Ⅰ.正体不明の異形

1.クリスマスの準備は終わらず

 一八九〇年――十二月二十二日。

 ドロッセル・ガーネットは、じっとベッドの片隅で丸くなっていた。

 ベッドの真ん中には猫型オートマタのトム=ナインが我が物顔で寝そべっている。熟睡する猫の寝息を聞きながら、ドロッセルは天井を見上げていた。

 窓の外からは、ストランド街の喧噪が聞こえてくる。

 クリスマスを目前に控えているため、ここ最近はいっそう騒がしい。呼売商人がひっきりなしに声を張り上げ、買い物客の気を引こうとしている。

 ドロッセルは寝返りを打ち、壁と向き合った。

 そろそろ起きなければならない時間だ。

 それでもベッドから抜け出さないのは、先ほど見た夢について物思いにふけっていたからだ。


「……あれは、いつのことだったのかな」


 壁紙の花模様を指先で辿り、呟く。冷えた朝の空気に、その吐息は白く広がった。

 赤髪の男とともに見た祝祭。村人達の罵声。冷やかな父との晩餐――。

 すっかり忘れていた記憶だった。


「父さんに……グイードもいた。あれは――」

「――お嬢様、起きていらっしゃいますか」


 静かな声とともに、ノックの音が響いた。


「ノエル! 待ってくれ、今――!」


 ドロッセルははっと目を見開き、掛け布団をはね飛ばして起き上がる。

 途端、寒さの中に放り出されたトム=ナインが悲鳴を上げた。眠りから叩き起こされた猫は大混乱の様子で、ドロッセルめがけて突っ込んできた。


「うわっ! ―――いたたたたたッ! こらっ、ちょっ――!」

「大丈夫ですか」

「ああ、大丈夫だ! ちょっとトムが――きゃっ、噛むな! やめっ――!」


 小さなベッドの上を這いずり、やたらめったらに噛みつくトム=ナインからどうにか離れようとする。瞬間、ドロッセルは大きくバランスを崩した。

 そしてそのまま――硬い木の床へ。


「うぐっ……!」


 ぶつけた体の痛みと床の冷たさに悲鳴を上げた瞬間、がちゃりとドアが開いた。

 地面にへたりこみ、ドロッセルはゆるゆると顔を上げる。

 無表情な従者と視線が合った。


「ノ、ノエル……」

「……お怪我は」


 ドロッセルの元に歩み寄りつつ、ノエルは静かにたずねた。

 肩に掛かる程度の艶やかな黒髪。

 白皙の美貌にはなんの表情もなく、人形めいた印象が際立つ。卿もリボンタイを綺麗に結び、フロックコートには皺一つない。

 青い瞳もいつもと変わらず、凪いだ湖面のように感情の色がなかった。

 その無機質な眼にドロッセルの姿を捉え、ノエルはおもむろに手を伸ばした。

 ドロッセルは慌てて首を横に振る。


「大丈夫だよ、ベッドから落ちただけだ。怪我はなにも――」

「いえ」


 ノエルは淡々と答え、ドロッセルの肩を――正確にはネグリジェを掴んだ。


「服装が大いに乱れております、お嬢様」


 ドロッセルは口を閉じて、自分の格好を見下ろした。

 結っていない赤髪は、背中や肩に流れ落ちている。乱れたそれは、あまり上品とは言いがたい。少なくとも、異性の前に晒してよい髪型ではないだろう。

 そして白いネグリジェは――トム=ナインの先ほどの大暴れの影響で、あちこち裂けていた。

 さらに、その襟が肩から大きくずり落ちていた。

 ドロッセルは硬直した。

 その間もノエルは表情も変えず、ドロッセルの襟元を直した。


「……これでひとまずは問題ございません」


 ドロッセルは何も言えない。


「破れた箇所は、あとで補修いたしましょうか」

「…………自分でなんとかする。すまないが、いったん部屋を出てもらっていいか」


 ドロッセルはなんとかそれだけ言った。

 ノエルは「承知いたしました」と表情一つ変えずにうなずき、部屋を出ていった。

 その後、ドロッセルはしばらく黙り込んでいた。

 ようやく意識がはっきりしたらしいトム=ナインが申し訳なさそうな様子で近づいてくる。無意識のうちにその背中に手を伸ばしつつ、ドロッセルはうなだれた。


