Ⅱ.影、夜霧に跳梁する

1.九点鐘

 ――初めてのロンドンは、ひどい雨模様だった。

 ドロッセルは猫を連れて、灰色の髪の男に手を引かれて歩いている。

 不意に男が、なんの前触れもなく足を止めた。

 ドロッセルもつられて止まり、前を見る。

 その視線の先には、赤いレンガ造りの建物があった。

 男はじっとそれを見つめると、古い外套のポケットから手紙を取り出した。


「――鐘が九回鳴ったら、この手紙を持って建物の中に入れ。誰かに会ったら、そうしてラングレーから言付けを頼まれたと言え」


 そう言って、男はぐいとドロッセルの手に手紙をねじ込んできた。

 赤い封蝋で綴じられた封筒だ。

 表には、『R・L』と綺麗な飾り文字で書かれている。


「僕はもうお前の前には現われない」


 まじまじと封筒を見つめていたドロッセルは、その言葉に思わず顔を上げる。

 金の瞳が、冷たく自分を見下ろしていた。


「いいか、お前は出来損ないなんだ。お前は僕の才能を何一つ受け継がなかった。もう人形には関わるな。僕が教えたことも――僕のことも忘れてしまえ」


 何も言えなかった。ただただ呆然と、男の目を見上げることしかできなかった。

 男は口を閉じ、心底億劫そうに雨空を見上げる。


「……僕とお前は他人だ。それが一番なんだ」


 男はゆっくりと踵を返す。

 ひるがえる外套の裾にドロッセルは思わず手を伸ばした。

 その時、稲妻が空を切り裂いた。

 轟く雷鳴と、鳴り始めた鐘の音が男を呼ぶドロッセルの声を掻き消す。

 けれども男の声だけは、妙にはっきりと聞こえた。


「二度と僕の前に現われるな。――あとはもう、好きにしろ」

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