3.デアリング・マリブ
――大人しくしていれば良いんだがな。
ダンカンのそのため息は、一体誰を示したものだったのか。
ドロッセルは今になって、それを理解した。
「――オレも連れていってくれ!」
青みがかった闇に満ちたノッドノルに、若い男の必死の声が響き渡る。
先日のように道を開き、現界でいえばロンドン・ウォールの近くに到着したドロッセル達を待ち受けたのは、ダークブラウンの髪の男だった。
「頼む! このままじゃ我慢がならん!」
男が胸元に手を当てて訴える。
ノエルよりも少しだけ背が高い。著ているベストもマントも、顔に着けたゴーグルすらも古いものだったが、唯一赤い革靴だけがぴかぴかなのが印象的だった。
「このオレがモルグウォーカー如きに遅れをとっていいのか? いや、良くない! そうだろう! このままじゃロンドン一情けない男だ! つまり世界一情けない男だ!」
「頭を冷やしなさい」
パトリシアは困ったようにため息をつく。
「ともかくダメよ。あなたときたらノッドノルにまで入ってきて……」
「トリッシュ、この人は?」
たずねるドロッセルに、男も興味を持ったらしい。
大ぶりなゴーグルを持ち上げ、しげしげとドロッセルを見つめてきた。思っていたよりも童顔だ。目尻の垂れたグレーの瞳に、好奇心を滲ませている。
「トリッシュ、なんだ、この小さいの」
「グレース・マイヤーの弟子ドロッセル・ガーネット。と、オートマタのノエル。――こちらはマリブ・マクダネル。例のモルグウォーカーの目撃者」
「目撃者って……!」
思ってもみなかった素性にドロッセルは仰天する。
「グレースってあの猪殺しか。烈女の弟子がこんな小さい。へぇー、興味深いなぁ」
一方のマリブもグレーの瞳を丸くする。
そうしてにっと笑って、ドロッセルに向かって手を差しだしてきた。
「マリブ・マクダネルだ。こんな小さい仕事屋は初めて見るぜ、よろしくなァ!」
「よ、よろしく、お願いします……?」
「そんな畏まるなよ! 逆にやりづらいぜ!」
ドロッセルは目を白黒させつつ、マリブと握手を交す。凄まじい勢いで振られた。
続いてマリブはノエルへと照準を合わせた。
「あんた、人形だってな!」
「はい」
「ロンドンで今一番イケてる仕事屋のオレより美形じゃないか! よろしくなァ!」
「……どうぞよろしくお願いいたします」
ノエルは表情一つ変えずに握手に応じた。やはり凄まじい勢いで振られている。
そこに、パトリシアの注意が飛ぶ。
「違うでしょう、マリブ。あなたは仕事屋じゃ――」
「おっと、そうだったな! そうだった!」
マリブはぱしっと軽く額を打ち、ノエルの手を離した。
そしてマントを華麗にひるがえし、堂々たるポーズを取ってみせた。本人的には格好良いポーズのつもりなのだろうが、飛翔するムササビに似ていた。
「正しくはこれから一番イケてる仕事屋になる男マリブだ! よろしくなァ、先輩!」
「う、うん……」
困った。今まで会ったことがない種類の人間だ。
ドロッセルは手首をさすりつつ、返事に悩んだ。ノエルも沈黙している。
しかし、どうもマリブはなにか反応を求めているように見える。ここは彼と顔見知りらしいパトリシアに意見を仰ぐべきか。
「――どうでもいいけどさ」
助け船は意外なところから出された。
ドロッセルがはっと振り返ると、腕組みをしたキャロルが立っていた。その背後では、トム=ナインがじっと地下鉄への入り口を見つめている。
キャロルはカツカツと靴音を立てて近づき、マリブを見上げた。
「あんた、身内に魔女がいるわね?」
「魔女……?」
それは、異端者の中では最も知られた存在。
しかしドロッセル自身もあったことのない――最も古く、最も謎に満ちた異端者。
