7.夜の底へと落ちていけ

 異界のざらつく空気が周囲から消える。

 冷たく澄んだ冬の人間界の空気を吸い、ドロッセルは小さく身震いした。


「異界から抜けたようだな……」


 その時、ノエルが足を止めた。

 同時にいっそうきつく抱き締められ、ドロッセルは息を飲む。


「な、なんだ……?」

「動かないで」


 今までになく鋭いノエルの声に、体勢を整えようとしていたドロッセルは動きを止める。

 どうやらノエルは、急な傾斜の屋根に立っているようだった。

 そしてはっきりとはわからないが、どうも相当高い場所にいる気がする。下手に動けばバランスを崩し、真っ逆さまに落ちてしまうかもしれない。

 一体どこに立っているのか。なんだかすごく嫌な予感がした。

 それでもドロッセルはノエルから正面へと視線を移し――凍り付いた。

 眼下に広がるのは、淡い霧に包まれたロンドンの街並みだった。影を纏う建物の群れと、幾万ものガス灯の煌めきが、ドロッセル達の目の前に横たわっている。

 その様は、さながら影と光の海のようだった。

 通りを行き交う馬車や人の群れは、まるで暗い海を行く小舟や小魚の類いの如く。

 絶句するドロッセルの耳に、ビッグ・ベンの鐘の音が聞こえた。

 その音は何故かいつもよりも大きく――そして、足下から聞こえた。


「まさか――まさか、ビッグベンの頂上か! なんでこんなところに!」


 あまりにも大きく響くその音に、ドロッセルは耳を塞ぐ。

 最後の鐘が鳴り終わった瞬間、その余韻も止まぬうちに何者かの拍手が聞こえた。


「――はっはぁ、いやはや。見事なもんだな」

 視線を上げれば、グイードがドロッセル達よりもさらに高い場所に座り込んでいた。パイプを吹かしながら、愉快そうに街を見下ろしている。


「どうだい、素敵だろ? この場所はな、ロンドンを独り占めできるのさ」

「グ、グイード……」


 グイードはドロッセルに笑いかけると、眼下の建物を一つ一つ指さしていった。


「見ろよ、ウェストミンスター大聖堂だ。あの辺りにバッキンガム宮殿、ハイド・パーク。とすると、あの忌々しいロンドン塔は向こう側にあるんだな。……で、足下にはおれが昔吹っ飛ばし損なった国会議事堂」


 足下に鎮座する国会議事堂を指さし、グイードは深くため息をつく。

 どこか物憂げなまなざしをしていた。

 しかし、その顔は一瞬で不敵な笑みに塗り替えられる。グイードはゆるやかに手を広げると、気取った仕草で眼下の街並みを示して見せた。


「さて――今、この大英帝国の全てがお前の前にある。ご感想は?」

「……お前は一体、何者なんだ?」


 芝居がかった問いかけに対し、ドロッセルは問いかけを返した。


「何者でもない。行く宛なくした鬼火の男ジャック・オ・ランタン――それがおれさ」

「……からかっているのか?」


 煙に巻くような言葉に、ドロッセルの眉間に皺が寄る。


「からかっちゃいないさ。それで満足しておけってこと。……おれのことなんか知らない方が良いのさ。おれのことも――そっちの色男のことも」

「ノエルの事……?」


 ドロッセルは困惑の表情で首を傾げる。

 一方のノエルは水を向けられても何も言わない。無表情を保つノエルを見下ろして、グイードはどこか苦々しい顔でパイプを吹かす。


「一つ忠告してやるよ。――そいつと関わるのはやめておきな。こんな状況じゃなけりゃ、とっとと手放せと言っていたところだ」

「状況って……おい、一体何を言っている? 狙いはなんなんだ!」

「悪いが、これ以上は喋りたくてもろくに喋れないんだよ。旦那に口止めされてるんでね」

「なっ、口止めだと! お前、誰に指示されて私達を攫おうとしたんだ!」


 ドロッセルは驚愕し、主人の名前を聞き出そうとした。

 しかしグイードは心底残念そうに首を横に振り、火皿から灰を捨てる。


「今日はただの顔見せみたいなものさ。……ここから先は、さっきまでのお遊びとは違う。嬢ちゃんみたいな甘々のベイビーには危ない話だ。さっさとおうちへ帰って、大人を頼りな」

