8.夕闇の瞳のノエル

「なにか……何か、手は――!」


 後退しているうちに、腰の後ろに何かが触れた。

 はっと振り返り、そこで水の中に大きな棺がある事に気がついた。

 漆黒の棺だ。ドロッセルの身長よりも遥かに大きい。それはどういうわけか鎖で縛られ、さらに不可解な模様が刻まれた金属の枠で固定されている。

 そして蓋の中央には、蛇と獅子を組み合わせたような化物の紋章が刻まれていた。


「これは水牢処理……! 失敗作の中でも、特に危険なものに使うっていう――!」


 自分の背後に危険な人形がいる。

 その事に気づき、ドロッセルはとっさに棺から離れようとした。

 しかし、正面では扉の形がどんどん歪んでいく。ひしゃげた扉の縁から、獅子の爪や薔薇の騎士達の刃がちらちらと覗いた。

 せめて時間を稼ごうと、ドロッセルはどうにか扉の封印を強化しようとした。

 銀符をスロットに叩き込み、霊気を流し込んで――。


「ぐっ――!」


 鋭い痛みが左手に走った。袖を捲ると、白い腕にはパックリと赤い傷が開いている。痛々しいその傷を見た途端、ついにドロッセルの目から涙が零れた。


「なんで……なんでこんな……ひどいことばっかり起きるの……! 私はなんにも悪いことしてないのに……!」


 危険も忘れて、ドロッセルは棺に座り込んだ。

 もはや逃げ場はどこにもない。

 あの獅子の人形が来れば、壁に封じられた失敗作達も目覚めて襲ってくるかもしれない。

 左手から滴る血が、水にどんどん広がっていく。


「父さんにも捨てられて、皆から馬鹿にされて……! 挙句の果てにこんな……ッ!」


 扉が今までになくけたたましい音を立てた。

 はっと顔を上げると、扉の上部がほとんど壊れてしまっているのが見えた。

 その狭間から、血走った獅子の目が見えた。視線がかち合い、ドロッセルは息を飲んだ。


「あ、ああ……だ、誰か……」


 ここには誰もいない。ドロッセルと、狂った人形達以外は、何もいない。

 それでもドロッセルは頭を抱え込み、悲鳴を上げた。


「誰か……助けて……!」


「――助けが、欲しいのですか」


 時が止まったような気がした。

 ドロッセルは涙に濡れた目を見開き、頭を抱えたまま辺りを見回す。

 姿は見えない。しかしその静かなテノールの声は確かに、ドロッセルの間近で聞こえた。


「だ、だれ……」

「それは、私でもよろしいのですか」


 声はドロッセルの問いかけを無視して、淡々と問いかけてくる。

 不思議な声だった。まるで感情を感じない――機械的とも言えるような声。


「私は――貴方に、応えてよろしいのですか」


 もはや躊躇いはない。ドロッセルは涙を拭った。


「助けて……私を助けて! 貴方が何者でも良い、お願い――!」

「ならば離れてください」

「えっ――」

「早く」


 静かな声が急き立てる。ここでドロッセルは、声は棺から聞こえる事に気づいた。

 何が起きるかなどわからない。

 それでもドロッセルはよろけるようにして棺から離れ、水面から上がった。

 その時、ほぼ同時に二つのことが起きた。

 扉が破壊された。

 同時に、ドロッセルの近くで爆音にも似た音とともに水が巻き上がった。


「うわっ――!」


 ドロッセルは思わず手を挙げ、押し寄せる水から身を守ろうとした。

 その瞬間、何か大きな物が高速でドロッセルの側を通り過ぎた。それは凄まじい勢いで、扉から覗いてきた獅子の顔面にぶち当たった。

 耳障りな悲鳴。獅子は大きく前足を空中に泳がせ、後方へと大きくのけぞった。


「なっ……」


 口を開けたまま、ドロッセルは呆然と倒れ込む獅子の姿を見つめた。

 背後に誰かが立つ気配があった。はっと目を見開き、ドロッセルは振り返った。

 先ほどまで厳重に封じられていた棺から、蓋が消えている。

