5.傷の痛みも構わずに
「なっ、おい――!」
ドロッセルは思わず鏡を放り出し、扉へと駆け寄る。トム=ナインも弾かれたように起き上がり、閉ざされた扉に爪を立てた。
押しても引いても開かない。ノエルが、向こう側で何か細工したようだった。
「おい、ノエル! ここを開けろ! なんのつもりだ!」
「このまま逃げても、あの男は追いかけてくるでしょう。私がここで食い止めます」
「無茶だ! 消耗してるんだろ!」
何度も扉を殴りつけ、ドロッセルは怒鳴った。
「レプリカは霊気の消耗が激しいとグイードも言っていた! 本当は無理して戦ってたんだろ! 何故だ! どうして――!」
どうして、何も言ってくれなかったのか。どうして、それでも戦っていたのか。
感情が濁流のように押し寄せる。血の滲む手を思い切り扉に叩き付けた。
「私が出来損ないだから……だから、君はッ――お前は、黙って戦ってたのかッ!」
「いいえ」
喉を引き絞るようなその叫びに、ノエルは淡泊に答えた。
「貴女が大切だから、黙っておりました」
思考が一気に冷えた。
傷ついた手を扉に押しつけたまま、ドロッセルは金の瞳を見開く。
ノエルが何を言っているのか、一瞬理解できなかった。
「貴女にご負担をかけるわけには参りません。ですから、私の力だけで戦うつもりでした」
淡々と、淡々と――抑揚のない声でノエルは言葉を続ける。
相変わらず温かみを感じられない言葉使い。けれども涼やかなそのテノールの声に、なにかいつもとは違う響きが淡く含まれているような気がした。
「従者が、主のために力を尽くすのは当然のこと。そして、従者が主のお手を煩わせてはならないのです。――今回の一件、お嬢様にはなんの非もございません。ただひとえに、私の力不足が原因です」
「霊気の供給をしなかった理由は……私のため? 私に、負担をかけさせないため?」
ドロッセルは呆然と繰り返す。
鋼の扉の向こうで、ノエルが静かにうなずいた気配があった。姿は見えなくても、ドロッセルにはそれがわかった。
「では、私はそろそろ失礼させていただきます。あの男は必ず私が仕留めます」
「まっ、待て、行くな! 消耗してるお前一人で勝てる相手じゃない! 器体の修復にも霊気を使うのだろう! そんな状態で戦ったら、本当に壊れてしま――!」
「…………大丈夫」
微かに聞こえたノエルの言葉に、ドロッセルは息を飲む。
その声は、今までに聞いたことのないほど柔らかな声音をしていた。
足音が聞こえた。ドロッセルが声も出せずにいる間に、ノエルが遠ざかっていく。
「……嘘を吐くな」
かすれた声で吐き出し、ドロッセルは地面に膝をついた。
「本当に大丈夫なら、お前は『問題ございません』って言うだろう!」
トム=ナインがぎゃあぎゃあと鳴きながら、隣で鉄の扉を引っ掻いている。
「……トム、行くぞ。全力でぶちかまそう」
低い声で放たれた言葉に、猫が動きを止めた。
ドロッセルは立ち上がり、一枚の銀符を取り出した。マギグラフのスロットにそれをたたき込み、乱れた呼吸を整える。
「一人で帰るわけにはいかない……扉を吹き飛ばして、ノエルを追いかける」
トム=ナインは心配そうな声で鳴き、ドロッセルの足下へと駆け寄った。その緑の瞳は、気遣わしげにドロッセルの左腕を見上げている。
ドロッセルは首を振り、左手を握りしめた。
「全然平気だ! 良いから頼むぞ――!」
トム=ナインはなおもドロッセルの左腕を見つめていたが、やがて扉に視線を向けた。
四つ足を踏ん張り、『いつでも来い』といわんばかりに尻尾を揺らす。
「【
それはドロッセルが使える中で、最も強力な術だった。
トム=ナインの眼前に、青い陣が煌めいた。冷たい煙がごうと噴きだし、直後しんしんと冷気を漲らせた氷塊が陣を突き破るようにして現われた。
幾重にも重なり合いながら、氷塊が鉄扉と石壁に真っ向からぶつかる。
鈍い衝撃が床を揺らした。しかしそれでも扉を破ることはできず、氷は砕け散る。
ドロッセルは唸り、さらに
左手に激痛が走った。経絡に沿って皮膚が裂け、鮮血を滴らせる。
毛並みに霜が降りたトム=ナインが振り返り、悲鳴にも似た声で鳴く。しかしドロッセルは激しく首を振り、さらにマギグラフに霊気を流し込む。
「構うものかッ! 傷なんてすぐ治るッ! もう一発いくぞ――!」
傷の痛みを顧みず放った二撃目。
それは石造りの部屋の壁を霜で多い、気温を急激に下げつつ発動した。尖塔を思わせるほどの大きさの氷塊が、雪崩の如き勢いで扉にぶち当たる。
強固な鉄扉は、その一撃にもなんとか耐えきった。
しかし、周囲の石壁は打ち破られた。
轟音とともに氷が石壁を突き崩し、ドロッセルの前に廊下までの道を開く。
ドロッセルは手を降ろし、ほうと白い息を吐いた。
「――よし、行くぞ」
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