「か、からかうな!」


 ドロッセルの白い頬にさっと朱が差した。

 怒りのあまり一瞬ノエルの手から落ちそうになりつつも、ドロッセルは拳銃を抜き、怒りに震える銃口をグイードに向けた。


「私は赤ん坊なんかじゃない! 絶対に逃がさないぞ……洗いざらい話してもらうからな!」

「頑固だねぇ。誰に似たんだか――ただ、そうだな」


 帽子を押さえつつ、グイードはゆっくりと立ち上がった。

 ドロッセルは慌ててその動きに合わせ、銃口を向ける。自分を狙う銃口に対しグイードは笑い、片目を瞑ってみせた。


「なら、ベイビーじゃないって事を示してごらん。――できるなら、な」

「おい、なにを――やめろ!」


 ドロッセルの制止も聞かず、グイードは空中に身を躍らせた。

 黒いマントがひるがえる。それとともに、グイードの手が大きく広げられた。

 その掌が赤く輝き、小刻みに爆破を起こす。方向や速度を調整しながら跳ぶ彼の体は、やがて淡く掛かる霧の向こうに隠れて見えなくなった。

 ドロッセルは息も出来ずに、グイードの消えた先をただただ見つめていた。

 その耳に、静かなノエルの声が聞こえた。


「……お嬢様」

「な、なんだ? どうしたんだ、ノエル?」


 見上げると、ノエルの青い瞳もまたドロッセルと同じように眼下を見つめている。

 その手が剣を消し、制帽の庇に固定されていた顎紐を下ろした。そうして帽子が外れないようにすると、彼は両手でドロッセルの体を抱いた。


「――しっかり掴まっていてください」

「ま、まさか跳ぶ気か? 着地はできるのか!」

「何があろうともお嬢様は必ず御守りします。――では」

「私はってお前――う、わぁあああああ――!」


 ノエルが屋根を蹴った。がくんとした衝撃がドロッセルにも伝わった。

 視界の端を、世界で一番有名な文字盤が一瞬で通り過ぎるのが見え――そうして、天国まで吹き飛ばされそうな浮遊感が訪れた。

 霧の幕が迫る。

 闇と光とに彩られたロンドンが目の前に。

 風の音とともに、塔や煙突の群れがぐんぐん近づいてくる様はいっそ非現実的で。

 一瞬ドロッセルは恐怖を忘れ、その景色に見とれた。

 そのままノエルと一緒に、目の前の光の海に飲まれてしまうような気がした。

 しかし、めくるめく浮遊感は終わりを告げた。ロンドンの煌めきは一瞬で遠のき、奈落めいた暗い地面が見る見るうちに迫ってきていた。

 目は眩み、胃の腑がいっそう縮み上がる。

 けれども絶叫が再び口から零れそうになるのを、ドロッセルはなんとかこらえた。

 顔を上げれば、ノエルの顔が見えた。整った面差しには恐怖による強張りもなく、夕闇のように青い瞳は無感動に迫り来る地面を見据えている。

『お嬢様は必ず御守りします』――ノエルはそう言った。

 けれども、ノエルの無事は保障されていない。

 今まで彼は、人間を遥かに超える驚異的な身体能力を何度も見せつけてきた。だがビッグ・ベンほどの高さからの降下に、その強靭な器体は耐えられるのか。

 ドロッセルの脳裏を、ウェスターに破壊された赤騎士の残骸がよぎった。


「……ノエル。私が、着地の衝撃を緩和する」


 ノエルの答えは風の音に消されて聞こえなかった。

 ドロッセルは唇を噛み、マギグラフを嵌めた左手を握りしめる。

 トム=ナインは使えない。機械仕掛けの赤い猫は、今は落下するまいと死にものぐるいでドロッセルのコートに爪を立てている。

 つまりドロッセルの力だけで、無事に着地させなければならない。


「お前は僕の才能を何一つ受け継がなかった」――「出来損ないの分際で」――様々な記憶が、ほんの一、二秒の間に脳を駆け巡る。


