4.君は地獄を一人行く
目を細め、ノエルが前に出る。天井や床を焦がしながら迫る炎の腹を、その剣がかすめた。途端硝子の砕けるような音を立てて、炎が透明な欠片と化して砕け散った。
「厄介な忌能だなぁ――ただ」
グイードはにんまりと笑って、再び大きく手を振う。
炎が鳴動し、押し寄せる。それは先ほどと同じまったく同じ一撃。ノエルは表情も変えずに剣を翻し、迫り来る炎に刃を叩き込む。
破砕音。炎が硝子片と化して砕け散る中、黒い影が駆けた。
一気に距離を詰めたグイードが鋭く掌打を放つ。
ノエルは半歩ずれることでその一撃を避けた。そのまま抉り込むようにグイードに刃を叩き込むが、これをグイードもまた回避。
熾烈な攻防を繰り広げる二人をよそに、ドロッセルは焦っていた。
「まずい、火が――!」
グイードの一挙一足は爆炎を伴う。それは壁や天井、床へと燃え移り、徐々に――しかし確実に、炎の世界を作り始めていた。
ゴムと金属のフレームで出来たマスクを取り出し、顔に装着する。異界でも毒の空気が満ちている場所を探索するためのマスクだが、これで煙を吸わずに済む。
しかし、このままここで戦えば焼け死んでしまう。
「ノエル! ちょっと下がれ――!」
返事はない。しかしドロッセルの叫びに、ノエルは確かに応えた。
炎を纏う拳を弾き上げ、がら空きになったグイードの腹に靴底を叩き込む。そうしてグイードの大柄な体をわずかに吹き飛ばし、ノエルは後退する。
「うおっと――こりゃ、足癖の悪い」
「【
トム=ナインが雄叫びを上げた瞬間、空中に水の渦が生じた。
グイードめがけて、ドロッセルは水の奔流を叩き込む。
うねりながら迫り来る透明な渦。それにグイードはわずかに目を見開き――しかし薄く笑って、炎を纏った腕をゆらりと振るった。
たったそれだけで水流は霧散し、炎が猛るように膨れあがった。
「おやおや。持ってる霊気のわりに、軽い一撃だなぁ。ラングレーが泣くぞ」
「くっ――【
三つの波紋が空中に閃き、そこから激しい水の奔流が現われた。それらは三頭の大蛇の如く絡み合い、飛沫を散らしながら、グイードめがけて襲いかかった。
グイードは余裕の表情で、重なり合う水の流れを軽やかな足取りで躱す。
しかし、そこにノエルの双剣が襲いかかる。
鋭く紡がれる刃の軌跡――しかし、ドロッセルはそこで何故か違和感を感じた。
「はっはぁ、なんだどうした」
グイードは笑い、その両腕から思い切り炎を噴き出す。人造皮膚が爆炎によって弾け飛び、禍々しく輝く霊機骨格がさらけ出された。
炎を纏う右手が、ノエルの刃を弾く。
この程度なら即座に体勢を立て直し、反撃に転じるのがいつもの彼のはずだった。
「――動きが鈍ってるぞ、欠陥品」
嘲笑。爆音。
大きく体の均衡を崩したノエルの胸部に、爆炎とともにグイードの左掌が叩き込まれた。
「ッ、は――!」
ノエルの体が吹き飛ぶ。しかし壁に叩き付けられる寸前、彼はなんとか体勢を立て直し、床に着地した。しかし、その体は大きくふらついている。
「なん、で……」
「ああ……やっぱり嬢ちゃん、なーんも知らなかったんだな」
目を見開くドロッセルに、グイードは「可哀想に」と言わんばかりに首を横に振る。その両肩からは、ごうごうと炎が燃え盛っていた。
「レプリカはね、オートマタよりずーっと燃費が悪いのさ。異能ってでかい力を持ってる分、人造霊魂で発生させる霊気だけじゃ間に合わなくなるの。……さっきみたいに異能を連発させたり、自己修復をした後とかは特にな」
その途端、脳裏にそれまでのノエルとの戦いが一気に蘇った。
魔術を砕く異能、独りでに修復されていた下肢――グイードの言葉が正しければ、全て霊気を大量消費する行動だ。