「…………消えてしまいたい」


 頭を抱え込み、消え入りそうな声で呟く。

 しかし深くため息をつき、ゆっくりと立ち上がった。姿見をちらりと見て、ずたずたに裂けたネグリジェの裾を軽く広げてみる。


「これはもう駄目だな……新しいのを用意しよう」


 呟き、ドロッセルはまた小さくため息をついた。そして軽く腰を屈めると、申し訳なさそうにうなだれるトム=ナインの頭をそっと撫でる。


「気にするなよ。私がいきなり起きたからびっくりしたんだろう。……さて」


 乱れた赤髪を掻きながら、ドロッセルはベッドへと近づく。

 脇に置かれたテーブルにはオイルランプとマッチ箱。新しいオートマタについての設計案を書き込んだ資料が何枚か。

 そして、金属製の髪留めがあった。

 嵌めこまれたガーネットが、朝の日差しに煌めいている。掌に収まるほどの大きさのそれを手に取り、ドロッセルはしばらくじっと見つめた。

 やがて小さくうなずいて、髪留めをそっと握りしめた。


「……支度をしよう。急がないと、キャロルが来てしまう」


 トム=ナインが応えるように鳴いて、オレンジの毛並みを舐めて整え始めた。


                   ◇ ◆ ◇      


「……ああ、なんと言ったら良いのか」


 キャロルがため息をつく。

 綺麗に結い上げた亜麻色の髪、オリーブ色の瞳、異国を匂わせる美貌。

 魅力的な肢体をダークグリーンのドレスに包んだ彼女は、マイヤー人形工房の看板娘だ。彼女の気まぐれな微笑が見たくて店にやってくる連中もいる。

 しかし今、その表情は曇っている。


「……あのさ」


 整った眉を寄せ、キャロルは苦虫を噛み潰したような顔でテーブルの上を見回す。

 その隣で、身なりを整えたドロッセルは何も言えずにうつむいていた。

 居間に当たるその部屋は、現在嵐のような有様になっていた。

 床に散らばるのは無数のための箱や包装紙、リボンに楽譜。

 裸のツリーの足下には、オーナメントを詰めた箱が無造作に置かれている。

 そんな惨状など何処吹く風と言った様子で、暖炉の傍ではトム=ナインが丸まっている。


「その……あのさ」


 キャロルが再び、口を開く。珍しく、言葉に悩んでいる様子だった。

 その視線の先には、無数のカードが広げられていた。

 真新しいクリスマスカードだ。先日、慌ててドロッセルが買い集めた。

 手を取り合いダンスを踊る踊る昆虫。ナイフで刺されたカエル。微笑む生首の花。どういうわけか死に絶えたツグミ――絵柄は様々で、見ていて飽きることはない。


「もっとマシな絵柄なかったの?」

「もうこれしか売っていなかったんだ……!」


 クリスマスカードを買ってきた本人であるドロッセルは頭を抱えた。

 キャロルは生首の花を描いたカードを取り、死んだ目でドロッセルを見つめた。


「あたしの美的感覚的にありえないんだけどこれ」

「私の美的感覚でもありえない。こんなの送られたらちょっと距離を置くかも」

「よし、やめましょ。こんなのナシナシ」


 キャロルはぱんぱんと手を打ち、クリスマスカードをまとめた。

 テーブルの上には他にも空き箱やら蝋燭の束やらで散らばっていたが、彼女はその隅に悪趣味なカードの束をねじ込んだ。


「カードは駄目、ツリーの飾りもない、それどころかプレゼントもクリスマスプディングもパネットーネもプレゼーピオもない」

「すまない、最後二つは聞いたことがない」

「イタリアじゃ欠かせないのよ。ともかくさ、全然準備できてないじゃない! クリスマス三日前になんだってこんなにバタバタしてるのよ」

「無理もない。ここ最近、あのアーネスト・メイクピースがらみの事件で連日バタバタしていたんだ。いろいろな準備が例年より遅れているんだよ」


 深くため息をつき、ドロッセルは肩をぐるりと回した。

