6.火と傷と感情

 視界が、炎の赤と煙の黒とに染め上げられている。

 天井も、壁も、床も燃えている。どこかで窓硝子が割れる音なども聞こえた。

 そんな地獄めいた空間を、ノエルは無表情で歩く。コートの裾はぼろぼろになっているが、その紳士装束を崩していない。制帽も被ったままだった。

 その背中に、ごうっと焼け付くような熱風が押し寄せた。

 ノエルは立ち止まり、振り返った。

 グイードが立っていた。半身に轟々と炎を燃やしながら、彼は「よう」と霊機骨格の露出した手をひょいと上げる。そして、どこかきょとんとした様子で辺りを見回した。


「あんれ、お嬢様はどこ行った?」


 ノエルはそれに答えず、黙って双剣を構えた。


「さては逃がしたのか。はん――舐めてくれたもんだな」


 グイードはふっとため息をつくと、無造作に左手を振るった。

 炎が波となって押し寄せる。それを避け、ノエルは距離を詰めようとした。しかし彼の足が近づくたび、グイードが体の炎をさらに激しく燃やして牽制する。

 もはや【傷】の忌能は乱発できない。

 瞳を細めるノエルに、グイードはため息をつく。


「レプリカは主人への依存度がオートマタより強い。だから主人と離れれば離れるだけ大きく力を失う。消耗しきった今のお前が主人と離れるなんて――っと!」


 鋭い閃光が炎を貫く。

 自らの胸を狙い飛来した短刀を、グイードは半歩退くことで回避した。

 背後の壁へと突き刺さったそれには、全体に赤く光る亀裂のような模様が入っている。それを見て、グイードは高く口笛を吹いた。


「――そういや、そんな芸当も出来たな。だが、そいつも【傷】の忌能の産物だろ」


 直後、一気にグイードが攻勢に出た。

 爆発とともに押し出される拳、猛火を噴き出す掌打、炎の波濤を放つ薙ぎ払い。

 爆炎を操る両腕はそれ自体がすでに凶器だった。速度を増し、距離を詰めて振るわれる猛火の腕に、ノエルはまたたく間に防戦一方に追い込まれる。

 燃える腕を双剣が払うたび、火花を散らす。


「そろそろ限界が近いんじゃないか?」


 ノエルは答えず、炎を纏う両腕をひたすら弾き続けた。青い瞳は今までにない鋭さをもって、目の前の敵をまっすぐに捉えていた。

 グイードの左腕が一際大きく振り上げられた。

 すかさず、無防備に晒されたその脇腹にノエルの双剣の柄頭が叩き込まれる。


「――効かないねぇ!」

 しかし笑いながらグイードはそのまま追撃。

 掌から生じた爆炎が壁面にぶち当たり、そのままそれに大穴を穿った。

 壁の向こう側は武器庫だった。古い槍や剣が無数に壁にかけられ、埃を被っている。それらの武器が爆破の衝撃でいくつか倒れ、もうもうと埃を立てた。

 武器が降り注ぎ、埃が爆炎へと変じていく中、グイードが一瞬混乱したように動きを止めた。

 その背中に、影の如くノエルが迫る。神速の刃がグイードの首を狙う。


「獲った! ――って思っただろ」


 グイードが振り返り、にいっと笑った。

 その手が流れるように動き、ちょうど倒れてきた槍を受け止めた。グイードはその槍を素早く構え、穂先をノエルの胸へと向けた。

 迫り来る槍を眼にしたその瞬間、ノエルの動きが硬直する。

 青い瞳を極限まで見開き、彼は自らの胸へと吸い込まれる槍を見つめていた。


「――あんたには串刺しがお似合いだ」


 グイードが嘲笑う。その瞬間、鈍い音を立てて槍がノエルの胸部を深々と貫いた。


「がっ……!」


 ノエルの口から霊媒血液エーテルが零れる。

 グイードの膂力は凄まじく、ノエルはそのまま後方へと大きく吹き飛ばされた。轟音とともに槍が壁へと突き刺さり、ノエルの体を壁へと縫い付ける。


「……あちゃ、人造霊魂は逸れたか。まぁいい。これでもう動けないな。さすがにその傷を修復するのは無理だろ?」


 グイードはノエルに近づくと、壁に突き立てられた槍に頬杖をついた。

 ノエルは何も言わない。長めの前髪ががっくりとうつむいた顔を隠している。

 その痩躯は、槍によって壁に縫い止められている状態だった。


「もう霊気も空っぽで、体を動かすので精一杯だろ。そんな状態でよく休眠状態になってないな。――ま、よくやったよ。それもここで仕舞いだがね」


 槍に頬杖をついたまま、グイードが片手を開いた。

 掌に炎が灯る。燃える片手をゆるゆると動かしつつ、グイードは物憂げに緑の瞳を伏せた。


「安心しろ。すぐに嬢ちゃんもあんたと同じ場所に行く。……嫌な話だがね」

「いいえ、それは違います」


 ノエルが掠れた声を漏らした。

 グイードは一瞬目を大きく見開いた。次いで眉をひそめ、低い声でたずねた。


「……違う? なにがだ?」

「私は……お嬢様と同じ場所には、きっと行けないでしょう」


 ノエルの手がゆるやかに伸び、自らの腹部を貫く槍にかかる。

 グイードが離れる。

 彼は油断無く炎を構えたまま、鋭い声音でノエルに問いかけた。


「……なら、あんたは死んだらどこに行く?」

「――地獄の第九圏」


 吐き出すように言って、ノエルが顔を上げる。

 長めの前髪がヴェールの如くかかっているせいで、その顔はほとんど見えない。しかし、グイードはその眼光を見た瞬間、息を呑んだ。


