6.謎の屋敷にて
まるで深海を泳いでいるような――あるいは、星のない夜空に浮いているような。
そんな暗闇の中に、ドロッセルは漂っていた。
このまま死んでしまうのだろうか――そんな恐怖に泣き出しそうになる。
その時、ふと右手にふわふわとした感触を感じた。
「トム=ナイン……?」
暗い中でも、彼のオレンジ色の毛並みは鮮やかに見える。
トム=ナインはドロッセルの手首をくわえ、ゆっくりとどこかに引いていった。
やがて、視界がわずかに明るくなった。
同時に浮遊感が消える。体の下に硬くしっかりとした感触を感じた。どうやら、いつのまにか地面に横たわっていたらしい。
体の痛みに呻きつつ、ドロッセルは起き上がった。
「う……ここは……?」
そこはまるで、小さな屋敷の玄関ホールのような空間だった。
天井には蜘蛛の巣だらけのシャンデリア。壁には蝋燭の青い火が揺れている。ドロッセルの正面には細い階段があり、背後には大きな扉があった。
階段の向こう側には、大きな窓がある。
そしてそこからは、不気味な表情を湛えた異界の月が覗いていた。
「……異界のどこか、か」
ドロッセルは立ち上がり、扉へと近づいた。
鍵のような物は見当たらない。ドロッセルは取っ手に手を開け、開けようとした。
しかし押しても引いても、扉はぴくりとも動かなかった。
近くの窓は鎧戸で閉ざされ、外の様子をうかがうことは出来ない。こちらも試してみたが、鎧戸どころか窓さえ開けることも出来なかった。
「駄目か……でもあっちの窓は高すぎるしな」
階段の窓の位置はずいぶん高く、大人でもその向こうの様子をうかがうことは難しそうだ。ドロッセルは一瞬肩を落とす。しかし、すぐにその脳裏に電光が閃いた。
「そうだ……! 鏡を使って、ノッドノルか現実世界に戻れば――!」
大急ぎでドロッセルはポケットから鏡を取り出した。
しかしその表面を見た瞬間、ドロッセルは絶望の声を上げる。ランスロットの攻撃の影響だろう。鏡には、蜘蛛の巣状にひび割れが走っていた。
「こ、これじゃ駄目だ……こんな割れた鏡じゃ、私の力じゃ――」
ミイと猫の声。振り返るとトム=ナインが階段の上に座り込み、尻尾を揺らしている。どうやら、こちらに来るよう催促しているようだった。
「……うろちょろするな。なにがあるかわからないんだ」
トム=ナインは涼しげな顔で前足を舐めだした。
ドロッセルは肩を落すと、割れた鏡をもう一度見つめた。そして、辺りを見回す。
「……屋敷の中に、鏡があれば良いんだが」
鏡をポケットにしまうと、ドロッセルは階段へと歩き出した。
近づくとトム=ナインが立ち上がり、右側の通路へととてとてと駆けていった。
どうやら先導しているらしい。まるで館の構造を知っているかのような足取りだった。
「お前、ここを知っているのか?」
問いかけると、トム=ナインはミイと答える。
しかし、ドロッセルにその鳴き声の意味はわからない。ドロッセルはひとまずトム=ナインの意図を考える事は諦め、辺りに注意を向けた。
トム=ナインが一つの扉の前で止まり、がりがりとその板を引っ掻く。
ドロッセルはその扉を開いた。向こう側は廊下になっていて、いくつかの扉が並んでいるようだった。しかし、明かりが一切灯ってない。
「……この先は、私の目でもはっきり見えないな」
ドロッセルは目をこらし、廊下の先の様子をうかがった。
その瞳は、闇の中で淡く光っている。これは夜光眼と呼ばれる、異形の血を引く者に多く見られる特徴だ。
そのため長らく『悪魔の眼』として迫害の対象にされていた。
この瞳のおかげで、ドロッセルは常人よりもやや見えるものが多い。