 そして、そこには一人の青年が立っていた。

 どうやら彼が棺の封印をどうにかして砕き、蓋を獅子めがけて投げつけたようだ。

 年の頃は十九、二十といったところ。艶やかな黒髪が肩に掛かっている。象牙色の肌は滑らかで、女性と見紛うほどに美しい容姿をしていた。

 青年は黙って倒れ伏した獅子の姿を見つめ、続いてドロッセルに視線を移した。

 感情の読めないその瞳は、夕闇にも似た青色をしていた。


「君は――?」


 一体何者なのか。問いかけるよりも早く、青年はドロッセルに近づいた。

 青年が、ドロッセルの左手を取る。

 その手は体温が異様に低く、ひんやりとしていた。

 その温度に、気づく。


「君は――オートマタなのか……?」


 半信半疑のドロッセルの問いかけに、青年は何も答えなかった。

 青年は目を伏せ、血の滴るドロッセルの薬指に口付けた。

 瞬間、薬指がかっと熱くなった。

 滴り落ちる血液が金色の光の粒子となり、二人を包み込むようにして散る。青年の唇が離れた時、ドロッセルの薬指に一瞬だけ霊気の輪が光った。

 それは回路パスが構築され、オートマタとの契約が完了した証。

 状況を飲み込めず、ドロッセルは呆然と青年を見下ろす。すると青年は彼女の手を握ったまま、今度は経絡に沿って走った裂傷へと指先を伸ばした。

 傷口に指先が触れる。ドロッセルは痛みを覚悟して身構えた。

 しかし、痛みは訪れなかった。


「え、あれ……傷、が――」


 目の前で起きた現象にドロッセルは目を見開いた。

 青年の指先がするりと滑ると、痛々しく開いていた傷口が溶けるように消え去ったのだ。

 傷を癒やすと青年は手を離し、ドロッセルの前へと移動した。


「……お下がりください」


 青年が初めて声を発した。あの静かなテノールの声だった。

 ドロッセルを庇うように手を広げ、青年はじっと獅子を見つめる。

 獅子はようやく体勢を立て直し、前足で地面を叩きながら喚いた。


「不敬、不敬ィ……! 殺セ、殺ス、死ヲ賜ウ! 来タレ白薔薇ノ兵ドモ――!」

「手下の人形を集めようとしてる!」


 ハッと息を飲み、ドロッセルは青年に警告した。


「数が多すぎる、まともに相手すると危ない! ここは逃げた方がいい!」

「問題ございません。すぐに片付けます」

「だが――!」


 青年は緩やかに両手を広げた。

 その両掌から、血が滴る。それは瞬く間に凝固し、優美な反りを持った一対の剣と化した。

 煌めく双剣をそれぞれ逆手に構え、青年は静かに答えた。


「問題ございません」


 静かに――しかしはっきりと言い切って、青年はわずかに身を沈めた。

 そして次の瞬間、青年の姿は消えていた。


「消えた……?」


 ドロッセルが呆然と呟いた直後、一度に五つの白薔薇が宙を舞った。

 頭部を切断された人形がもんどりを打って倒れる。直後その全身に亀裂が走り、首を失った人形達はまたたくまに砕け散った。

 他の人形が反応するよりも早く、銀の閃光が弧を描いた。

 さらに二つ、薔薇が飛ぶ。

 左右にいた白薔薇の騎士を同時に両断し、青年はさらに刃を閃かせた。

 双剣が月光に閃くたび騎士達の首が宙を舞い、白い花弁が薄闇に散った。頭部を失った騎士の体が倒れ伏し、無惨に砕け散っていく。

 圧倒的な蹂躙だった。

 庭師が薔薇を刈り取るかの如き、一方的な作業だった。

 ドロッセル達が苦戦した人形を、青年はたった一人で表情も変えずに殲滅していった。


「オノレ――オノレ、ヘンリー! ヘンリー・テューダー!」


 怒号を上げる獅子を、最後の人形をあっさりと刈り取った青年がちらっと見る。

 たてがみをざわめかせ、獅子は大きく空気を吸い込んだ。

 周辺の霊気がぐらりと揺れた。ドロッセルの顔がさっと青ざめる。


