Epilogue.

雨上がりに微笑んで

 ドロッセルは、身体の疲労と霊気の消耗によってしばらく寝込んだ。

 ノエルも丸一日休眠状態になったが、その並外れた回復力ですぐに動き出した。彼はベッドから起き上がれないドロッセルの世話をし、毎日紅茶を運んでくれた。

 運ぶ紅茶は、ゴールデンシロップを入れたミルクティー。自分の好みを覚えていたことがなんだか嬉しくて、ドロッセルは一杯一杯を大切に飲んだ。

 そうして動けるようになった頃には、もうクリスマスが間近に迫っていた。

 雨上がりのロンドンを、ドロッセルはノエルを連れて歩く。二人の足下には、トム=ナインがじゃれつくようにして歩いていた。


「ウェスターは、許されるらしい」

「そうですか」


 あれだけの戦いを繰り広げた後も、ノエルの言葉はいつもどおり淡泊だ。その淡々とした物言いを寂しく感じたこともあったが、今は逆に安堵を感じる。


「ああ。恐喝されていたことを勘案されてのことだそうだ。ただ、次はないだろう。……当面は、エッジワース捜査官が面倒を見るらしい」


 言いながら、ドロッセルは深紅のコートのポケットに手を差し込む。

 そこから取りだしたのは、黒い革製のケースだった。その表面には、牙を剥く狼と五芒星とを彫り込んだ小さな銀のメダルがついている。

 異端免許。――先ほどヒラリーから受け取ったばかりのものだ。

 ドロッセルはしばらくそれをじっと見つめて、ポケットに収め直した。


「異端免許をもらえた。だから、これから私はより多くのことができるようになる」

「そうですか」


 やがて、二人はテムズ川の近くにたどりつく。

 昔は、この川は死の川と呼ばれていた。しかし今は汚水の処理場も出来たため、いくらかその水質の汚染もマシなものになっている。

 淀んだ川辺を多くの船が行き交い、岸では跳ね橋の建設が進んでいた。

 濡れた空気のにおいを感じつつ、ドロッセルはそんな移りゆく景色を見つめた。


「免許はある。けれど、まだ自分に何ができるかはわからないし、自信もない」


「でも」とドロッセルは一旦言葉を切り、振り返った。

 雲の狭間から滲む陽光が、ノエルの整った面立ちを照らしている。制帽のひさしをわずかに持ち上げて、彼は静かなまなざしでドロッセルを見つめた。


「あの時、お前は嫌なことばかりを覚えていると言ったな」

「はい、お嬢様」

「これから、素晴しい思い出を作っていこうよ」


 風が吹く。ノエルの黒髪が揺れて、ドロッセルのコートの裾がひるがえる。

 ノエルはわずかに目を見張り、ドロッセルを見つめていた。


「……素晴しい、思い出?」

「ああ。嫌なことばかりなら、塗り替えれば良いんだ」


 青い瞳が揺れる。無表情のまま、ノエルは困ったように視線を逸らす。

 そんな彼に、ドロッセルは微笑みかけた。


「だから、これからも私と一緒にいて欲しいんだ」

「……私が、お嬢様と」

「ああ。その……なんというか、お前も私も、きっと不完全なんだ。だから、二人で色んな事を乗り越えていこうというか……ううん、言い方が遠回りすぎなのかな」


 言葉に悩み、ドロッセルは赤い髪をぐしゃりと掻く。

 ノエルは何も言わない。

 ただ黙って、凪いだ湖面のような瞳でドロッセルを見つめている。


「――これからも、私の側にいてくれるか?」

 ノエルが口元に手をあてた。思わぬ彼の反応に、ドロッセルは思わずまごつく。


「そ、その……へ、変な意味じゃないんだ。いや、別に私はお前が嫌いとかそういう意味じゃなくて――それに主従関係を強制するつもりもなくて――だから……」

「――かつて、大きな過ちを犯した騎士がおりました」


 その言葉にドロッセルが息を呑む。

 目線を地面に向けた状態で、ノエルは抑揚のない声で言葉を紡ぐ。


「父王を殺し、貴女を殺しかけた――そんな男を傍に置きたいと思うのですか」

「……思うよ、私は。誰がなんと言おうと」


 迷いはなかった。

 ドロッセルはまっすぐにノエルを見つめ、しっかりとうなずいた。


「今更だ。私の前に立っているお前が――私をさんざん助けてくれたお前が全てだ」

「……理解できませんね。まるでわからない」


 ため息とともに、口元を覆っていた手がゆっくりと滑る。白手袋を嵌めた掌がその顔を覆い、ドロッセルからはノエルの表情がほとんど見えなくなった。


「きっと、貴女のような方を物好きというのでしょう」

「も、物好きだなんてそんな」

「ですが――」


 顔を覆っていた手を下ろし、ノエルはゆっくりと腕を組んだ。

 その一瞬。ドロッセルは確かに、見た。


「――どうやら私は、貴女の傍にいたほうが良いようだ」


 いつもよりも、わずかに青い瞳を細めただけ。

 そして、少しだけ口角を上げただけ。

 雨上がりの日差しにさえ消えそうな――その淡い表情は、紛れもなく。


「ノエル、お前……」


 風が、強く吹いた。ドロッセルは思わず乱れた髪を押さえる。そうして視線を戻したときには、もうノエルは元の無表情に戻っていた。

 主人と従者は、しばし見つめ合った。

 足下に寝そべっていたトム=ナインがぴんと尾を立て、二人の様子を見守る。


「……お前のことは、何と呼べば良いのかな。ノエル? それともモードレッド?」

「貴女のお好きなお名前でお呼び下さい」

「なら、これからもノエルで。なんだか慣れてしまったからな」

「承知いたしました、お嬢様」


 ノエルはそっと目を伏せ、ドロッセルの足下に跪いた。

 ドロッセルはその仰々しい振舞いにやや苦笑しつつも、自然と左手を伸ばした。

 そうして思い出すのは、あの契約の夜のこと。


「――これからも私の傍にいてくれ、ノエル」

「御意――貴女が、私を望むのなら」


 静かに答え、ノエルはそっとドロッセルの薬指に口付けた。

 そんな二人の彼方で、ビッグベンの鐘の音が雨上がりのロンドンに響き渡った。

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