2.人形と朝の支度を
ドロッセルはベッドから飛び起きた。
荒く呼吸しながらも辺りを見回せば、そこは見慣れた自分の部屋だった。
窓に近づいてみると、辺りは淡い鳶色の霧に包まれていた。
この時期になると、街中で暖房を使う。煙突から吐き出される煙は自然の霧と混ざり合い、こうした汚れた霧へと変貌するという。
どろりとした豆のスープにも似たこの霧こそ、霧の都の所以だ。
それを見ていると、今日はもう外出をやめようかという気分にもなってくる。
「……ひどい朝だな」
赤髪を軽く手ぐしで梳きながら、先ほど見た夢の内容を思い出す。
金の瞳の男、押しつけられた手紙、九回の鐘、そして――記号めいたR・Lの文字。
動悸が早まる。ドロッセルは思わず、自分の作業机を見た。様々な道具や素材と並んで、その上には異界の館で昨晩回収したメモが置かれている。
机に近づき、ドロッセルはメモを手に取る。
「筆跡が似てる……なんで思い出せなかったんだろう」
冷や汗が背筋に滲む。ドロッセルはゆるゆると首を振り、メモを机に戻した。
「――落ち着け。多分、何かの間違いだ……そうだ、間違いに違いない……」
自分に言い聞かせるように繰り返していると、小さな猫の鳴き声が聞こえた。
足に柔らかい毛並みが触れる。見下ろすとトム=ナインがどこかためらいがちにすり寄っていた。彼は顔を上げると、落ち込んだ様子でぱたりと耳を倒した。
「おはよう、トム。元気を出せ、昨日のことは仕方がないだろう?」
トム=ナインを抱き合げ、ドロッセルはその額をぐりぐりと撫でてやった。
その視線は、再び机上のメモに向かう。
「……見間違いだ。きっと、そうなんだ」
身支度を済ませ、ドロッセルはトム=ナインを抱えてドアを開ける。
すると、そこにはノエルが立っていた。ちょうどドロッセルの部屋のドアをノックをしようとしていたのか、わずかに手を持ち上げていた。
完全に彼の存在を忘れていた。
思わず後ずさるドロッセルの前で、ノエルはゆっくり手を下ろす。
「お、おはよう。気分はどうだ?」
「おはようございます。特に問題ございません」
うわずった声で挨拶するドロッセルに、ノエルは昨日と変わらず淡々と答えた。
そして手を伸ばし、ドロッセルの下まぶたを軽く引っ張る。
ドロッセルは思わず硬直した。ノエルはそんな彼女に顔を近づけ、じっと目元を見つめた。
「……いたって健康」
「え、えっと……?」
戸惑うドロッセルに構わずノエルは踵を返し、階段を降りていった。
取り残されたドロッセルはおそるおそる自分のまぶたに触れる。
「……まさか顔色が悪いから、貧血だと思ったのか?」
猫と一緒に首を傾げつつ、ドロッセルもノエルを追って階下へと向かった。
師匠と、彼女の作った人形はどちらも料理音痴だった。看板娘のキャロルは料理上手だが、朝食が終わってからでないと店に来ない。
なので日頃からドロッセルは自分で朝食を用意するのだが――。
「……これは、すごい」
テーブルを前にして、ドロッセルは呟く。
薄切りのトースト、刻んだハムを混ぜたオムレツ、ティーポットいっぱいの熱い紅茶とミルク――質素でありながら整った朝食が、ドロッセルの前で湯気を立てている。
足下ではトム=ナインが盛んに鳴き立て、おこぼれを求めている。
そして目の前ではノエルが、黙々とテーブルに色とりどりのジャムを並べていく。
「あ、ありがとう……これ、全部君が作ったのか?」
「はい。一通り調理の機能は人造霊魂に組み込まれております」
ノエルはこくりと頷き、まだ何か持ってくるものがあるのか台所に引っ込んだ。
ドロッセルは改めてテーブルを見回す。どれも見事な代物だ。
「戦いだけでなく、家事までも完璧なのか……」
感嘆するドロッセルの皿に、どさどさと大量のベーコンが落ちてきた。
見上げるといつの間にかノエルが側に立ち、無表情でフライパンを傾けている。
「……ありがとう。だが、私は別に貧血じゃないんだ」