「まずい――! あれを喰らったら、操られて――!」


 ドロッセルの警告を掻き消し、獅子の口から咆哮が放たれる。

 青年は答えなかった。ただ、獅子に向かって左手の剣を無造作に振るった。

 瞬間、硝子が砕け散るような音が響いた。

 青年が剣を振るった場所から衝撃が生じ、透明な破片が飛び散る。さらに何故か獅子が大きくよろめき、悲鳴とともに再び地面へと倒れ伏した。


「なんだ、今のは……?」


 ドロッセルは呆然と倒れた獅子と、追撃を仕掛けようとする青年の姿を見る。

 ふと、すぐ近くに透明な破片が落ちている事に気づいた。

 一見するとそれはただの硝子片にしか見えない。しかし拾い上げてみると、それは強い霊気の結晶である事にドロッセルは気づいた。

 やがてそれは手の中で揺らぎ、氷のように消えていった。


「まさか……魔術を、壊したのか?」


 魔術、異能――ありとあらゆる霊的な事象には、必ず霊気が存在する。

 特定の指向性を持たせ、構築された霊気。その力の流れが効果を発揮する前に破壊すれば、理論上は魔術を無効化することも可能だ。

 しかし、そんな芸当をドロッセルは聞いた事もない。

 だが実際、青年が刃を振るったその瞬間、獅子から放たれた霊気が掻き消された。


「ヨクモ、簒奪者メ――!」


 悪態を吐きながら獅子が前足を振り下ろし、青年を叩き潰そうとする。

 青年は悠々とそれを回避。さらにすれ違いざまに、獅子の前足に刃を走らせた。

 その一撃はごく浅い。とても痛打には見えなかった。

 しかし直後、硝子が砕けるような派手な音が響き渡った。

 青年が一撃を入れたところから赤い亀裂が走り、一気にそれが獅子の肩にまで達する。


「アアアア……! 王殺シ、王殺シガ――!」


 獅子の絶叫が響く中、青年はわずかに身を沈めた。

 直後、再び青年の姿がかき消えた。

 そしてドロッセルが気づいた時には、青年は一気に獅子の頭上へと跳んでいた。

 振り上げた刃を、振り下ろす。

 青年の膂力と重力とを伴い、その切っ先が落ちていく。

 それは獅子の額に触れ――赤い亀裂を生じさせた。びしびしと音を立てて、その亀裂は見る見るうちに獅子の全身へと広がる。

 断末魔の声が響く。亀裂に沿って、獅子の体が崩壊していった。

 左の眼窩から咲き乱れていた白薔薇が変色し、腐り落ちる。

 生体で出来ていると思わしき部分が血にも似た液体を噴き出しつつ裂け、機械パーツが尽く破砕されて散っていく。右の前足が崩れ落ち、獅子の上体がそのまま地面に倒れそうになる。

 しかし獅子は残った足に力を込めて、踏み止まった。

 青年が目を細め、剣を構え直す。

 その時それまで白目を剥いていた獅子の瞳がぐりんと動き、初めて青年の姿を捉えた。

 獅子は奇妙に凪いだ瞳で青年を見つめた。


『……嗚呼、誰かと思ったら。貴様か、欠陥品』


 穏やかな声だった。ノイズはなく、どこまでも人間のような声をしていた。

 鼻で笑って、獅子は疲れたように深く息を吐く。


『…………大義であった、若造』


 獅子の瞳から、光が消えた。

 機械腕から力が抜け、やかましい音を立てて獅子の上体が地面へと崩れ落ちる。いくつかの部品がドロッセルの足下まで転がってきた。


「倒した……のか」


 ドロッセルは座り込んだまま、壊れた獅子と青年とを見つめた。

 青年が振り返り、ドロッセルに視線を向ける。

 夏の薄闇を思わせる青い瞳。

 しかしそのまなざしからは、何の感情も読み取れない。

 青年の両手から、剣が溶けるようにして消え去る。

 そして青年はドロッセルに歩み寄り――跪いたのだった。

                 

                 ◇ ◆ ◇


「えっ――と、とりあえず立ってくれ。その、君はオートマタなんだな?」

               