「だからおれ達は人造霊魂から供給される霊気とは他に、契約者からも霊気を供給されることで安定して動けるわけ。レプリカは不完全な人間だからさ」
故にその完全性を補うため、レプリカはオートマタ以上に契約者に依存する。
グイードは嘆くようにそう語り、わざとらしく肩をすくめた。
「――って、話だけどさ。こういう話。聞かされてないわけ? 霊気供給無しであそこまで戦うなんて、その騎士様は相当きつかったはずだがな」
「そ、そんな……そんなこと、ノエルからは一言も……」
ドロッセルはゆるゆると首を横に振り、ノエルを見る。
しかしノエルは何も答えず、じっとグイードを睨んでいる。常は無風の湖面のように凪いでいるその瞳は、辺りを焼く炎のせいか、鋭く輝いているように見えた。
「もしかして、案外仲が悪いわけ? ――ま、どうでもいい」
ドロッセルは口元を覆う。レプリカがそこまで霊気を消費するなど、まったく知らなかった。なによりもノエルはそれまで、そんなそぶりを一度も見せなかった。
ノエルが無敵だと――思い込んでいた。
これは自分の失策だ。ドロッセルは唇を強く噛む。
一度でもノエルに確認すれば良かった。そうすれば――後悔と焦燥ばかりが脳裏を渦巻く。
「そんじゃ――嬢ちゃんをいただくとするかね!」
だから、グイードの動きへの反応が遅れた。
気づけば、その凶悪な笑みが眼前にあった。霊機骨格が露出した腕が伸びてくる。
ドロッセルは思わず身をすくめる。その体が、突然抱え上げられた。
「――失礼します、お嬢様」
瞬く間にノエルによって抱え上げられ、ドロッセルは思わず悲鳴を上げる。
グイードの腕が空を掻く。しかし彼は諦めず、ノエルに抱かれたドロッセルに手を伸ばした。
その追撃をかいくぐり、ノエルは廊下へと駆け出した。
グイードの炎は驚異の部屋だけでなく、館のあちこちに燃え移っていた。
黒煙が生じ、爆発の閃光がその向こうで何度も煌めく。
崩れる瓦礫を器用に躱し、ノエルは駆ける。走り疲れたトム=ナインがその足に爪を立ててしがみつくのも構わず、彼はどこかへと向かっているようだった。
「おい、どこに行くつもりだ――!」
「安全そうな場所に」
炎から逃れ、煙の漂う暗い館内を駆け抜ける。
蝋燭の青い火が照らす廊下――その最奥にあった大きな鋼の扉をノエルは開く。
扉の向こうにあったのは、四方を石壁に覆われた無機質な部屋だった。元は倉庫として使われていたのか、空の木箱や樽が壁際に積み上げられている。
そこでようやくノエルはドロッセルを下ろした。
マスクを外すと、ひんやりとした埃っぽい空気が肺を満たした。先ほどまでずっと追いかけていた火と煙のにおいはここにはない。
「……まだ、ここまで火の手が来ていないのか」
「手鏡で、帰ることができるのですね」
ノエルが静かに問いかけてきた。その足にしがみついていたトム=ナインがぼとりと床に落ち、疲れ切った様子で床に寝そべった。
「ああ、持ってる。そうだな、これを使って二人で――」
ドロッセルはうなずくとポケットに差し込み、手鏡を取り出した。
グイードは強い。故に、体勢を立てなおさなければならない。
なによりも、ノエルには聞きたい事が山ほどある。
だからこの鏡を使って、現実世界へと帰れば良い。――しかしそんなドロッセルの希望は、ノエルの静かな声によって否定された。
「――いいえ」
扉の蝶番が甲高い音を立てる。
鏡に意識を集中していたドロッセルは、顔を上げた。
目の前で、鋼の扉が閉ざされた。
「帰るのは、貴女一人です。お嬢様」
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