2.夜明け前の怪異

 ――異形ノ件 至急 バックヤード ニ 来ラレタシ

 電報にはそんな一文が記されていた。

 ヒラリーが『至急』等という言葉を使うのはよほどのことだ。

 ドロッセルは店をキャロルに任せ、ノエルとともに馬車に飛び乗った。トム=ナインは暖炉の前で眠り込んでいたので、そのまま放置することにした。


「スコットランド・ヤードまで! 急いで!」


 ベルベットのフードで夜光眼を隠しながらドロッセルが叫ぶ。世の中には異端者と見てわかる者を乗せない馬車もある。念のための行動だった。

 御者はさして気にするそぶりもなく、すぐに馬の背に鞭を打った。

 ドロッセルはほんの少し落ち着いた心地になって、席に着いた。

 とはいえ、これはハンサムキャブと呼ばれる二人乗りの二輪馬車だ。長身のノエルと乗るとさすがに窮屈で、乗り心地はあまり良くはない。

 車室の前面が開放されているので、外の空気を吸えるのが救いといえば救いだった。


「一体、何があったんだろう」


 馬車に揺られながら、ドロッセルは呟く。


「異形の件ということは、なにか新しい異形が出たのかな。でも私達は昨晩、バルトアンデルスを倒したところだし……こんな連日で依頼を持ってくることはないのに」

「……電文だけでは、判断がつきません」


 ノエルが淡泊に答えた。

 ドロッセルは「たしかに」とうなずく。ヒラリーからの電報は短かった。あの内容であれこれ考えていても仕方がないことだ。

 そのまま、二人はしばらく黙っていた。

 聞こえるのはストランド街の喧噪と、馬車の車輪の音、耳元に聞こえるベルベットの寝息。

 やがて、ドロッセルが口を開いた。


「……ちょっとだけ、話を聞いてもらってもいいか? 聞くだけでいい」

「私でよろしければ、なんなりと」


 ドロッセルはノエルの返答にうなずいた。

 しかし、すぐには話せなかった。誰かに話したくてたまらなかったものの、もやがかかっているような胸の内をどう言葉にすれば良いのかまるでわかっていなかった。

 それでもノエルは静かに待っていてくれた。


「……ベルベットを、改良しようと思ったんだ」


 自分の名前を呼ばれたことに反応したのか、ベルベットが襟元をぴんと立てた。しかし、ドロッセルの耳元に聞こえる寝息は変わらない。どうやら寝ぼけているらしい。


「でも、ベルベットは見てのとおり少し特殊なオートマタだ。だから改良が難しくて……私だけじゃ、良い案が出せない」


 ドロッセルはそっと襟を直しつつ、言葉を続ける。


「はい」とノエルがうなずく。その目はドロッセルではなく、ただ前に向けられている。

 その様子に、ほんの少しだけ心が落ち着いた。


「キャロルは先生の帰りを待てばいいと言った。でも、私は早く改良したい。そうすれば、私はもっと戦える……足手まといにならずに済む」


 ノエルはなにも言わない。

 ドロッセルは自分の膝頭に視線を落とし、小さくため息をついた。


「……それで、どうすればいいか考えて……父の書物を読んでみようかと思った」


 隣で、ノエルが身じろぎした気配があった。

 顔を上げると、青い瞳と目が合う。澄んだ水面のようなノエルの瞳には彼自身の感情はなく、ただ無機質にドロッセルの姿を映していた。


「父は、機巧咒式マギテクスの天才だ……あの人のやり方を学べば、なにかを掴めると思う。でも……私は、あの人が……」


 憎い、と言おうと思った。あるいは恐ろしい、と。

 けれどもそれらの言葉は口にする前に、溶けるように消えてしまった。

 一体自分は、父をどう思っているのだろう。どれだけ胸の内を探っても、答えはない。

 ドロッセルは首を振り、ぎゅっと自分の膝をきつく握りしめた。


「あの人の技術を学ぶことに……使うことに、ためらいを感じている」


 ただ、それだけは確かだった。

 今までずっと、父のことを思い出すことさえ避けていた。なのに、今さらになって父の事を考えている。父の書物に手を伸ばそうとしている。

 錆付き、動かない歯車を無理やりに動かそうとしているようだった。

 恐れ、戸惑い、後ろめたさ――全てが絡み合い、自分を縛り付けているような気がした。


「……私には、わかりかねますが」


 その囁きに、ドロッセルはゆるゆると膝から視線を上げる。

 ノエルの青い瞳は、再び前方に向けられていた。


「お嬢様が作るのは、お嬢様の人形でしょう」


 目の前に広がるのは、透き通るような冬空と、賑やかな街と、緩やかに走る馬車の群れ。

 それらを見つめながら、ノエルは語った。


「貴女は、お父様ではない。お父様の所有物でもない。……貴女がそれを望まない限りは」


 ドロッセルは黄金の瞳を見開く。

 息も出せずにいる自分に、ノエルはゆるりと視線を向けてきた。


