2.導きの夜を待て

 バックヤードから戻ると、時刻は三時を回っていた。

 店に戻ってすぐ、ドロッセルは堂々とずる休みをしていたキャロルを発見した。叱ろうとしたものの逆に丸め込まれ、そのまま現在は簡単な茶会のような状態になっている。


「……もどかしいわね」


 キャロルがぼそりと言った一言に、ドロッセルは顔を上げる。


「いきなりどうした」


 聞きながら、ドロッセルはこんがりと焼き上がったスコーンを二つに割った。その断面にクロテッドクリームを塗り、大好物のザクロのジャムをたっぷりと塗る。


「そうとしか言いようがないわ。もどかしくて苛々するわ、 あんた達の状況」

「そんな事を言われてもな……」


 ドロッセルはため息を吐きつつ、スコーンを囓った。

 とろけたクリームの仄かな甘みと、ザクロの酸味が口の中に広がる。途端、キャロルに対する呆れもすぐに吹き飛んでしまった。


「妙な男が狙ってて、しかも殺人犯が関わってて――ノエル、ちょっと新聞よこしなさい」


「はい」と、ノエルが無表情で新聞の束をキャロルに差し出す。

 彼はそれぞれの紅茶を注ぎ、焼菓子を用意し、静謐かつ完璧に茶会の席を回している。トム=ナインにもミルクとおもちゃを供するなど、人間以外への応対も完璧だ。

 新聞を受け取り、キャロルはざっとそれを流し読みした。


「心臓泥棒――こいつに狙われてるんでしょう? しかも相手の動きがわからないから、当面は用心するしかないとか」

「ああ……ただ、きっとグイードはまた姿を現わす」


 どうせまた会う――あの胡散臭い男の台詞を思い出し、ドロッセルは親指の爪を噛んだ。


「奴を捕まえて、それで何かわかれば――」

「……あんたね。そうやって危ない橋を渡ろうとするのやめなさい」


 低い声に顔を上げると、キャロルのオリーブグリーンの瞳と視線がかち合った。

 キャロルはティースプーンを教鞭のように軽く振るう。


「まずは自分の身を守りなさいな。心臓泥棒が本当にあんたの父親かはわからないけど、少なくともなにかしらの害意を持っているのよ? あんたの身が危ないの」

「そ、それはわかっているよ」

「わかってたらそんなことを言うはずないでしょ。もっと慎重になりなさい」


 キャロルは唇を歪め、自分の分の紅茶を飲み干した。

 空になったカップをキャロルがソーサーの上に置く。すると、すかさずそこにノエルが新しい紅茶を注ぐ。次いで彼はドロッセルの皿に焼菓子を盛り始めた。


「す、すまないなノエル……」

「お構いなく」


 ノエルは短く答え、ドロッセルの前にジャムやらミルクやら砂糖やらをずらりと並べた。どうやら完全に給仕に徹しているようだ。

 その様を見ていたキャロルはひょいと肩をすくめ、髪を掻き上げた。


「まぁ、あんたにはノエルもいるし大丈夫でしょう。あんたよりはしっかりしてそうだし。それになによりこの神様みたいなあたしがいるんだから」


 ドロッセルはため息を吐きつつ、青いブリキの缶を手に取った。

 開けた缶を傾けて、金色のとろりとしたシロップを少し紅茶に垂らす。そうしてミルクを注いでかき混ぜれば、ドロッセルお気に入りのミルクティーは完成だ。

 一口呑み、ふと見れば、ノエルがトム=ナインをじっと見つめていた。

 退屈しているのか、猫は彼の足元に延々じゃれついている。

 尻尾でくすぐられても、肉球をぐにぐにと押しつけられても、ノエルは表情も変えず猫を凝視し続けていた。


「……そうだ。ノエル、試してみるか? ゴールデンシロップ入りのミルクティー。このシロップとミルクを合わせると、ちょっとほっとする味になるんだよ」

「私は従者です。主と席をともにするわけには参りません」


 ノエルは表情も変えずに首を横に振った。

「そうか」とうなずき、ドロッセルはカップに口を付けた。断わられるだろうなとは思っていた。少し寂しい心地がしたが、無理強いをするわけにもいかない。


「ノエル、主人の勧めにのるのは別に悪くないんじゃない?」


 しかしそこに、キャロルが口を挟んだ。


「ドロッセルはあんたに一緒にお茶飲んで欲しいって言ってるんだから」

「……成程」


 ノエルは唇に手を当て、考えるようなそぶりを見せた。固唾を飲んでドロッセルが見守っていると、やがて彼は小さくうなずいた。


「……それが、お嬢様の望みなら」


 ノエルはテーブルから空いたティーカップを一つ取った。そこに控えめに紅茶を淹れると、ミルクとゴールデンシロップとを少しずつ混ぜる。

 そうして出来上がったミルクティーに、ノエルはそっと口を付けた。


「……ど、どうだ?」


 ドロッセルはおずおずとたずねる。

 ノエルはこくりと喉を鳴らしてミルクティーを飲み、ティーカップを見つめた。いつもと変わらぬ無表情だが、どこか興味深そうなまなざしをしている。


