4.十九世紀の魔術師

 ドロッセルは鏡を下ろし、辺りを見回した。

 一見すると、先ほどと変わらぬフリート街の街並みが広がっている。

 しかし、ここはすでに異界――異形の世界だ。

 空を見上げれば異様に大きく、そして青白い月が見下ろしている。月の模様は現界とは事なり、無表情の人間の顔にどこか似ていた。

 月の周囲には様々な色の星が煌めき、季節さえも読み取る事はできない。

 地上に視線を戻せば人間界よりも霧が濃く、ガス灯の灯はぼうっと曇っていた。

 街に人の姿はない。ただ時折、実体のない影だけが霧の中をよぎる。

 店の看板や壁に貼り付けられたチラシの文字はどれも鏡文字か、あるいは意味の通らないごちゃ混ぜの文章になっていた。


「……無事、ノッドノルに移動できたようだな」


 ドロッセルはちらりと、側に立つ標識を見上げる。

 nodnoL――支離滅裂な文字の中で、かろうじてそれだけ読み取れた。

 ロンドン(London)の逆さ読みのこれがそのまま、この場所の名前となっていた。

 ドロッセルは手帳を取り出すと、そこに走り書きした。


「一八九〇年、十一月二十七日。ノッドノル、フリート異域には異常なし――よし。それじゃ辺りを見て回ろうか、トム=ナイン」


 ドロッセルは手帳をポケットにしまうと、トム=ナインを連れて歩き出した。

 このノッドノルは、異界の浅瀬に当たる部分だ。

 人間界のロンドンに強く影響を受けているようで、外観はロンドンとほぼ変わりない。しかし通りに並ぶ建物はほとんどが空っぽで、内部には家具さえない。

 そしてそこには時折、異質な扉が存在する。


「……うわ、壊れてる」


 いくらか歩いたところで、ドロッセルは足を止めた。

 そこは、本来はパブと思わしき建物だった。通りに面した窓には酒瓶が飾られ、文字がめちゃくちゃになった看板にはジョッキを傾ける水夫の姿が描かれている。

 そしてその看板の下、赤い扉の残骸が蝶番にかろうじて引っ掛かっていた。

 壊れた扉の向こうには深い霧がかかっている。

 そして、かすかに生臭いにおいがそこから漂ってきていた。何かを感じたのか、足下でトム=ナインが背中の毛を逆立てて唸りだす。


「どこに繋がってるんだろ、これ……モルグウォーカーの巣か?」


 ドロッセルは首を緩く振り、扉から離れた。

 この扉のように、異界の別の場所に通じる箇所は他にもある。

 たいていこのような扉は決まった場所に通じている。しかし、中にはランダムに行く先が切り替わる扉も存在しているらしい。

 下手に足を踏み込めば二度と出られない――師匠によくそう脅かされた。

 カチカチカチ――硬い物をぶつけるような音が微かに聞こえた。

 ドロッセルはさっと振り返り、辺りを見回した。

 フリート異域はしんと静まりかえっている。ドロッセルの他に人の姿はない。霧の中を動くのは、現実世界から映し出される影だけ。

 しかし、ドロッセルは眉を寄せた。


「……近くにいる」


 腰に手をやり、そこに括りつけていた小さな鞄を外した。

 黒革と金属のフレームで構成された、事典程度の大きさと厚みしかない鞄だ。表面にはガラス板がはめ込まれていて、内部にぎっしりと詰め込まれた歯車が見える。

 人形師達は、これを単純にケースと呼ぶ。


「【召喚summon】――ドロッセル・ガーネットの目録の二番を呼び出し」


 ケースの表面を撫でると、内部に詰め込まれた歯車がくるくると回り出した。十二宮を象った模様が回転し、天空の星の動きを再現する。

 やがて、青白い光がケースの内部から漏れ出した。


「来い、赤騎士」


 ドロッセルはがばりとケースを開いた。

 青白い光と風とが蓋の内側から零れだす。そしてその中から、人型の影が飛びだした。

 現われたのは、赤い鎧を纏った騎士だった。


『――マスター 指示ヲ』


 鎧騎士は敬礼の姿勢をとった。音を立てて、頭部装甲の隙間から蒸気が零れ出す。

 ドロッセルは元のようにケースを腰に括りつけつつ、赤騎士に指示を下した。


霊探れいたんを起動。周囲を警戒しろ」

「御意 警戒ニ 移行」


 ノイズ混じりの声で騎士が答えた。

 同時にその硝子製の目が黄色く光り出した。キーンという高い駆動音は、霊的なエネルギーである霊気を探知する機械が作動した証。

 そしてそのまま、赤騎士はなにも言わなくなった。

 ドロッセルは歩き出す。赤騎士は霊探の音を響かせたまま、その後に黙ってついてきた。