「……その技を誰が見出したかよりも、どう使うかを考えた方が合理的です。貴女はただ必要なものを用いるだけ……それだけで十分かと」

「そう、かもしれない……けど」


 ドロッセルは何度も首を横に振り、赤髪をぐしゃりと描いた。


「でも、私は……最近自分が父をどう思っているか、答えが出せなくて……だから、わけがわからなくて……私は……っ」

「――貴女は焦っている」


 冷たい雫を落とされたような気がした。頭を押さえたまま、ドロッセルはノエルを見る。


「焦りはいけません、お嬢様。……取り返しの付かないことを招く」


 ノエルは青い瞳をじっと自分に向けたまま、抑揚のない声で続けた。

 取り返しの付かないこと。

 かつてモードレッドが引き起こしたそれは、焦燥によるものだったのだろうか。しかし、それを問いかけるだけの勇気は、ドロッセルにはなかった。

 ノエルはふっと目を伏せると、再び前を見た。


「……すぐに結論を出すことはありません。焦らず、慎重にお考えください。お嬢様がいかなる結論を出そうとも、私はお嬢様のお傍にあります」

「ノエル……」


 ドロッセルはじっと、ノエルの端正な横顔を見つめた。

 そして小さく息を吐き、景色に目をやる。テムズ川の淀んだ流れと、そこをせわしなく行き交う無数の貨物船が見えた。


「……もう少し、ゆっくり考えてみるよ。ありがとう」

「礼には及びません、お嬢様」


 二輪馬車の行く先に、赤いレンガ造りの厳めしい建物が見えつつあった。


                  ◇ ◆ ◇


「――夜明け前だ。時刻的には、君達がバルトアンデルスを退治した後だね」


 ヒラリーが言いながら、地図の上に赤いピンを刺した。

 場所はバックヤード――先日と同じく副局長室だ。モールやオーナメントの数が増え、先日よりもクリスマスの内装は派手になっている。

 しかし、部屋の空気は物々しい。

 やや硬い表情のヒラリーの背後には先日と変わらず、パトリシアとダンカンが控えている。ドロッセルの隣では、ノエルが機械的に紅茶を供給している。


「ホワイトタワー駅の近くで、新たに異形の目撃情報があった」


 テーブルの上に広げられた地図を、ドロッセルは見下ろした。

 ロンドンを描いた地図には無数に赤いピンが刺されていた。どれも、ここ最近怪異が起きた場所だ。ピンは地図全体に散らばり、いびつな円のようになっている。

 特にそれはロンドン塔の近く――特にホワイトタワー駅の近辺に集中して刺さっていた。

 それを見て、ドロッセルはふと首を傾げた。


「……改めて見ると、なんだか変な分布図だな。この辺りだけピンが帯みたいになっている」

「道に沿って並んでいるだけだろう。この道はそこそこ人通りも多いから、通行人目当てならなにもおかしいことはない」

「道路沿い、か……」


 ダンカンの言葉を受け、ドロッセルは改めて地図を見る。

 確かに多くのピンはホワイトタワー駅近辺から、曲がりくねった道路に沿うようにして刺さっている。ダンカンの指摘はもっともなように思えた。

 しかし、どうにも腑に落ちない。


「近くにもっと大きな通りがあるのに、どうしてここなんだ……?」


 異形の出没地域の少し先――テムズ川沿いには、大きな通りが存在する。近くには大きな魚市場もあり、人通りはこちらのほうが激しい。

 なにより、あの異形を強く引き寄せる作用を持つロンドン塔がすぐ目の前にある。

 しかし実際に怪異が起きている場所は、そこから少しだけ離れている。


「ロンドン塔近くは、異形にとって居心地が良い場所らしいからねぇ。でもそれは逆に言えば、異形の中でも競争が激しい場所ってこと」


 疲れたような顔でヒラリーが軽く背後に手を伸ばす。

 その意を察したすぐにパトリシアが菓子を満たしたガラス鉢を持ってきて、その手に渡した。ヒラリーは無造作にキャンディを掴み取りながら、説明を続けた。


「だからここには強い異形が現われやすい。それ以外の異形はおこぼれ狙いで、ロンドン塔の外縁に現われる。今回の異形もそういうことなんじゃないかな」

「なるほど……強力な異形を避ける、ということか」


 たしかにこの場所ならロンドン塔にも近く、それでいて安全だ。

 うなずくドロッセルに対し、ヒラリーは先ほど新たに刺したピンを示す。


「さて、本題に入ろう。時刻は午前四時半。君達がバルトアンデルスを退治した後、この通りを通ったある男が一体のモルグウォーカーを目撃した」

「なっ、男は無事だったのか?」

「ああ、多少異形に対し心得のある男でね。命からがら逃げのびたらしい。問題はなさそうだが一応、病院で処置を受けてもらってる」

「……大人しくしていればいいんだがな」


 ダンカンが不機嫌そうに鼻を鳴らす。その言い方が若干気になったが、彼に質問する度胸はドロッセルにはなかった。