しかしそれを以てしても、進むのを躊躇するほどの暗さだった。
「どうしよう……別の道を探すか――」
その時、カチッと奇妙な音が響き、ドロッセルは思わずびくっと肩を震わせた。
足下を見ると、トム=ナインがどこか得意げな様子で見上げてくる。
その両目は、煌々とランプのように光り輝いていた。
「お前そんな機能あったのか!」
トム=ナインは、ドロッセルが六歳の頃に組み上げたオートマタだ。
しかしその器体にはある人物によって手が加えられており、ドロッセルも知らない様々な機能がいくつも追加されている。
その人は、ドロッセルの事を最初に『出来損ない』と言った人だった。
トム=ナインの先導に合わせ、ドロッセルは廊下を歩き出した。
途中の扉をいくつか開けてみたが、どれもがらんとしていてほこりっぽい。もう長い間、誰もこの屋敷を使っていないようだった。
廊下の突き当たりにあった大きな扉を開けると、独りでに蝋燭が灯った。
「うわっ! び、びっくりした……」
ドロッセルは思わず跳び上がりつつ、辺りを見回した。
そこは図書館のようだった。四方の壁が天井まで本棚に囲まれている。中央にはオークの机があり、いくつかの書物や羊皮紙の束が重ねて置かれていた。
「すごい……小さいけど、相当の蔵書量だ」
ドロッセルは驚愕しつつ、扉を閉めて中に入った。その足下で再びカチリと小さな音が響き、トム=ナインの瞳から明かりが消える。
「異界にこんな屋敷があるなんて……。ここに住んでた人は、きっと大金持ちだったんだろうな。それで読書家……どんな本を読んでたんだろう?」
ドロッセルはひとまず近くの壁に近づき、本棚の中身をざっと確認した。
『ジャンヌ・ダルクの真相』『山海経』『ガイ・フォークスの冒険』『不思議の国のアリス』『トミー・サムの可愛い唄の本』――様々な本が整然と並んでいる。
ドロッセルはその中に、見覚えのあるタイトルを見つけた。
「あ、これは知ってるぞ。昔の人形師が書いたゴーレムに関する研究書だ。私も読んだことがあるが、内容がいまいちわからなくて」
ドロッセルはその本を引き抜き、ぱらぱらとめくって中身を確認した。
間違いない。師匠の書斎で見た本と内容は同じだ。
「……これがあるということは、ここに住んでいたのは人形師だな」
バタンと本を閉じ、ドロッセルは今度は机の方へと近づいた。
その上にも、何冊か本が重ねられている。
『アーサー王の死』『ブリタニア列王記』、『バスティーユの鉄仮面』『エドワード五世の悲劇』『リチャード三世』――。
「歴史と関わりがある本が多いな――っとと」
最後の本をどけた時、小さな紙片が床に滑り落ちた。
ドロッセルはそれを拾い上げ、ざっと目を走らせた。どうやらメモのようだった。
「……黙示録シリーズ?」
――死を超えた魂は、大いなる力と智慧を手にする。
――故に私は、死の超越者たるレプリカこそが黙示録の導き手と考える。
――第一のレプリカは『白薔薇の王』その機能は『統』
――第二のレプリカは『無名の勇士』その機能は『火』
――第三のレプリカは『民の先導者』その機能は『餓』
――第四のレプリカは『灰色の玉座』その機能は『冥』
これらの言葉が端正な字で記されている。どこか見覚えのある文字だった。
『第四のレプリカ』のところには、何かを書き付けた上を黒く塗り潰した痕があった。そして、その下に『灰色の玉座』と書いてある。
末尾には、記号めいた飾り文字で『R・L』と記されていた。
「なんだろう……何かのメモみたいだ」
ひとまずメモをポケットに収め、ドロッセルは辺りを見回した。
本、羊皮紙、本棚――それらを改めて見直した後で、ため息をつく。