 けれども『できるか』『できないか』を考える余裕までは残されていなかった。

 覚悟を決めたドロッセルはマギグラフに大量の霊気を流し込む。流し込まれた高密度の霊気によって、マギグラフのクォーツが青い火花を散らした。


銀、輪、障、壁レギオンサークル――ッッッ!」


 足下の地面に向かって鋭く左手を振るう。

 青く光る魔術がその手から放たれ、下へ下へと落ちていく。

 しかし、それは途中でふっと消えた。迫り来る地面は相も変わらず暗いまま。


「なっ、術が――! ぐ、うぅ……!」


 トム=ナインを介した時とは異なる重い感触が左手に伝わってくる。通常オートマタによって軽減されている負担が、一気に押し寄せてきていた。

 地面はもう目前に迫っていた。

 あそこに叩き付けられたらノエルは――赤騎士の残骸が脳裏にちらついた。

 ドロッセルは歯を食い縛り、ありったけの霊気をマギグラフに流し込んだ。左手に鋭い痛みが走ったが、もはや躊躇する暇は残されていなかった。


「らぁああ――ッッッ!」


 絶叫とともに、再度ドロッセルは地面に術式を投げつけた。

 青い光弾が闇を駆けた。それは今度こそ地表へと突き刺さった。瞬間そこを中心として、まるで水面に石を投げ込んだように銀色の波紋が次々と開いた。

 その中央に、ノエルは着地した。

 爆音にも似た音が響く。ある程度緩和されているとは言え、それなりの衝撃がノエルに抱かれているドロッセルにまで伝わってきた。

 間一髪のところだった。

 無事魔術を発動できたことに、ドロッセルは一瞬安堵する。

 しかし何かが軋むような異音が聞こえた瞬間、その顔はさっと青ざめた。


「ノエル、今の音はなんだ!」

「動作に支障はありません。追跡を続行します」


 ノエルは一歩進んだ。途端、がくりとその体が大きく揺れた。

 先ほどまではなかったその異様な揺れに、ドロッセルは眉を寄せる。


「おい、足が壊れたんだろう! 一旦、私を下ろせ! すぐに見ないと――!」


 ノエルは何も言わずにドロッセルを地面に下ろした。

 先ほどまでの追跡劇のせいで平衡感覚がおかしくなったのか、体がぐらぐらと揺れる。ドロッセルはふらつきそうになるのをこらえ、ノエルの足を見ようとした。

 その時、耳元でトム=ナインが唸り声を上げた。


「――はっはぁ、すごいねぇ」


 感嘆の声に顔を上げると、建物の屋根からグイードが見下ろしていた。

 足をぶらぶらと揺らし、帽子を指先で弄んでいる。彼も生身一つでビッグベンから飛び降りたはずだが、傷を負っている様子はなかった。


「やるじゃないか。どうやら顔ほどベイビーじゃないらしい。――それと」


 屋根からゆらりと降りると、グイードは興味津々といった様子で近づいてきた。


「まさか飛び降りるとはねぇ。あんたに恐れはないのか? 痛みを感じていないのか?」

「お嬢様が望むのなら全て問題ございません」


 淡々と答えるノエルの姿を、ドロッセルはちらと見る。

 表情は今までと変わらず、涼しいものだ。けれども、重心のかけ方が先ほどまでと異なる気がした。恐らく先ほどの着地で、彼は足を壊したのだ。

 衝撃を緩和しきれなかった――。ドロッセルは痛む左手をきつく握りしめた。


「主人が望むなら、ねぇ。そんな台詞をレプリカが――よりによってあんたが口にするとはな」


 冷やかなグイードの声が耳朶を打つ。

 うつむいていたドロッセルは、その声に思わず顔を上げた。グイードは帽子のつばを軽く持ち上げて、鋭いまなざしでノエルを見つめていた。


