5.彼の心は見えず

「平気だ……私は戦える!」


 震える声で答え、ドロッセルはマギグラフを嵌めた左手を握る。

 アーネストがゆるりと手を払う。

 それに従って、エスメラルダが引きつった声で笑いながら襲いかかってきた。緑のドレスから人造触手が幾本も伸び、ドロッセルとキャロルとに迫る。

 シンバルを打ち鳴らすような声とともに、ヴェンデッタが鉤爪で触手を払う。

 ドロッセルもまた、魔術で触手を封じようとした。


「【詠唱chant】――い、つッ!」


 経絡の傷が鋭く痛んだ。

 まだ傷が開くほどの負荷ではなかったはず。そして、ベルベットによる補助もある。

 一体、何故。どうして、こんなことに。

 ドロッセルの頭が真っ白になった。

 そのせいで、後退しようとしたその足がもつれる。


「くそっ、なんで――!」

「ドロッセルッ!」


 尻餅をつくドロッセルに、キャロルが叫ぶ。

 ヴェンデッタが鉤爪を振りかざし、ドロッセルを救おうと動く。

 しかしそれよりも速く人造触手が、

 砕け散った。


「これは……」


 青い月光に、透明な硝子のような破片が散る。その様を、ドロッセルは呆然と見つめた。

 エスメラルダが甲高い悲鳴を上げ、身をよじらせた。

 見ればその人工触手に、銀の短剣が突き刺さっている。そこから赤黒い亀裂が生じ、またたくまに触手を辿ってエスメラルダ本体へと這い上がる。


「【傷】の忌能――!」


 ドロッセルの驚愕の直後、断末魔の声とともにエスメラルダの体が砕け散った。

 と、ドロッセルの肩を誰かが支えた。

 一瞬身を固くしたものの、耳元に静かなテノールの声が落ちる。


「――遅れて申し訳ございません、お嬢様」

「ノエル……!」


 一瞬泣き出しそうになりつつも見上げたドロッセルの目に、宵闇のように青い瞳が映る。

 明確な根拠などなにもない。

 それでも彼が纏っている静かな空気と、感情のないテノールの声を聞いた瞬間にわかった。

 ドロッセルの背中を支えているのは、間違いなく本物のノエルだった。

 ノエルは黙ってドロッセルを見つめると、頬にそっと手を伸ばしてきた。

 切り傷に触れられ、ドロッセルは思わず顔をしかめる。


「つっ――ノエル、私は大丈夫だ……」

「……いいえ。傷ついていらっしゃる」


 ノエルは首を振り、立ち上がった。

 ドロッセルを庇うように片手を広げ、彼はアーネストに向き直る。

「すぐに片をつけます。少々お待ちください」

「結構しぶといわよ、こいつ。あと一、二回は変身できるかも」


 ヴェンデッタの鉤爪をアーネストに向けつつ、キャロルは不満そうに唇の端を下げた。

 ノエルは両手を緩く広げる。

 その掌に赤い傷が開き、滴る血が二振りの剣を形成した。それらを鋭く構え、ノエルは囁く。


「……問題ございません。何に変わろうと、同じです」

「あら、心強いこと。――ドロッセル、あんたは少し休んでなさい」

「わ、私は平気だ! 本当に……!」


 立ち上がったドロッセルは、必死で首を振る。

 しかしキャロルはバルトアンデルスから視線を逸らさず、軽くため息をついた。


「こいつは能力の関係上、相手の調子を乱すことを得意にしてる……魔術というのは精神に影響を受けるでしょう? さっき、必要以上に経絡に霊気を通したんじゃない?」


 その言葉に、ドロッセルは眼を見開く。


「緊張で力が入りすぎたのよ。バルトアンデルスに慣れてないならよくあること。ましてやあんたはこないだまで見習いだったんだから」


 言いながら、キャロルが鋭く手を振るう。

 ヴェンデッタが一回転。マントが翻り、そこから無数の星型刃が高速回転しながら飛ぶ。

 アーネストは顔を歪め、腕を振り払う。

 鈍い金属音とともに、刃が弾かれた。しかし間髪入れずにノエルが追撃を加える。怒濤の如きその攻撃に、ヴェンデッタが舞うような動きで加勢した。


「初心者ならこんなものよ。むしろ初手でバルトアンデルスにやられなかっただけ十分だわ」


 ノエルを援護しつつ、キャロルはドロッセルに声をかけつづける。

 ドロッセルは、そんな彼女の背中をじっと見つめた。


「……キャロルも、最初はこうだったのか?」

「まさか。あたし見ての通り神だから。あんたみたいな凡人と一緒にしないで」

「お前なんか大嫌いだ」


 毒づきつつも、ドロッセルの唇にはいつしか微笑が浮かんでいた。

 バルトアンデルスは険しい顔で、ノエルの連撃をしのいでいる。

 恐らくドロッセルから読み取ったアーネストの情報が少なく、その力を発揮できずにいるのだろう。魔術を仕掛けようとしても、ノエルとヴェンデッタによって阻まれる。

