Ⅱ.バルトアンデルスの瞳
Prologue.さよなら、ファーザー・クリスマス
――それが、いつのことだったのか。
ドロッセル・ガーネットははっきりとは覚えていない。
ただ確かなのは、村の人々にひどくいじめられた後だったということ。
その頃、ドロッセルは父とともにひっそりと暮らしていた。生まれて間もない頃はドイツのどこかにいたようだが、そのときの記憶はない。
多分、ハイランドのどこかだった。
荒涼としたあの大地の、いつも霧に煙っている森の中。父はそこに小さな館を構え、息をひそめるようにして暮らしていた。
近くに村があり、たまに父はそこの市場に遣いの人形をやって買い物をさせた。
ある日、その村でドロッセルは祝祭が行われることを知った。
祝祭はとても楽しい。そんな話を、暖炉のそばに立つ赤毛の男から聞いた。
「――でかい催しさ」
赤毛の男は言って、ブランデーグラスを傾けた。
幅広帽子を被ったその男は、時折館に訪ねてくる奇妙な客の一人だった。いつも中途半端な顔で笑っていて捉えどころがないが、親しみやすい客だった。
「人が大勢集まる。でかい市場も開いてな、見たことがないものを売るんだ」
「なんの祝祭なの?」
「もうすぐクリスマスだからな。……この日は常人も異端者も、宗教も関係ない」
やれやれ、と赤毛の男は肩をすくめる。
どういうわけかこの男は宗教の話をする時、少し物憂げな顔になった。
「気になるなら、ラングレーと一緒に見に行ったらどうだ。きっと連れて行ってくれるぞ」
「……行かない」
ドロッセルは暖炉の火を見つめて、首を振った。
「ほう、そりゃどうして?」
「お父さん、私と話すの嫌がるんだもの。それに……えっと……『よんばんめのふういんしょりのてんけん』で、最近忙しいって」
「四番目の……はっはぁ。あんな失敗作、とっとと廃棄すりゃいいのになぁ」
赤毛の男はため息をつき、がしがしと頭を掻いた。そしてなにか決めたように一つうなずいて、ドロッセルにへらっと笑いかけた。
「なら、おじさんと行くかい」
「えっ……いいの?」
「いいとも。おれは祭りは好きだからね。……あー、ガイ・フォークスデーだけは別だが」
「でも、きっと馬鹿にされる」
「目を気にしているのか? なぁに、いつもと違う服を着て、スカーフを被っていけばいい。おれの手を離さなけりゃ大丈夫さ……」
そうして、ドロッセルは村に出かけた。
何故かいつも火薬のにおいがする男の手をとって。いつもより少しだけおめかしをして。金色の目がはっきりと見えないよう、タータンのスカーフを被って。
途中までは良かった。
途中からは、最悪だった。
男の手からはぐれて、ドロッセルは踊りの喧騒の中に迷い込んだ。
そうして気まぐれで残酷な風に、スカーフを奪い取られた。
「悪魔の眼! 悪魔の眼がいるぞ!」
「ああ、あの悪霊憑きの目、気味が悪い」
「異端者が祭りの場にいるなんて!」
「とっとと出ていけ、悪魔の子!」
そこはまだ、異端者への差別が激しい場所だった。
さんざん石を投げつけられ、囃し立てられ、逃げ惑った。いよいよ追い詰められ、冷たい川に飛び込むしか逃げ道がなくなった途端、近くで小規模な爆発が起きた。
皆がそれに気を取られている隙に、赤毛の男がドロッセルを抱えた。
「……ごめんよ。見失っちまって」
男の謝罪を聞きながら、ドロッセルは泣きながら逃げ帰った。
「――うんざりさせられるな」
その日の晩餐の席で、父は言った。
足元には、金の首輪をはめた黒猫がじっと影のように身を横たえている。
「村に出るな、と何度も言った。あの村は僕らにとって所詮ただの防壁に過ぎない」
父の金の瞳は、いつも冷ややかにドロッセルを見る。そのまなざしが嫌でたまらなくて、ドロッセルは父と目を合わせて話すことがない。
「なのにお前は奴とともに出た。……馬鹿なのか? 自分で殴られにいったようなものだろう」
「……だって」
「だって、なんだ。今度はどんな馬鹿らしい言い訳をするつもりだ?」
けれども、その日だけは違った。
しゃくりあげていたドロッセルは涙をぬぐい、きっと父を睨んだ。
「だって、一回も……一回もお祝いなんてしたことないんだもん……ッ!」
ドロッセルの言葉に、父はわずかに金の瞳を揺らした。
「誕生日だって……祝ってもらったことないから……ッ! お祝いって、どんなのかッ、知りたかったから……!」
クリスマスはおろか、誕生日すらも祝ったことがなかった。
涙に濡れたドロッセルの声に、父はゆっくりとまばたきをした。
その表情に、変化はない。
「…………クリスマスなんて、ここ数年であんな祝い方になったものだ。それに異端者が祝うようなものじゃないだろう」
「知らない知らない知らないッ! いつも……いつも難しいことしか言わない!」
そんな言葉を言って欲しかったんじゃない。
それに、本当に重要なのはクリスマスを祝えなかったことじゃない。
でも、自分が何を求めているのかわからない。
「ドロッセル、おい……」
「嫌いッ! 嫌いッ! もう放っておいて!」
父が何かを言いかけたような気がした。
でも、どうせろくなことを言わないことはわかっていた。椅子を蹴飛ばし、ドロッセルは泣きながら大広間を飛び出した。
広すぎる自室で、毛布にくるまり、ドロッセルはさんざん泣いた。
なにもかもが腹立たしく、悲しかった。
わけのわからない怒りと憎悪の感情は、自分自身にも向けられていた。
父が自分の誕生日を祝えない理由を、ドロッセルはかつて誰かから聞いた。
『彼奴の妻――お前の母は、貴様が生まれた日に死んだ』
だから、父は祝えない。
ドロッセルの誕生日を喜ぶ気持ちより、きっと妻の喪失感のほうが大きかったから。
だから、今までドロッセルはそのことを口にしなかった。
それを今日、叩きつけてしまった。
クリスマスを祝えなかったことも、石を投げられたことも、父の冷ややかさも、父に対し残酷な言葉を叩きつけた自分も――全てが憎く、腹立たしい。
そんな感情の渦の中でドロッセルは泣き、やがてじわじわと眠りに落ち――。
――そうして、十六才のドロッセルは目を覚ました。
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