢いよく血液が噴き上がった。首を失ったモルグウォーカーの体が大きく傾ぎ、どうと音を立てて地面へと倒れ込む。


「どうだ! やってやったぞォ! オレだって、異形を――!」


 ぱっと顔を輝かせ、マリブが振り返った。

 煙幕が揺れる。マリブの背後にゆらりと影が降り立つ。


「おい、後ろ!」


 ドロッセルが叫ぶ。

 マリブが振り返り、目を見開いた。その眼前で、モルグウォーカーが耳障りな声で笑う。

 煙を巻き上げ、鉤爪が振り上げられた。

 もはや魔術は間に合わない。下手に使えば、マリブを巻き込むかもしれない。

 それでもどうにか助けようと、ドロッセルは拳銃を引き抜いた。

 ――閃光。

 さながら流星の如く赤い光が走った。それはドロッセル達の狭間をすり抜け、まさにマリブを切り裂こうとしていたモルグウォーカーの腕へと突き刺さる。

 甲高い破砕音ともに、異形の腕に赤黒い亀裂が刻み込まれた。

 凄絶な悲鳴があがった。モルグウォーカーが腕を押さえ、地面に倒れ込む。

 マリブは尻餅をつき、激しく痙攣する異形を見つめた。


「な、なにが……?」

「――おばかさん」


 呆れたような声とともに、霊糸が揺れる。

 直後、ヴェンデッタがマリブとモルグウォーカーとの間に降り立った。

 二足形態に変形したそれはけたたましい笑い声をあげ、容赦なく異形に鉤爪を振り下ろす。

 それがとどめとなった。

 霊気の傷を腕に刻まれ、胸を穿たれた異形は何度か体を跳ねさせた後、沈黙した。


「モルグウォーカーは群れで行動する異形なのよ」


 ヒールの音を高く響かせ、キャロルが広場に現われた。

 同時に、ドロッセルは背後に気配を感じた。振り返ると、そこにはノエルが立っていた。


「……遅れて申し訳ございません。お怪我は」


 青い瞳に主人の姿を映し、ノエルは静かに問うてくる。

 ドロッセルは首を横に振った。トム=ナインも元気良く鳴いて、己の無事を知らせる。


「私は問題ない。何はともあれ、無事合流できて良かったよ」

「――もう、こんな事をしては駄目」


 やや厳しいパトリシアの声に振り返る。

 パトリシアは眉を吊り上げ、じっとマリブを見つめていた。当のマリブはすっかり意気消沈した様子で、肩を落としうなだれていた。


「これでわかったでしょう? 異形狩りは無茶だということが」

「……すまん。完全に、油断してた」


 マリブは暗い声で答えた。見上げるほどだった長身が、今はずいぶん小さくなって見える。

 キャロルがぱちりと指を鳴らした。


「まぁ、モルグウォーカー一体始末したのは上出来じゃない?」

「だ、だよな! そうだよな、うん!」


 マリブは一瞬、ぱあっと表情を明るくする。


「傀儡師、余計な口を挟まないで。マリブが調子に乗るわ」


 しかしパトリシアの氷のようなまなざしに、すぐにマリブの表情に影が差した。


「常人に異形狩りは困難なのよ。貴方、ゴーグルがなければ異形をまともに見ることさえできないでしょう。それに油断が過ぎるところもあるし、なにより――」


 パトリシアがここまで説教するのは珍しい。

 どんどん肩を落としていくマリブの様子が、なんだか憐れに見えた。


「それくらいで、いいんじゃないか」


 だからドロッセルはそっと口を挟んだ。

 その場の視線が、一気にドロッセルへと集中する。パトリシアが渋面を作った。


「確かにマリブの行動は褒められたものではないとは思う。けれども、言うほどマリブは戦えないわけじゃない。それに、事情があったみたいだし……なにより全員無事だ」

「これが初めてじゃないのよ」


 パトリシアが少し困ったような顔で、腕を組む。


「マリブはしょっちゅう異形狩りに出て、危ない目にあっているのよ。このままだときっといつか命を落とす。しかもそれは、彼一人とは限らない」

「たしかに、それは思う。戦えないわけじゃないが、このままだと駄目だろう」