「魔女に多いのよ。早口で、短文と問答を繰り返す独特の喋り方。――あの、最も異形に近いといわれる異端者達にね」
「うはは! わかるか! わかっちまうか!」
マリブは高らかに笑い、マントを格好良くひるがえす。
その様は、ドロッセルが想像していたようなミステリアスな魔女には程遠い。なにより彼は、今までドロッセルが出会った異端者達となにか違うように見えた。
「そうとも! オレはなんせ――!」
「ここは貴方がいて良い場所じゃないわ、マリブ」
マリブの口上を遮り、パトリシアがきっぱりと言い切った。
「わかるでしょう、ノッドノルがどれだけ危険な場所が……」
「やかましい! それでもオレは帰るわけにはいかんのだ!」
マリブはブンブンと激しく首を振る。いちいち身振り手振りの大きい男だ。
「ここで帰ったらオレは負け犬確定だ! イケてない仕事屋じゃないか! いやイケてない仕事屋志望じゃないか正しくは! そもそも何故オレがここにいるのか! どうしてオレはここまで来たのか! そう、それは遡ることおよそ――!」
キャロルが靴のヒールを石畳に叩き付けた。
「雪辱を果たしにきました! オレをビビらせたモルグウォーカーをやっつけたいです!」
途端一転し、マリブは丁寧な口調で訴えた。顔が真っ青になっている。
パトリシアは額に手を当て、深くため息をつく。
「無理よ。帰りなさい、マリブ。だって貴方は――」
カチカチカチ――そんな、奇妙な音が響いた。
それは常人にとってはほとんど聞き取れないほどの――そして、聞き取っても意味のわからない音だったろう。けれども、その場の異端者達は理解した。
パトリシアが口を閉じ、ホルスターからマグノリアを引き抜いた。
「お……? どうした? なんかあったのか?」
マリブがきょとんとした顔で首をひねった。
「静かにして。モルグウォーカーの威嚇音よ」
キャロルが押し殺した声で言って、鋭い目であたりを見回す。
ドロッセルは臨戦態勢を取った。ノエルが流した霊媒血液から剣を形成するのを横目にしつつ、全神経を集中させて威嚇音の聞こえる方向を探る。
「……どこだ? 近くにいるのか?」
「わからない。もう聞こえないわ。そもそも、威嚇の対象が私達かどうか――」
パトリシアの言葉が終わる前に。
霧の彼方から、凄絶な叫び声が響き渡った。その場の全員が、弾かれたように一方を見る。
ドロッセルは銀符を引き抜き、マギグラフに挿入した。
「あっちだ! あっちにモルグウォーカーが――!」
「――駆けろ、セブンリーグブーツ!」
赤い靴が煌めき、地を蹴る。
その場の誰よりも早く、マリブは駆け出した。背中のホルダーから奇妙な草刈り鎌に似た剣を引き抜き、彼はまっしぐらに叫び声が響いた咆哮へ走った。
「ここで会ったが百年目! 八つ裂きにしてやるぜ!」
「ま、待って!」
ドロッセルは仰天してその背に手を伸ばす。が、彼のマントはすぐに霧の向こうに消えた。
パトリシアが眉に皺を寄せる。
「困った人……! みんな、追いかけましょう!」
「わかった!」
走りながらドロッセルはうなずく。トム=ナインが鳴き立て、追いかけてくる。
「ノエル、先に行け! お前の方が私達より早い!」
「御意」
静かな応答とともに、ノエルがあっさりとドロッセルを追い抜いた。黙示録シリーズ最速といわれた彼ならば、すぐにマリブに追いつくだろう。
しかし、それとは異なる感想を抱いたものがいた。
「追いつけるわけ?」
がしゃんがしゃんとやかましい音が響く。
振り返る間もなく、キャロルが悠々と人形師達に追いついた。四足歩行に変形したヴェンデッタの背中に載り、霊糸を引いている。
「あいつ、セブンリーグブーツを履いてるんでしょ? 一日で七リーグ(約三十四キロ)を歩くという本物ではないでしょうけど、例え偽物でもあの呪具は――」