「……今のところ、どうだ?」

「異常ナシ 霊探ニ 反応ナシ」


 赤騎士は途切れ途切れの声で応答する。

 ドロッセルは周囲に油断無く目を配りつつ、小さく鼻を鳴らした。


「……やっぱり、もう少し自律性が欲しいな」


 赤騎士を含めた騎士シリーズの人造霊魂は極めて単純で、ほとんど機械に近い。

 人間のように自我を持つ人形というのを作るのは難しい。

 より高度な人造霊魂を作れば、人間とほとんど変わりない人形を作れる。代わりに命令に逆らったり、主人の意に反する行動が増える。

 忠誠と自我――この二つの要素を両立させる事は難しい。

 そしてそれらを兼ね備えた高度な人形を、ドロッセルはまだ持っていない。


「……もう少し呪文を組み込めば、もっと人間っぽくなるかな。でもそうすると一か

ら調整が必要になるし、それに赤騎士のクォーツの容量じゃ……」

「霊探ニ 感有リ」


 赤騎士の機械的な言葉に、ドロッセルははっと振り返った。


「数は? 近くにいるのか?」

「数一 距離一〇ヤード 位置――直上」


 その瞬間、異形の影が月を切り裂いた。赤騎士が上空に向かってカービン銃を撃つ。しかしその弾丸は高い音を立てて、標的の体のどこかに弾かれた。


「失中 更ニ標的二 霊探ニテ感知 距離二〇ヤード圏内」

「合計三体か……!」


 ドロッセルは眉を寄せ、異形の姿を睨む。

 それは笑い声にも似た声を上げて、空からドロッセル達の眼前に着地した。

 シルエットだけなら、類人猿によく似ていた。

 しかし、それは紛うなき異形だった。頭蓋骨が剥き出しになり、黒いタールにも似た染料で染められている。そして、その頭の周囲には赤黒いたてがみが揺れていた。

 モルグウォーカーは笑い声を上げ、ドロッセルめがけ飛びかかってきた。


「赤騎士!」


 ドロッセルの叫びに、赤騎士は即座に反応した。

 赤い装甲がドロッセルと異形との間に割り込む。鈍い金属音を立てて鉤爪が弾かれ、モルグウォーカーが背後に大きく飛んだ。

 カチカチと歯を鳴らし、モルグウォーカーが円を描くように移動した。

 赤騎士がハルバートを向け、その動きを牽制する。トム=ナインもまたドロッセルの前から赤騎士の側へと駆け寄り、威嚇の声を上げた。

 ドロッセルは口を開き、赤騎士に始末するよう指示を下そうとした。

 しかしその時、遠くから甲高い異形の叫びが響いてきた。


「……そうだ、まだ他にもいるんだ」


 ドロッセルは一瞬考えた。現在の装備と戦力を確認し、判断する。


「赤騎士。お前は他のモルグウォーカーを探せ。ここは私とトム=ナインで片付ける!」

「了解」


 赤騎士は忠実にハルバードをそらし、踵を返した。

 その瞬間、モルグウォーカーがけたたましい鳴き声を上げて飛びかかってきた。狙いは先ほどと同じくドロッセル。どうやら完全に獲物として見られているようだ。

 地面を横っ飛びに転がり、異形の鋭い爪をかわす。

 獲物を仕留め損なったモルグウォーカーが歯を鳴らし、再び跳躍の体勢をとる。

 それよりも早く、ドロッセルは腰のホルダーに手を伸ばした。

 取り出したのは一枚の銀の札。そこには赤や青で幾何学的な紋様が描かれている。

 それをマギグラフのスロットに叩き込み、霊気を流し込む。


「【詠唱chant】――大火球ファイアボール!」


 手甲部に嵌められた水晶が赤く輝いた。

 その瞬間、じんっと左手に痺れが走った。しかしドロッセルはそれを堪え、振り返りざまにモルグウォーカーめがけ左手を突き出した。

 掌から光と熱とが迸り、火球が放たれる。

 それはちょうど空中にあったモルグウォーカーの頭部に命中した。

 モルグウォーカーは悲鳴と共に地面に落ち、燃え盛る頭部を抱えて転げ回った。


「止めだ!」


 ドロッセルは拳銃を抜き撃った。

 三発の銃声。鉛玉は寸分違わずモルグウォーカーの頭を撃ち抜いた。異形は二、三度大きく痙攣した後に沈黙する。


「……まずは一つ」


 ドロッセルはふっと息を吐き、弾丸を再装填する。

 奇跡を起こす魔法使いの伝承も今はもはや御伽噺。時代とともに魔術師達の力は衰え、自力では小さな火を起こすことさえ困難になった。

 やがて魔術師は自らの奥義に機械技術を組み込み、『人形師』へと姿を変えた。

 マギグラフは、そんな人形師達にとっての魔法の杖だ。銀符を読み込ませ、霊気を流し込むことで魔術を発動させることができる。

 しかし、これ自体は所詮簡易な発動・安定装置に過ぎない。