 バルトアンデルスは歯を剥き出し、唸った。


「あら、いい顔ねぇ。いい加減、追い詰められてきた感じ?」


 キャロルが嘲笑う。まるで悪役のようだ。

 そんな様子に苦笑しつつ、ドロッセルは腰の金属瓶を外した。スカボロー・フェアを一錠掌に出し、口に運ぶ。丸薬を噛み砕くと、甘く爽やかな薬草の香味が口に広がる。

 途端、頭の中にあったもやが一気に晴れた気がした。

 先ほどよりも落ち着いた心地で、ドロッセルは銀符をスロットに差し込んだ。

 ノエルとキャロルがドロッセルを見、そして一瞬だけ視線を交わす。


「キャロル! ノエル!」

「世話が焼けるわねぇ」「……承知いたしました」


 ドロッセルの叫びに、二人は間髪入れずに答えた。

 まったく同じタイミングで、ノエルとヴェンデッタは異形から離れた。

「【詠唱chant】――赤い波濤ファイアウェーブ!」


 炎の波がバルトアンデルスを呑み込む。

 熱、威力ともに安定。――経絡に傷を抱えている上に、先ほど激しく精神を乱していた自分が放ったとは思えないほど、上出来な赤い波濤だった。


「やるじゃない」

「……お見事にございます」


 キャロルはにいっと笑い、ノエルが淡泊な賞賛の言葉を送ってきた。

 それには答えず、ドロッセルは地面に手をついたまま息を吐く。その目は、炎の向こうで甲高い悲鳴を上げ続ける影を油断無く捉えていた。

 甲高い悲鳴とともに、バルトアンデルスの姿は再び霧へと変じた。


「さて、そろそろ消えて欲しいところだけど……」


 霊糸を揺らし、キャロルが構える。その動きに合わせ、ヴェンデッタが鉤爪を霧に向ける。

 ざわりと霧が揺れた。

 ぼこぼこと大小様々な眼球が浮かび、それらが一斉に三人に視線を向ける。


「まだ死なない!」


 キャロルが舌打ちし、指先を素早く動かした。ヴェンデッタが跳ぶ。

 一方のドロッセルは黒く焼けた銀符を排出しつつ、ノエルの背中に向かって叫んだ。


「ノエル! 忌能を使え! 私の霊気を使えば派手に消耗しないはずだ!」

「……御意」


 ノエルはちらりとドロッセルの顔をうかがい、小さくうなずいた。

 視線を戻した彼の鼻先に、小さな眼球が現れる。

 ノエルは一瞬、わずかに目を見開く。


「読心した! ともかく攻撃を――!」


 キャロルがうなり、ヴェンデッタを操る。

 霊気を帯びた鉤爪は、しかし霧に触れることはできなかった。

 まるで攻撃を避けるように、明滅する霧が空中へと高速に収束したのだ。

 それは渦を巻き、無数の影を浮かびあがらせ――。

 そして爆発したかのように散った。


「……は?」


 キャロルが気の抜けた声をあげる。

 一方のノエルはさして表情を変えず、無機質な瞳で霧を見上げた。


「……心無き者に、読心は無意味でしょう」


 その囁きに、ドロッセルは何故だか胸を締め付けられるような気がした。

 散り散りになり、無力化したバルトアンデルス。浮かぶ眼球は混乱したように血走り、ひたすらぎょろぎょろと視線を彷徨わせる。

 その光景を歓喜するべきなのに。

 ドロッセルは首を振り、マギグラフに新たな銀符を挿入した。


「すぐに変身することはできないみたいだ。今のうちに――!」

「【詠唱(chant)】――零の檻(フリーズ・プリズン)」


 静かな声が耳朶を打つ。

 同時に冷たい風がドロッセル達の間をすり抜け、無力化したバルトアンデルスに吹き付けた。

それは、バルトアンデルスだけを狙った攻撃だったらしい。

 どこからか、か細い悲鳴が響く。

 霧は逃れようと蠢いたものの、冷気によって急速に凍りついていく。血走った無数の眼球も凍結し、やがてそこには歪な形をした白い氷像が現れた。

 ドロッセルはマギグラフを嵌めた手を下ろし、風が吹いてきた方向を見た。


「トリッシュ……」

「遅くなって本当にごめんなさい。みんな無事でよかったわ」


 冷たい呼気を放つルーカスを連れ、パトリシアが現れた。どうやら相当走ってきたらしく白い頬は紅潮し、肩を大きく上下させている。

 その足元から、火の玉のようになにかが走ってきた。

 それはドロッセルの足元にしがみつき、にゃあにゃあと盛んに鳴き立てる。


「トム! よかった、どこに行ったかと思ったよ」


 ドロッセルは顔をほころばせ、甘える猫を抱き上げた。その隣に、掌中に双剣を納めたノエルが静かに付き添う。

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