いつにも増して肉が多い朝食をなんとか食べ終えると、ドロッセルは支度を始めた。
自分の支度と、そしてノエルの支度だ。
さすがにシャツとズボンだけの状態でロンドンを歩かせるわけにはいかない。店中からどうにか男物の服をかき集め、ドロッセルはノエルにそれを与えた。
着替えを済ませ、階下に降りてきた彼の姿にドロッセルは目を見張った。。
シャツの上には黒いベストを来て、襟元には青いリボンタイを絞めている。それらの上からさらに、黒いフロックコートを纏っていた。
まさしく紳士の格好だ。雰囲気も、より引き締まったものに変わった気がする。
「なんだかさらに格好良くなったな……紳士にはやはりコートが必要だな」
「紳、士?」
白い手袋を嵌めつつ、ノエルがぎこちなく繰り返した。
ドロッセルはうなずきつつ、リボンタイの位置を軽く直してやった。
「そうだ。例え人形でも、いつでも紳士としての心意気は忘れないようにしないと」
「紳士とは、どのようなものでしょう」
「ううん、難しいな……。身だしなみに気をつける、常に弱者のために在る……そんな感じかな。――そうだ、帽子も必要だな」
ドロッセルは帽子掛けに近づき、手頃な帽子がないか見る。しかしどれも婦人用のものばかりで、紳士が使うようなトップハットや山高帽はかかっていない。
「うぅん……せめて山高帽があればよかったのに」
ドロッセルは頭を掻き、唸った。
するとノエルが手を伸ばし、帽子掛けの陰にかかっていたある帽子を手に取った。
「それは……先生が昔使っていた制帽だな」
赤い帯に銀の徽章がついたそれは、バックヤードの旧式の制帽だ。
ノエルは言葉もなくそれを被った。
正統派の紳士装束の中で、その帽子だけがやや浮いて見える。しかし、表情のないノエルにはその制帽が似合っているようにも見えた。
「それが、いいのか?」
ノエルはドロッセルを見つめ、小さくうなずいた。
それで満足したのなら良いだろう。ドロッセルはうなずき返すと、ノエルを連れて店を出た。
辻馬車を捕まえ、バックヤードまでの道を頼む。
硬い革張りの座席に座りつつ、ドロッセルは向かい側に腰掛けたノエルに話しかけた。
「その……朝食、ありがとう。すごく美味しかった。君は料理ができるんだな」
「礼には及びません。一通り必要な機能は備えております」
「昨日はよく眠れたか?」
「いえ」
「眠れなかったのか。それは……」
「眠っておりません」
一瞬、沈黙が落ちた。蹄と車輪の音が妙に大きく聞こえた。
ドロッセルはトム=ナインを撫でつつ、ノエルの言葉の意味をどうにか呑み込もうとした。
「……え、それじゃ七時間も何してたんだ?」
「待機しておりました。いつ声が掛かっても良いように」
「七時間も! まさか、睡眠が必要ないのか?」
膝元でぐうぐうと眠りだしたトム=ナインとノエルを、ドロッセルは交互に見る。
基本的にオートマタは、人間と同じように睡眠を取ることで消耗した霊気を回復する。トム=ナインなどは特に必要がない時でも、暇になるとこまめに眠っている。
「現在、そこまでの損傷はありません」
「そ、そうか。とはいえ、七時間も待機はちょっと――そうだ。あとで何か本を用意するよ。暇な時はそれを読むといい。私の命令をずっと待っている必要は無い」
「承知いたしました、お嬢様」
それっきり、馬車の中は静かになった。
ドロッセルは外の景色を見ながら、ちらりとノエルの様子をうかがう。
ノエルもまた、ドロッセルと同じように窓の外を目に向けていた。しかしそれは車窓の景色を見ていると言うよりも、静止しているといった方が正しいように思えた。
まばたきもせず、呼吸もしていない。
本当に機械のようだ。
赤騎士の方がまだ人間らしい。――そんな考えが頭をよぎる。
ドロッセルは首を振り、窓の外に目を向けた。
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