「第九圏――裏切り者の地獄か! お前、まさか記憶を――!」


 わずかに後ずさるグイードに向かって、ノエルが一歩踏み出した。

 貫通されたままの傷がいっそう広がる。洪水の如く床へとこぼれ落ちる血液を気にするそぶりもなく、ノエルは淀みない足取りでグイードめがけて距離を詰めた。

 グイードが慌てて距離を取り、腕を払おうとする。

 しかしそれよりも、ノエルの体が槍から解き放たれる方が早かった。

 グイードめがけ繰り出される斬撃。しかし、首を狙ったその一撃はわずかにそれた。そのままノエルの痩身はふらりと揺れ、地面に膝を突く。


「くそっ、こいつ……!」


 グイードが悪態を吐く。同時にその指先から肩までが、一気に燃え上がった。

 炎を深紅の袖の如く引き、グイードはその手を振り上げ――。


「――【風砲カノンブラスト】!」


 威力を一点に集中させた風の砲弾が、グイードの体に命中する。完全にノエルに意識を集中させていたグイードはもろにその一撃を食らい、大きく吹き飛ばされた。


「お嬢様……?」


 振り返ったノエルがわずかに目を見開いた。

 壁に開いた大穴から武器庫へと踏み込み、ドロッセルは血の滴る左手を振るった。


「まだ行ける! ――【詠唱chant戒めの環エンジェルシャックル!」


 トム=ナインが尾を振るう。

 そこから金の閃光が弾け、無数の霊気の環が飛びだした。それはどうにか立ち上がろうとしていたグイードへと飛び、その五体を拘束する。


「ぐ、ぅううう……! この、小細工を――!」


 ぎりぎりと光輪により締め上げられ、グイードが獣にも似た唸り声を上げる。

 その全身から炎が不規則に噴き出す。今は戒めの環によって封じられているものの、その呪縛が解けるのも時間の問題だ。

 ドロッセルは地面に膝をついたノエルへと駆け寄った。


「……何故、戻られたのですか」


 ドロッセルは答えず、沸騰しそうになる頭でどうにか思考を巡らせる。

 レプリカは人形と言うより、機械の体を持つ人間に近い。

 骨格こそ金属製だが、異形の骨肉などの生体パーツも使用している。

 ならば本来は人間に用いる治癒の術は使えば、レプリカ自体の修復力も相まって大きな損傷でも迅速に修復することが可能ではないか。

 そう判断し、ドロッセルはいくつかの金属の瓶と銀符を取り出した。


「今からでも間に合います。お嬢様、彼は私が押さえますので、貴方は――」


 もはや耐えられなかった。

 繊細な細工の施された金属瓶を、震える手でドロッセルは地面に置く。


「――誰が、ここまでしろと言った……!」


 かすれたドロッセルの声に、ノエルが目を見開く、


「誰がお前に死ねって言った……! 私はこんな事、望んでない!」


 押し殺した声でドロッセルはまくし立て、キッとノエルを睨む。

 金の瞳が涙ににじむ。ドロッセルは掌に爪が食い込むほどに手を握りしめた。


「さっき、私の手を煩わせたくないと言ったな。それと同じだ、私だってお前に無理をして欲しくない! 壊れて欲しくないんだ!」

「……何故?」

「お前が大切だからだ! それ以外に理由なんてない!」


 叩き付けるようなドロッセルの言葉に、ノエルは大きく青い瞳を見開いた。

 驚愕――それは、無機質な彼が初めて見せた明確な感情だった。目を丸くして、戸惑うように口をわずかに開いたその様子は、どこかいつもよりも幼く見えた。


「いいか、こんな無謀はもう絶対に許さないぞ」


 押し殺した声で言いながら金属瓶を開き、薬品をノエルの体に注ぐ。

 立て続けに小さな爆音が響いた。グイードが呪縛を振り解こうとしている。

 その様を横目に見ながら、ドロッセルは治癒の術を発動させた。目を淡く光らせたトム=ナインがノエルの体の上に乗り、その傷口を舐める。


「……やはり、私は欠陥品のようですね」


 ため息混じりの言葉に、治癒の術を施しつつドロッセルは視線を彼に向けた。

 ノエルは首をわずかに傾げ、じっとドロッセルを見つめている。

 そのまなざしには、確かな困惑の色があった。


「……どうしても理解ができないのです。私は、従者としての務めを果たしたつもりでした。けれどもそれは、貴女の望んでいることと違った」


 わからないことが多すぎるのです、とノエルはため息を吐く。


「これを、欠陥以外のなんと申しましょう」

「……大丈夫だよ。お前は欠陥品なんかじゃない」


 ドロッセルは首を振り、ノエルの肩をそっと叩いた。


「私も、お前もきっと不器用なんだ。だから――」

「う、お、おぉおおおおお――!」


 咆哮――そして、爆音が空気を揺るがした。

 見ればグイードが光輪を砕き、全身から炎を噴き出していた。燃え上がる上半身からは完全に人造皮膚が焼け落ち、剥き出しになった霊機骨格フレームが輝いていた。

 髑髏にも似た顔を震わせ、グイードはドロッセル達を指さした。


「もう観念したらどうだ! おじさんもいい加減、帰って一杯やりたいところなんだがね!」

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