「……お嬢様が良いとおっしゃるなら、きっとこれは良いものなのでしょう」

「そ、そうか……」


 再びティーカップに口をつけるノエルを見て、ドロッセルは安堵のため息を吐く。

 思えば、ノエルとはこのように和やかな時間を共にするのは初めてかもしれない。

 いつもよりも紅茶や菓子が美味しく感じるのは、きっと用意した『ノエルの腕が良いから』という理由だけではないだろう。


「……たまには、ずる休みも悪くないな」

「そうでしょ? 人生には休息が重要よ。労働なんて毒でしかないの」


 ぽつりと零れたドロッセルの言葉に、キャロルは当然とばかりに肩をすくめた。


                   ◇ ◆ ◇


 焦れる日々が延々続く。

 なんの手がかりもなく、なんの動きもない。連続殺人事件は突然ぱたりと止み、バックヤード側でも捜査が難航しているとドロッセルはパトリシアから聞いた。


「――もう終わったという話もあるわ」


 ヒラリーのいない執務室で、パトリシアは淡々と語る。ヒラリーは現在、連続殺人事件やそれに対するラングレーの関与疑惑などで、忙しく動き回っているらしい。


「犯人の目的はあの四人だけで、異端者とはまったく関係のない事件だったんじゃって」

「そんなはずない」


 パトリシアの言葉に、ドロッセルは強く首を横に振った。


「きっと、まだなにかあるはずなんだ。――本当に父が関わっているなら、きっとなにか」


 しかし答えは出ないまま、ドロッセルとノエルはバックヤードを後にする。

 そのまますぐに帰る予定だった。

 しかし熟した林檎を売る果物売りを見かけ、少しだけ寄り道をすることにした。ドロッセルが林檎を吟味している間、ノエルは前足を舐めるトム=ナインを黙って見つめていた。

 紙袋に詰められていく林檎を見ながら、ドロッセルはため息を吐いた。


「……毎日毎日、気が重いな」

「そうですか」


 ノエルの無機質な返答にも慣れてきた、ドロッセルはうなずき、空を見上げる。

 空は工場から吐き出される煤煙に薄く煙り、陽光も滲んで見えた。


「なにも起きていないことを安堵するべきなんだろうけど――でも、こんな生殺しみたいな状況、とても耐えられやしな――」

「あ、にんじん! にんじんがいる!」


 甲高い少年の声にドロッセルは身を震わせる。

 見れば道の脇に、二階建ての乗合馬車が停車していた。その二階から少年達がドロッセルに向かって身を乗り出し、さかんに囃し立てている。

 中でも、ウェスターの声は特に大きくきんきんと響いた。


「にんじん! 最近騒ぎになってる心臓泥棒も、お前の親父だったりしてな!」

「黙ってろ、ウェスター!」


 歩道から怒鳴り返すドロッセルに、ウェスターと少年達はどっと笑った。

「よく街を歩けたものだな! 恥ずかしくないのかよ、そんな欠陥品を連れてさ!」

「ノエルを悪く言うな! 欠陥品なんかじゃない!」

「お似合いだよ! 出来損ないと欠陥品! お前らは英国の人形師の恥――ウグッ」


 ウェスターの嘲笑は、呻き声によって締められた。

 突如ドロッセルの頬をわずかに掠め、ウェスターめがけて赤く丸い何かが飛んだのだ。ウェスターはそれをもろに顎に喰らい、大きくのけぞった。

 少年達が沈黙する。ウェスターが倒れる音がドロッセル達のところにまで響いた。

 直後、乗合馬車の御者が馬の背に鞭を追った。客を満載した二階建ての馬車が、次の停車駅に向けてのっそりと走り出した。


「ウェスター! ウェスター!」「しっかりしてよ!」――少年達の悲鳴が遠ざかっていく。

 ドロッセルはそれを呆然と見送り、ちらっと背後を見た。

 片手を不自然に伸ばした――具体的には何かを投擲した後のような姿勢のノエルが、黙って乗合馬車を見送っていた。

 その傍には、林檎を満載した手押し車がある。

「……あんちゃん、クリケットやらねぇか。その肩なら良い投手ボウラーになれるぜ」

「結構です」


 何故か興奮している果物売りに答え、ノエルはそこで気づいたようにドロッセルを見た。

 何も言えず、ドロッセルは眼をぱちくりさせる。

 するとノエルは手を口元まで持っていき、人差し指をそっと立てた。

 どうやら『今のは内緒』と言いたいらしい。ドロッセルはその姿勢のまま沈黙するノエルをしばらくまじまじと見つめ、ふっと笑った。


「ありがとう、ノエル」

「……いえ、私はなにも」


 ノエルは首を振り、「おれは昔、名投手だったんだ。お前のあの一投で目が醒めたぜ」などと長々語る果物売りの手から林檎を詰めた紙袋を受け取った。


                   ◇ ◆ ◇


 その夜。ドロッセルはベッドの上で、トム=ナインの毛並みを整えていた。

「……ノエルは本を読んでいるのかな」