 ドロッセルは戸惑いつつもたずねる。

 すると青年は素直に立ち上がり、無表情のままうなずいた。


「はい」

「……間違いなく?」


 ドロッセルは青年の姿をじっと見つめる。

 すると青年は少し考えるようなそぶりを見せた後、左手を緩く伸ばした。そこから赤い液体が滴り、一振りの剣を形成する。

 思わず身をすくめるドロッセルをよそに、青年はその刃を己の右手甲に走らせた。


「お、おい――!」


 ドロッセルが驚愕する中、青年は剣を消す。そして、深々と切り裂いた手の傷に手をかけた。

 その皮膚がわずかに剥がれた。そして、裂け目から銀と黒の金属が覗く。


「――信じていただけましたか」

「……ああ。十分だ」


 ドロッセルは思わず顔を歪めながら、青年の手を見る。

 赤く濡れた裂け目から覗くそれは、間違いなくオートマタの霊機骨格フレームだった。


「それで、私が君の主人になったと」

「はい」


 剥がした人造皮膚を元に戻しつつ、青年は淡々と答えた。


「わかった……正直いまいち状況が飲み込めないが、とりあえずわかった。――ええと、私の名前はドロッセル・ガーネット。君の名前を教えてくれないか?」


 頭痛を感じながらも問いかけると、青年はここで何故か考えるようなそぶりを見せた。顎に手を当てて考え込む青年に、ドロッセルは首をかしげる。


「えっ? まさか、自分の名前がわからないのか? ――あ、そうか。君、どうしてかあそこに封じられていたんだからな……」


 ドロッセルは呟き、棺を振り返った。

 棺には、化物の紋章以外は何も書かれていない。青年の名前を知る術はなかった。


「でも、名前がないのは良くないな。そうだな……何か、仮の名前を――」


 ドロッセルは親指の爪を噛み、考え込んだ。

 記憶を探り、なにか名前にふさわしいものを見出そうとする。すると、フリート街で見かけたクリスマス飾りが脳裏によぎった。


「……ノエル。ひとまず仮に、君の名前をノエルとしよう。大丈夫か?」

「お嬢様が望むならば、それで」


 目を伏せて、青年――ノエルはうやうやしく一礼した。

 見た目も挙動も人間そのものだ。ここまで人間そっくりなオートマタはほとんど見かけない。しかしその応答は機械的なまでに、感情の色がなかった。


「それでノエル……一応聞くが、君はこの屋敷のことをどこまで知っている? 制作者の名前とか、わかるか?」

「どちらも存じ上げません。申し訳ございません」

「い、いや、君は何も悪くないから――しかし困ったな。鏡が欲しいんだが……」

「鏡?」

「ああ。人間界に戻るために必要なんだよ。鏡でなくとも綺麗にモノが映る――金属板とか、硝子とかでも代用はできるんだが……心当たりはあるか?」


 問いかけたものの、答えにあまり期待はしていなかった。

 ノエルはずっと棺の中に封じられていた。自分や制作者の名前さえ知らない彼が、鏡の場所を知っているとは思えない。

 しかしノエルは静かに考えるそぶりを見せた後で、くるりと踵を返した。


「えっ、ちょっと、ノエル……?」


 ドロッセルは慌てて、歩き出すノエルを追いかける。

 さほど歩く必要は無かった。

 ノエルは水没した区画に近づき、黙ってそこを指さす。

 一瞬、ドロッセルにはその行動の意図が掴めなかった。しかし戸惑いつつもノエルに近づき、そろそろと水面を覗き込んで気づいた。


「……私達の姿が映ってる。こんなに綺麗な水だったのか」

「使えますか」

「多分……ただ、私はやったことがないんだ」


 凪いだ水面を見つめ、ドロッセルは一瞬悩んだ。

 しかしこれ以外に、屋敷の中に使えそうなモノは見当たらなかった。鍵の掛かっている部屋にならあるかもしれないが、その保障はない。


「……これしかない。これを使って、ロンドンに戻ろう。ノエル、私の側にいろよ」

「御意」


 ドロッセルは水没した区画に近づくと、マギグラフを嵌めた手を水面へとかざす。

 できれば店の中にある姿見のところに移動できれば良い。目を閉じ、いつもよりも神経を集中させ、店の中の強くイメージする。

 すると、ゆっくりと水面に青い光の波紋が広がりはじめた。

 どうやら成功したらしい。ドロッセルはほうと息を吐くと、手を下ろした。


「大丈夫そうだ……じゃあ、ついてきてくれ」

「はい、お嬢様」


 ドロッセルはそのままノエルを従え、青い光の波紋へと足を進めた。

 濡れることを覚悟しながら、水面へと一歩踏み入れる。

 水の感触はなかった。

 視界が青い光に覆われ、そして――奇妙な浮遊感を感じた。


「えっ……」


 ドロッセルは目を見開き、辺りを見回す。

 夜空には、薄く霧が掛かっていた。黒い影に沈む地上を、ガス灯が煌々と照らしている。遠くにはこの国の顔とも言えるビッグベンが聳え立ち、十一時を示していた。

 見慣れたロンドンの街だ。空から見るとまた違った風に見える。

 感嘆した次の瞬間に、落下が始まった。


「あっ――ひっ、うわぁああああああ!」


 耳元でごうごうと風が唸る。

 ドロッセルは半狂乱で手足をばたつかせ、落下を避けようと無駄な足掻きをした。


「――失礼いたします」


 静かな声が耳元で聞こえた。

 同時に、暴れるドロッセルの手をノエルが強く引き寄せる。

 彼はそのままドロッセルを抱え、空中で器用に体勢を整えた。

 そして――爆音めいた音ともに、着地。


「……お怪我はございませんか、お嬢様」


 何事も無かったかのように涼しげな顔で、ノエルはたずねた。

 ドロッセルは何も言えなかった。

 ただ彼にしがみつき、震えることしかできなかった。

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