 トム=ナインがシャアッと威嚇音を発した。

 同時に背中に嫌な気配を感じ、ドロッセルははっと振り返った。

 風が唸り、霧が裂かれる。音も無く忍び寄っていた二体目のモルグウォーカーが片手を振り上げ、ドロッセルへと襲いかかった。

 首を狙ったその一撃を背後に飛ぶことでなんとか回避し、ドロッセルは叫ぶ。


「トム! 発動用意!」


 トム=ナインが高く鳴き、モルグウォーカーめがけ躍りかかった。

 小さな猫の背中に向かって、ドロッセルはマギグラフを嵌めた左手を伸ばす。


「【詠唱chant】――大火球ッ!」


 ドロッセルはマギグラフに霊気を流し――それをトム=ナインへと送り込んだ。

 トム=ナインの瞳が鮮烈に輝く。

 カッと開いたその口の内部で、火花が弾けた。直後、そこから先ほどドロッセルが放ったものよりも遥かに強大な火の玉が吐き出され、モルグウォーカーに直撃する。

 モルグウォーカーの全身が炎に包まれ、絶叫が辺りに響き渡った。


「もう一発! 【詠唱chant】!」


 悲鳴を上げて崩れるモルグウォーカーに、再度トム=ナインが火球を叩き込む。

 着弾の衝撃で路面が爆ぜ、その熱で焼けていった。

 炎の中でモルグウォーカーの影が絶叫とともにのたうち、またたくまに消失する。

 これが現代の魔術師たる人形師の戦い方。

 人形との間に繋いだ見えない回路パスを通じて霊気を送り込み、それを人形の体内にある人造霊魂によって増幅。そして出力装置――オラクルレンズから発現させる。

 こうすることで、より強力な魔術を行使することができるのだ。


「……よし、まだ撃てるな」


 ドロッセルはスロットを開け、火球の銀符を確認した。

 銀符は全体的に黒ずんできているが、紋様はまだくっきりと残っている。

 これが完全に黒く染まれば、一度浄化しなければならない。しかし、火球の札は常に多めに持ち歩いている。一枚くらい使えなくなっても問題はない。

 スロットを閉じ、ドロッセルは辺りを見回した。


「ここはもう片付いたようだな。赤騎士の方に行くか」


 面倒くさそうにトム=ナインがあくびをする。

 ドロッセルはマギグラフを嵌めた手を伸ばし、クォーツに意識を集中した。


「赤騎、――っつ」


 その瞬間、左手の指先から肩に掛けて痛みが走り、ドロッセルは顔をしかめた。

 この痛みが、ドロッセルが出来損ないと言われる所以だった。


『人体には経絡と呼ばれる、霊気を流すための見えない回線が存在する。お前の場合、そこに傷が入っているんだ。その傷が霊気を流すたびに開いてしまう』


 かつて、ドロッセルは師匠グレース・マイヤーにそう教えられた。

 ドロッセルの肘から手の甲に掛けてを指先ですっとなぞりつつ、彼女は語った。


『痛みと、傷口からの霊気の流出のせいで魔術の安定性が落ちる。よりによって傷が入っているのが、お前の魔術の利き腕である左手の経絡だったのも不幸だったね。とはいえ、普通はちょっとくらいの傷なら、すぐ治るはずなんだが』


 グレースはドロッセルの手をさすった。

 武闘派人形師として知られる師匠の手は硬く、とても女性のものとは思えなかった。けれどもその手つきが、いつになく優しかったことをドロッセルは覚えている。


『だがお前の場合、この傷がどうやら相当深いようだ。治療の術も効かない。時間経過による治癒も見られない。――これはほとんど、呪いに近いものだね』


「……嫌になっちゃうな」


 ドロッセルは深呼吸しながら、左手を軽くさすった。

 徐々に痛みは治まっていく。

 その痛みが完全に消えたところで、ドロッセルは再度クォーツに意識を向けた。


「――赤騎士」


 静かに呟くとクォーツの表面に、赤い兜をモチーフにした紋章がぼうっと浮かび上がった。

 同時に、ドロッセルの左手の薬指から赤い光の糸が伸びた。


「……良かった、まだそこまで離れていないな」

 糸の太さと伸びる先を見つめ、ドロッセルはほっと息を吐いた。

 オートマタは契約した人形師と離れすぎると、性能が低下してしまう。契約者から回路パスを通じて送られる微弱な霊気が、人造霊魂の動作を安定させているためだ。

 ドロッセルは左手をさすりつつ、考えた。


「……いったん赤騎士と合流しよう。トム=ナイン、行くぞ」


 眠たげな赤い猫を連れて、ドロッセルは光の糸をたどりながら歩き出した。

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