 隣部屋は誰もいないのではないかと思うほど静かだ。

 先日、ノエルには新しい本をいくつか貸した。

 ダンテの『神曲』、ヴェルヌの『二年間の休日』、ロセッティの詩集、マロリーの『アーサー王の死』――どれも相当の大作で、読み終わるまでには相当時間が掛かるはずだ。


「……でも、彼なら案外すぐに読んでしまうかもな」


 トム=ナインが鳴き、もっとブラシをかけろと言わんばかりにすり寄ってくる。ドロッセルはその背中を軽く梳いてやりながら、ふと顔を上げた。

 部屋の片隅に置かれた大きな姿見を見て、ドロッセルは一瞬表情を曇らせた。

 心臓泥棒、突然現われたグイード、ラングレーの暗躍――。


「……わからないことだらけだ」


 呟き、ドロッセルはサイドテーブルにブラシを置いた。

 もう夜も更けてきた。眠たげなトム=ナインを枕元に下ろし、オイルランプの火を消した。

 ベッドに潜り込み、ドロッセルは目を閉じた。

 しかし、睡魔は訪れない。代わりに疑問や不安ばかりが胸にのしかかる。

『お前の親父だったりしてな』――昼間聞いたウェスターの金切り声が耳に蘇る。

 ラングレーが関わっているという根拠は、グイードの言葉だけだ。

 それでも、不安はぬぐえない。

 ぐるぐると思考は循環し、泣き出しそうな気持ちでドロッセルは目を覆った。


「もうあれから一週間……なにもわからない……どうすればいいんだろう……」


 その時、ふっとまぶたの裏にある光景が浮かび上がった。

 薄暗い古城の玄関ホール。

 父の痕跡が多く残された――ノエルと初めて会った場所。


「もう一度、あそこに行くことができたらな。そうしたら、なにかが――」


 わかるかもしれない。けれども、ドロッセルはあの場所に行く術を知らない。

 それでも、必死で古城への行き方を考える。しかしそのうち、いつしか睡魔が訪れた。ドロッセルは目元を覆ったまま、とろとろと眠りにつく。

 眠りに落ちる寸前、トム=ナインがベッドから抜けだした気がした。

 それから、一体どれだけの時間が経ったのか。

 突然揺り起こされ、ドロッセルは浅い眠りから目を覚ました。

 ベッドのそばに何者かが立ち、じっと自分を見下ろしているのが見えた。窓から差す淡い光に照らされているが、相手の顔はほとんど見えない。

 しかしその輪郭と、身に纏っている静かな空気には覚えがあった。


「ノエル、か……?」

「はい、お嬢様」

「こんな夜中に、一体どうしたんだ?」


 ドロッセルは体を起こし――ネグリジェの襟元を急いで直した。


「呼ばれたので参りました」


 寝乱れた服装を必死で直すドロッセルを気にする様子もなく、ノエルは答える。


「呼ばれた……? 私は、呼んではいないけど――」


 その時、猫の声が響いた。

 見れば部屋の片隅にトム=ナインが腰を下ろし、緑の瞳を光らせている。

 その傍には、眠る前と変わらず姿見が置いてある。しかし、その表面は今は像を映していない。鏡には真っ暗な闇がわだかまり、時折青い光の波紋が走っていた。


「これは、一体……異界に繋がっているのか?」


 ドロッセルはひとまずサイドテーブルのランプを点けて、姿見へと近づいた。

 鏡を覗き込んだ瞬間、向こう側から風が吹いてくるのを感じた。

 その風が前髪を撫でた時、ドロッセルはふっと思い出した。確かウェスターに吹き飛ばされたとき、トム=ナインに導かれて古城にたどり着いたことを。


「トム……まさかこの鏡は、あの場所に繋がっているのか?」


 トム=ナインは鳴き、立ち上がった。ノエルの足下に近づくと、そこにぐりぐりと額を押しつける。ノエルはその様を見下ろしていたが、やがてドロッセルへと視線を移した。


「――いかがなさいますか、お嬢様」


 薄闇の中で、青い瞳は静かにドロッセルを映している。

 無風の湖面のように静かなその瞳を見つめ、ドロッセルは一瞬だけ迷った。


「……一旦、部屋の外に出ていてくれ。すぐに着替える」


 ドロッセルは手早く支度を調えた。

 寝癖のついた髪を無理やり整えながら、ドロッセルはドアを開いた。

 その向こうで、ノエルが直立不動の状態で待機していた。じっとドロッセルを見つめる彼の足下ではトム=ナインが腰を下ろし、ゆっくりと尻尾を揺らしている。

 外で見張っているというバックヤードの人間に、伝えた方が良いかもしれないと一瞬思った。

 しかし、この通路がいつまで繋がっているかもわからない。

 ノエルとトム=ナインを見つめ、ドロッセルはうなずいた。


「――それじゃ、いこうか」


 振り返った視線の先には、異域へと繋がる鏡が青い光のさざ波を走らせていた。

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