 ドロッセルの父――大罪人レイモンド・ラングレー。その仲間であったアーネストによってドロッセルが殺されかけたのは、つい先日のことだ。

 傷はほとんど癒えた。霊気も十分回復している。

 それでも、全てが元通りというわけにはいかない。体にはまだ治りきっていない火傷もいくつか残り、ちょっとした拍子にひりひりと痛む。

 なにより――ドロッセルは自分の左胸に手を当てる。

 アーネストが読んだというラングレーの手記によれば、そこには賢者の石があるという。

 あの後、ドロッセルはバックヤードの副局長ヒラリーに体内を調べられた。


『外からじゃ、あんまりはっきりしたことはわからないけどね』


 椅子の背もたれを抱えるようにして座り、ヒラリーは肩をすくめた。

 ちなみに、一体どういう手段で体内を調べられたのかはさっぱりわからない。ただ促されるまま椅子に座ったところ、ドロッセルは急激な睡魔に襲われた。

 そうして意識が戻ったときには全ての検査が終了していた。


『確かに心臓に何かある……らしい。検査した奴はそう言っていた』

『そうか……』


 賢者の石と言えば、魔術師の流れを汲む者の究極の目標だ。

 尽きることのないという霊気の結晶が、さんざん出来損ないと罵られた自分の胸の中にある。それを思うと、ドロッセルはなんだか変な気分になった。


『多分、悪い影響はないと思う。元々命を救うために使われたものらしいからね』

『あのさ……賢者の石は、莫大な霊気の結晶なんだろう?』


 それまでずっと気になっていたことをドロッセルは口にした。


『でも、私はそんなにすごい魔術は使えない。……使える霊気の量も人並みだ。本当にそんなに途方もないが私の中にあるのか?』

『それはね。恐らく君自身が無意識のうちに力を押さえているからだよ』


 ヒラリーは難しい顔で、背もたれに頬杖をついた。


『君の中には霊気の結晶がある。しかしそれを使用すると、霊気による身体への負荷が大きすぎる。だから普段は無意識下で制限を掛けている……多分、そんな状態だ』

『……なんだか歯痒いな。もしも、その力を自由に使えたら――』

『やめといた方が良い。そもそも、人間が扱える霊気の量には限界があるんだよ』


 悔しさに唇を噛むドロッセルに、ヒラリーは首を横に振った。


『鍛練を積めば、扱える霊気量も増えるだろう。それでも、限界はある。ましてや君は特異な存在だ。無理をすれば何が起きるやら――それを忘れないように』

「――まぁ、色々あったけどさ」


 キャロルのため息に、物思いにふけっていたドロッセルは我に返った。

 顔を上げると、キャロルが壁に貼られたカレンダーを見つめている。いつの間にやら日付を掻き消す×は増え、クリスマスは三日後に迫りつつあった。


「今年も無事クリスマスを迎えられそうなことを感謝するべきかしらね。――痛っ」


 前髪を掻き上げようとしたところで、キャロルはわずかに顔を歪めた。

 見ればそのしなやかな両手は、全ての指に包帯が巻かれている。廃病院で異形と戦った際、霊糸の負荷で裂傷を負ったのだ。


「まだ痛むのか?」

「ちょっとだけね。さすがにあれだけの量の異形を縛ったのは初めてだから……やっぱり霊気の傷って普通の傷より治りが悪いわ。これでもだいぶ良くなったけど……」


「参っちゃうわねぇ」と唇を尖らせ、キャロルは指をそっと曲げる。


「ま、それでもさ。今年も全員揃って、無事クリスマスのディナーを――と、忘れてた。今年は店長がパリにいるから一人足りないわ」


 グレース・マイヤーからのクリスマスカードが届いたのはつい先日のことだ。

 どうやらパリで何かの事件に巻き込まれたらしい。カードには年明けまで戻れなさそうだという謝罪と、異端免許取得を祝うメッセージとが書いてあった。


「あたしは一応、去年と同じく一緒にディナーを食べるけど。でもちょっと寂しいわね……」

「いや、寂しくなんかないさ」


 ドロッセルが穏やかな口調で否定すると、キャロルが訝しげに眉を上げた。