「大丈夫よ、私達の足ならすぐ追いつけるわ」
パトリシアが淡々と答えた。
キャロルが訝しげに眉を吊り上げる。それに、パトリシアは肩をすくめた。
「――マリブは常人よ」
一瞬、なにを言われたのか理解できなかった。
ドロッセルは声も出せずに、隣を駆けるパトリシアを見る。キャロルさえもオリーブグリーンの瞳を見開き、驚愕の表情で彼女を見た。
「マリブは、なんの異能も持たない。夜光眼のような異端性もない。持つのは異形への耐性だけ。……だから彼は、どんな呪具を持っていてもその真価を発揮できないの」
「なら、どうやってノッドノルに?」
ドロッセルはたずねる。だんだん息が苦しくなってきたが、それでも聞きたかった。
「異能を使わなければ――霊気を使って道を開かなければ、異界には――」
「彼が持っている呪具の中で、唯一本物があるの」
パトリシアは涼しい表情で走りながら答えた。
「異界と現界が混ざり合っていた時代――神代の時代に作られた、いわば神器よ。神器は普通の呪具とは違って、使い手を選ぶの。そしてそれは、異端者とは限らない……」
「ハッ……それが異界と現界を行き来する道具ってわけね」
合点がいった様子で、キャロルが呆れたようにため息をつく。
「で、選ばれたのが常人のマリブってわけ。――でも、あいつに身を守る力はない。下手に異形に見つかれば、たちまち餌食になる」
「そう。……どうか助けてあげて。彼を失うわけにはいかないわ」
「仕方がないわねぇ。報酬は倍額よ――!」
キャロルの手が強く霊糸を引く。獣の如く四つ足で石畳を蹴っていたヴェンデッタが青い炎を吐き、一気に加速する。その姿は、すぐに霧の向こうに見えなくなった。
「……霧が濃いな」
「えぇ、バルトアンデルスがいる可能性も考慮した方が良いわ。注意してちょうだい」
夜露に濡れた石畳を駆け、曲がりくねった道を抜ける。
そうしていくつめかの小路に出た時、突如ルーカスが頭上に向かって吼えた。
直後、ドロッセル達の眼前にどさりと何かが落ちてきた。
濃厚な血のにおいがあたりに広がる。
「うわっ、なんだ……!」
転びそうになりつつもドロッセルは足を止める。
そして目の前に転がっているものに仰天した。それは、モルグウォーカーの死骸だった。
犬と猫の低い唸り声が響く中、パトリシアが慎重に死骸に近づいた。
「……死んでいるわ。落下した拍子に、首の骨を折ったみたいね」
確かに、目の前のモルグウォーカーは頭部が奇妙な方向に折れ曲がっている。しかし、ドロッセルはその死骸にどこか違和感を感じた。
「でも、それ以外に外傷がない……こいつは猿みたいに、高いところの移動が得意な異形だったろう? 建物から落ちて死ぬものなのか?」
パトリシアが答える前に、近くで聞き覚えのある声が響き渡った。
「――見つけたァ! 手間取らせやがって!」
「マリブの声! すぐ近くにいるぞ――!」
声の聞こえる方向に、ドロッセルは走り出そうとする。
その時、けたたましい声が上がった。
それは紛れもないモルグウォーカーの声。甲高い笑い声にも似たそれが独特なリズム感で放たれ、不気味なこだまをノッドノルに響かせる。
「まずい……! 仲間を呼んでる!」
「急ぎましょう! マリブが殺されるわ!」
敵を感知したらしきルーカスが吼え、駆け出す。
トム=ナインもギャアギャアと鳴き立て、ベルベットが唸り出した。オートマタ達の緊張感が高まるのを感じつつ、ドロッセルは走る。
ノエルはマリブに追いついたのか。キャロルはマリブを見つけられたのか。
その答えは、曲がり角を曲がった先にあった。
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