 マリブは勢いはある。戦う力もいくらかある。

 しかし、ともかく慎重さに欠いている。自分とはまた別の危うさだ。一人で突っ走り、周囲もろとも自滅するかもしれない。

 それはドロッセルも理解していた。


「でも今回の件で、多分彼もよくわかったと思う。――そうだろう?」

「あ、ああ……」


 ドロッセルが水を向けると、マリブは戸惑った様子でこくこくとうなずく。


「オレのせいで、皆を巻き込んだ……それはほんとに、反省してる。異形狩りは――仕事屋になるのは諦められん。でも、もっと考える」


 語るにつれ、その口調は徐々にしっかりとしたものになっていった。

 マリブはうなずき、胸元に手を当てる。


「ほんとだ、誓うよ。――モルガンに誓う」


 ノエルが一瞬身じろぎしたのをドロッセルは感じた。

 それはこのイギリスにおいて、魔女達がよく用いる誓いの言葉だ。彼らは伝説的な魔女モルガン・ル・フェイを崇め、誓約を立てる対象とする。

 モルガンは、モードレッドの縁者だ。

 妖姫とも言われるその女について、彼にも何か思うところがあるのだろう。


「……でも、常人が異形を狩るのは――」


 パトリシアはなおも渋い表情をしている。ドロッセルはそんな彼女に近づき、マリブには聞こえない声でそっと囁いた。


「……常人が異形を狩るのは、許されないことなのか?」


 昔の異端者には職業を選択する余裕などなかった。

 彼らは自らの異能をなんでも活かし、糊口をしのぐほかなかった。占いやまじない。常人には理解しがたい知識での秘薬の調合。常人にはない超常的な能力による探知。

 特に異形狩りは、異端者の仕事と言われる。

 ドロッセルの知る限り、常人が異形を狩ることは禁じられてはいない。

 しかし、恐らくあらゆる意味で困難な仕事だろう。なんの異能も持たない常人と異形との戦いは、きっと異端者よりも遥かに厳しいものだ。

 そして異端者からの印象も良いとは言えないだろう。


「異形には、常人も異端者も関係ない。狩らねば皆等しく喰われるだけ」


 それは、ドロッセルがさんざん師のグレースから言い聞かされた言葉だった。

 それにパトリシアは一瞬、淡いブルーの瞳を見開く。

 革手袋を嵌めた手で口元を押さえ、彼女はゆるゆると首を横に振った。


「……いいえ。そんなことはないわ。人類の脅威が退けられるのなら、歓迎されるべき」

「うん。――まぁ正直、あのままだと私も危ないと思う」


 ドロッセルはちらりとマリブの様子をうかがう。

 どうやらキャロルと話しているようだ。待機状態のヴェンデッタを物珍しそうに見ている。


「これ、すごいなァ。どうやって動かしてるんだ?」

「見世物じゃないわ。これ以上見たら十秒あたり一ポンド取るからね」

「嘘だろ! 一分もすりゃ破産じゃねぇか!」「ほら言ってる間に十秒経った」


 ぎゃんぎゃんと言い合う様を見かねたのか、パトリシアは呆れ顔で二人に近づく。尻尾を振るルーカスもそれに続いた。

 その様子に、ドロッセルは小さく苦笑した。

 マリブは危うい。そして、ひどく困難な道に立っている。けれども――。


「頑張って欲しいな」

「マクダネル様のことですか」


 静かにたずねるノエルに、ドロッセルはうなずく。


「ああ。マリブはすごいよ。なんの異能を持たずとも戦っているんだ」


 マリブとドロッセルは年齢も立場も違う。そして、今日会ったばかりの人間だ。

 しかし、どうしても他人とは思えなかった。


「……私も、見習わないと」


 小さく囁き、ドロッセルは拳を握った。そんな主人の姿を、ノエルはじっと見下ろす。

 彼らの足下ではトム=ナインが耳をぴくぴくと動かし、尻尾を揺らしている。

 ――霧が晴れつつあった。

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