「さすがにここには鏡はなさそうだな……あるとすれば、洗面所とかバスルームかな。あとは寝室か。――うぅ、勝手に人の家探すみたいでなんか嫌だな……」
肩を落とすドロッセルの足を、トム=ナインが急かすように尻尾で軽く叩いた。
図書館から出て、ドロッセルは館の中を見て回る。
食堂、厨房、遊戯室、画廊――おびただしい数の扉がドロッセル達を迎えたが、その中のどれにも鏡はなかった。
やがて扉を開けていくうちに、奇妙な感覚に襲われるようになった。
ドアノブを握り、ドロッセルはごくりと唾を飲み込んだ。
反対の手を拳銃へと掛ける。そして意を決し、勢いよくドアを開けた。
薄暗い部屋が目の前に広がる。見慣れた空っぽの部屋だ。
「……ここも、何もいないな。鏡もない」
ほうと息を吐くと、背後でガリガリと何かを引っ掻くような音が響いた。
ドロッセルは息を飲み、拳銃を抜いて振り返る。
異変はない。ただ、トム=ナインが壁で爪研ぎをしていた。
「ま、紛らわしいことをするな!」
押し殺した声で咎めると、トム=ナインは涼しげな顔でニャアと鳴いた。
苛立ちを込めてため息をつき、ドロッセルは再度部屋を見る。
ここには誰もいない。けれども何かがいる。――そんな感覚が消えない。
「トム=ナイン……お前は何か、感じないか?」
猫は返事をせず、ただ廊下の突き当たりに向かってとてとてと歩く。そしてそのドアの前で腰を下ろし、ニャアニャアと急かすように鳴き立てた。
どうやら、更に先に進めと行っているらしい。
ドロッセルはホルスターから手を放し、トム=ナインの待つドアへと近づいた。
今までとは趣の違う扉だった。
『別館』という小さなプレートが掛かっている。さらに扉全体が堅牢そうな作りをしていた。
ドロッセルは今まで通り慎重に、扉のノブに手を掛けた。
ノブは何の抵抗もなく回り、扉はスムーズにドロッセルへと道を開く。
本館よりも入り組んだ作りのようだった。左右に細い廊下が伸び、正面には小さな階段が上と下に伸びている。窓はなく、蝋燭の明かりが辺りを照らしている。
恐る恐る足を進めると、鼻先に独特の甘い香りが漂った。
アニス、ローズマリー、トウヒ、そして様々な種類の蜜や、木の皮のにおい――。
「この香り……工房が近いのか?」
嗅ぎ慣れた香りに、ドロッセルはぱっと顔を明るくする。人形師の工房には魔術に役立つ様々な道具が保管されているのだ。
「もしかすると、鏡があるかもしれない! 行こう、トム!」
ドロッセルはひとまず左右の廊下の扉を確認したが、これらはどちらも堅く閉ざされていた。
残るは階段だが、上よりも下の方が甘い香りが強く漂っている。
「……工房は地下にあるのか。嫌だな……なんというか、あまり良い気がしない」
ぼやきつつもドロッセルはトム=ナインを連れ、階段を下に降りる。
長い階段の先には、今までよりもさらに大きなオークの扉があった。
表面に呪術的な意味を持つ紋様が彫り込まれ、ノブは金色に輝いている。人形師の根城たる工房にふさわしい豪奢な作りだ。
ノブに手を掛けた。その時、左腕にじりっと痺れが走るのを感じた。
「うっ――なんだ?」
思わず手を引っ込めて、ドロッセルは左腕を見る。
痛みと言うほどでもない。ただ、指先がわずかに痙攣している。それを見ているうち、ドロッセルは奇妙な気分になってきた。
この先に行ってはいけない。
けれども、この先に行かなければならない。――そんな矛盾した感覚に苛まれる。
「……鏡を、探さないと。鏡でなくてもいい、姿が映れば……」
ドロッセルは迷いつつ、ノブを捻った。
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