 しかし彼女が疑問を口にするよりも早く、ノックの音が響く。


「……お茶をお持ちしました」


 静かなテノールの声ともに現れたのは、ノエルだった。

 相も変わらぬ無表情。片手に持った銀の盆には二人分のカップとティーポット、そして小さなスコーンを持った皿とを載せている。

 姿勢も正しく入室するその姿を見て、ドロッセルはふっと微笑んだ。


「今年はノエルがいる」

「……私が、何か?」


 茶の用意を整えようとしていた手を止めて、ノエルがわずかに首を傾げた。


「……そうね。ノエルがいるんだった」


 キャロルは小さくうなずき、ふっと唇を綻ばせた。

 満足げなドロッセルとキャロルとを、ノエルは交互に見た。青い瞳には相変わらずなんの感情もなかったが、どこか不思議そうにしているのが所作から見て取れた。

 そんな彼に、ドロッセルは笑って首を振った。


「なんでもないよ。些細なことなんだ」

「そうですか」

「紅茶を淹れるの手伝うよ。ちょうど休憩しようと思っていたところなんだ」

「いえ、主人の手を煩わせるわけには……」

「いいのよ、ノエル」


 わずかに戸惑った様子のノエルを尻目に、キャロルが腰を上げた。


「このキャロル様も手伝ってあげるわ、感謝なさい。天地創造の如き神のテーブルセッティングを見せてやろうじゃない」

「お前の天地創造か……ずいぶん荒っぽい世界になりそうだ」

「ふふん、神は言われた。闘争あれ(let there be fight)」

「何を言っているんだ、お前は。――そうだ、紅茶を飲んだらバックヤードに行かないと」

「ヤードに?」


 その言葉に、荒っぽくテーブルを片付けていたキャロルが顔を上げる。

 いぶかしげな表情を浮かべる彼女に、ドロッセルは茶器を並べながらうなずいた。


「ああ、夜間巡回の関する定期報告だ。色々あったからすっかり滞ってしまっている。夕方の作業の前に済ませてしまいたい」

「ふーん。作業といえば、あんたなんか新しいオートマタを作ろうとしてるわね?」


 キャロルの問いかけに、ドロッセルは「ああ」とうなずく。

 ここ最近、ドロッセルはクリスマスの準備と、新たなオートマタを作成するための作業にかかりきりになっていた。


「今日、夕方くらいに人造霊魂を作り出す予定だ」

「ずいぶん作業が速いわね。いつもは器体の作成に時間を掛けてるでしょ?」

「ちょっと特殊なオートマタでね」


 ドロッセルは肩をすくめると、自分のティーカップの縁をなぞった。

 新しいオートマタは、先日の戦いの中で感じた事を踏まえて設計した。


「それで、その作業の前にバックヤードに行くわけだが……お前はどうする?」

「あたしはパス。元々おまわりってあんまり好きじゃないからね。店に残って、クリスマスの準備でもしてるわ」

「そうか。まぁ、大した用事でもないからな……。私一人でも――」


 呆れつつもドロッセルはやかんの取手に手をかけた。

 そこに、白手袋をはめた手が重なる。顔を上げると、ノエルがじっと自分を見下ろしていた。


「……私もご一緒いたします、お嬢様」


 静かに、淡々とノエルは言う。

 ここまでの至近距離で、彼の美しく整った容貌を見る機会はあまりない。

 長い睫毛に縁取られた青い瞳は、なんの躊躇いも逡巡もなく、ただまっすぐにドロッセルの瞳に向けられていた。

 ドロッセルは思わず、手を引っ込めた。


「そ、そうか……わかった」


 ノエルと重ねた手を胸元に置き、ドロッセルはわざとらしく咳払いする。

「なら、片付けをしたら行こうか……その、バックヤードに」

「はい」


 上ずった声のドロッセルを特に気にする様子もなく、ノエルは無表情でうなずく。

 ぱちぱちと燃える暖炉のそばで、トム=ナインがのんびりと大欠伸をした。

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