 キャンディの包み紙を開きながら、ヒラリーは苦笑する。


「さて、問題はここからだ。――目撃されたモルグウォーカーが一体きりってところが気になるんだ。奴らは小さな群れを組んで動くのが基本だからね」


 モルグウォーカーは、三、四体ほどの群れを形成するのが常だ。

 異界では、もっと大きな群れを作ることもあるらしい。しかし、少なくともノッドノルのような異界の表層――あるいは現界では、小さな群れで行動するのが常だ。

 彼らは緊密な連携で獲物を追い回し、力尽きたところでいたぶりながら殺すのを好む。

 故に、一体のみでの出現は極めて珍しい。


「まぁ珍しいってだけで、完全にないとは言い切れないんだけど……」

「だから、ここで考えられる可能性は三通り」


 やれやれと椅子に身を沈めるヒラリーの言葉を継ぎ、パトリシアが指を三本立てた。


「一つ。群れに属していない極めて稀なモルグウォーカー」


 淡々と言いながら、パトリシアは白い指を曲げていく。


「二つ。たまたま群れを離れて行動していたところを目撃されたモルグウォーカー」

「……三つ目は?」


「異形への恐れを読み取ったバルトアンデルス」


 ドロッセルの問いに答え、パトリシアは最後の指を曲げる。

 片眉を上げ、ドロッセルは正面に並ぶ副局長と捜査官達とを見つめた。


「バルトアンデルスは退治しただろう?」

「えぇ、間違いなく。でも、間を置かずして異形が現われた。たまたまモルグウォーカーが同じ場所に現われただけということもありえるけど……」

「万が一の可能性がある」


 唸るようなダンカンの言葉に、パトリシアは物憂げな顔でうなずく。


「例えば、貴様らが退治し損なったとか……」


 ダンカンの緑の瞳に射竦められ、ドロッセルは思わず背筋を震わせた。

 反論したいが、言葉が出てこない。なにを言っても怒号が飛ぶ未来しか見えなかった。


「……昨夜、異形の組織片を回収したでしょう」


 代わりに、ノエルが口を開く。

 ダンカンの鋭いまなざしが、ドロッセルから彼へと映った。翡翠の槍の如きその双眸に睨まれても、ノエルは眉一つ動かさず淡々と言葉を続ける。


「あれからは、なにもわからないのですか」

「ああ、トリッシュが回収した組織片ね」


 ヒラリーがぱちりと指を鳴らし、身を乗り出した。


「あれは大英博物館に回した。そこの研究員にちょっとだけバルトアンデルスに詳しい奴がいてね。そいつの話だと間違いなくバルトアンデルス。で、死んでいると」

「……ならば、我々が仕損じたという可能性は低いのでは」

「まぁね。ただ、念には念をってこと」


 ヒラリーは申し訳なさそうに笑うと、菓子の鉢に手を突っ込んだ。


「なんせ、まだわからないところの多い異形だ。ダンカンは言い過ぎだけど、我々としては万が一の可能性を潰しておきたい。すまないね」


 そうして掴み取ったキャンディやチョコレートを、ドロッセルとノエルとの前に置く。

 これは、詫びのつもりなのだろうか。

 まじまじと、自分の目の前にこんもりと盛られたドロッセルは見つめる。

 隣からノエルがテーブルに手を伸ばし、菓子の中からチョコレートを一つ取った。無機質な瞳を煌びやかな包み紙に近づけ、じっと観察しているように見えた。


「だから昨日の今日で悪いけれど、もう一度ここに行って欲しいんだ」

「もう一度、異形退治だな?」


 菓子の山からドロッセルは顔を上げる。

 ヒラリーはうなずくと、軽く手をひらつかせた。

 今度はダンカンが動き、書斎机から紙束を持ってくる。依頼に関する資料と、契約書だ。


「今回もトリッシュを同行させる」


 テーブル越しに差し出された契約書をドロッセルは受け取る。ペンを求めるまでもなく、ダンカンが目の前にペンとインク壷とを荒っぽく用意した。


「出現した異形がなんであれ、発見次第始末しろ。クリスマスを異界の輩に穢させるな」

「わ、わかりました」


 やや身をすくめつつドロッセルはうなずく。

 契約書のページを開きながらペンに手を伸ばそうとしたところで、ドロッセルは気づいた。

 テーブルの上に、綺麗に畳まれた小さな包み紙が二つ。

 しかしドロッセルはまだ、ヒラリーの菓子に手をつけていない。

 ということは、これは――ドロッセルは、ちらりと隣のノエルを見る。

 従者はいつも通りの無表情で、じっと壁に掛かっている時計を見つめているようだった。


「なにをしている。とっとと契約書を読め、ガーネット」

「あ、ご、ごめんなさい……!」


 ダンカンに急き立てられ、ドロッセルは慌てて契約書に目を通した。

 そして、末尾のサインをする。そのペン先は、相変わらず少しだけ震えていた。

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