「さてはあんた、今度は完璧な従者であろうとしてるのか? ――前が最悪だったから」

「前……?」


 機械的に繰り返すノエルに対し、グイードはどこか憐れむように眼を細めた。


「記憶がなければ過去に苦しむことはない、心を失えば感情に苦しむことはない。――はっはぁ。あんた、本当に全てが憎かったんだな」

「……う」


 一瞬、聞き間違いかと思った。

 しかし目の前でノエルが頭を押さえた瞬間、ドロッセルはたった今聞いたそれが確かに彼の苦悶の声だったと知った。


「ノエル、どうした! 大丈夫か――ッ!」


 慌ててドロッセルはノエルに駆け寄り、その背中に触れる。

 瞬間、こめかみに鋭い痛みが走った。

 ロンドンの闇が目の前から消える。

 黄昏が視界を塗り潰す。

 波の音、嵐の雷鳴、子供の泣き声、鬨の声――それら全てが一緒くたに脳に流し込まれ、意識が飛びそうに――。


「――気をつけな、嬢ちゃん」


 間延びしたグイードの声に、ドロッセルは我に返る。

 いつの間にか小雨が降り出していた。そして、気づけばノエルがドロッセルを庇うように立っていた。その表情はこちらからは見えない。

 グイードはポケットに手を突っ込み、どこか気遣わしげな様子で自分を見ていた。


「まさか、感覚の同調を引き起こすくらいに魂の質が近いとはな。ともかく嬢ちゃん、これ以上そいつと深く関わるのはやめておけ」

「お前は……なんなんだ」


 目眩をこらえ、ドロッセルはグイードを睨む。


「敵……なのか? さっきから、お前の言動はなんだか……」

「――レイモンド・ラングレー」


 ぼそりとグイードの呟いた名前に、ドロッセルは凍り付いた。

 グイードは帽子のつばを軽く持ち上げて、真摯なまなざしでドロッセルを見つめていた。


「旦那はおれにそう名乗った。そうして、お前達を連れてこいってさ」

「父が、私を……?」


 つまりグイードは、ラングレーの指示でドロッセルを攫おうとした。

 ふらつくドロッセルの体を、ノエルが支える。ドロッセルは礼を言うことも出来ず、青ざめた顔で彼の肩にしがみついた。

 雨はますます勢いを増し、風も吹きはじめていた。

 徐々に荒れていく空を見上げ、グイードは大きくため息を吐く。


「……奴は今、もう一つの名前でロンドンを騒がしている」

「もう一つの名前?」


 聞き返したのはノエルだった。

 ドロッセルを抱えながら、グイードに鋭い視線を向ける。


「心臓泥棒だ」


 それは確か――今、ロンドンを騒がせている殺人鬼の名前。

 声も出せずにいるドロッセルをどこか物憂げに一瞥し、グイードは背を向けた。


「用心しな。か弱いベイビーは、すぐに心臓抜かれるぜ。――それじゃ」


 ノエルが片手を開く。するとそこから一筋の血が滴り、一つの短剣を形作った。それを、ノエルはグイードの背中めがけて投擲する。

 銀の閃光となって刃が駆けた。

 しかしその切っ先が届くよりも早く、グイードが指を一つ鳴らした。

 ごうっと音を立て、グイードの体が炎に包まれ――そして、炎とともにその姿は消えた。


「焦るなよ、騎士様――どうせまた会う」


 どこからともなく響くグイードの声に、ノエルは眼を細めた。


「……探しますか、お嬢様」


 ドロッセルはただ、青ざめた顔でノエルのコートの裾を握りしめた。それが精一杯だった。

 雨と、風と、遠い雷の音だけが辺りに響いていた。

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