2.女王の裏庭を守る者

 スコットランド・ヤードは来年から正式に新庁舎へと移るらしい。

 しかしいくつかの部局はすでに新庁舎へと移っている。

 ドロッセルは小さな手帳を守衛に見せ、厳めしい鉄の門を潜り抜けた。そして見た目にも強固な赤いレンガ造りの建物へと入ろうとした時、正面から囃し立てられた。


「おい、にんじん! にんじんがいるぞ!」

「げっ、ウェスター……」


 ドロッセルは思わず顔を歪めた。

 たった今、建物から出てきたところだったのだろう。

 金髪の少年が、にやにやと笑いながらドロッセルを見ていた。派手な羽根飾りのついた帽子を被り、痩せた体を品の良い服装に包んでいる。

 ウェスター・キーン。ドロッセルと同い年の人形師だ。

 いつも通り大勢の取り巻きを引き連れた彼は、声も高らかにドロッセルを嘲った。


「何しに来たんだよ、にんじん! ここはお前みたいな出来損ないが来るような場所じゃないだろ? にんじんらしく大人しく市場にでも行ってこいよ」

「にんじん様、わたくしがコヴェントガーデンまで出荷いたしましょうか?」

「ばぁか! あんなちんちくりんに売り値がつくわけねぇだろ!」


 仰々しくお辞儀をしてみせた一人を、ウェスターがげらげらと笑いながら小突く。


「――マスター。そろそろ時間だが」


 ウェスターの背後に立つ男がざらついた声を出した。

 異様な風貌をした男だった。

 見上げるほどの巨躯を、鈍い金色の鎧に身を包んでいる。顔は赤い羽根飾りのついた兜でほとんど隠れていて、青白い口元だけがドロッセルには見えた。

 時折、その体から蒸気の噴出音にも似たシューッと言う音が響いてくる。


「わかってるよ、うるさいな! オートマタがいちいち主人に口を挟むな!」


 ウェスターが鬱陶しそうに手を払う。

 オートマタ――それは機械仕掛けのしもべだ。その身に宿った人造霊魂から供給される霊気を動力源として動く、機械の体を持った現代の使い魔。

 彼らの発明により、魔術師達は『人形師』と呼ばれるようになった。


「また叱られるぞ、マスター。メイクピース氏が時間に厳しいことは知っているだろう」

「うるさいって言ってるだろ! 言うことを聞け!」


 今なら注意が逸れている。

 ドロッセルは足を速めて、がみがみと言い争う少年と騎士のそばをすり抜けた。


「あっ、にんじんが逃げた! にんじんが逃げたぞ!」

「おいおい、市場はそっちじゃないって!」

「出来損ないのにんじん! 悪魔の眼のにんじん!」


 ドロッセルは逃げるように建物の中に入った。扉を背中で閉めると、外の喧噪は一気に遠のいた。やや薄暗い庁舎の玄関ホールで、ほうと息を吐く。

 ざらついた感触を頬に感じた。首元のトム=ナインが、ちろちろと舐めている。


「……なんだ、いつになく優しいな」


 ドロッセルは薄く笑って、ミイミイと鳴く猫の頭を撫でた。


「……ドロッセル・ガーネット?」

「トリッシュ……?」


 顔を上げると、先ほどまで何もなかったはずの場所に黒い扉が現われていた。

 それが開き、そこに銀髪の女性が立っている。

 歳は二十代半ばほど。背はドロッセルよりもずっと高く、黒い制服の上からでもその体が無駄なく引き締まっている事が見て取れた。

 女性――パトリシア・ハーヴェイは淡いブルーの瞳にドロッセルを映し、小首をかしげた。


「……何か御用?」

「え、えっと……ヒラリーに用事があるんだ」

「副局長に……?」


 パトリシアは背後を振り返り、一瞬考え込んだ。

 やがて小さくうなずくと扉を開け、ドロッセルに向かって手をさしのべる。


「……案内するわ」

「え、でも今から出かけるんじゃ」

「外の空気を吸おうと思ってただけ。こっちに来て」


 促されるまま、ドロッセルはおずおずとパトリシアの背中についていった。

 しばらく細い廊下を歩く。すると、その突き当たりには大きな扉があった。

 扉には、王冠と赤い瞳をした黒い猟犬の紋章が掲げられている。

 一見すると、どこにも鍵穴が見当たらない。しかしパトリシアがポケットから取り出した手帳を紋章に掲げると、ひとりでに錠が落ちる音が響いた。

 ドロッセルはパトリシアに続いて、その先に足を踏み入れた。

 天井は高く、一階から三階までが吹き抜けになっている。

 頭上には真鍮と様々な宝石で作られた天体の模型が浮遊し、ゆっくりと回転していた。模型の下には、黒い制服を来た人々がせわしなく動き回っている。広間を満たすのは無数の話し声、飛び交う怒号、紙面をめくる音――そして人形の関節が軋む音。

 奥の壁には大量の時計と、鈍い金色に輝くプレートが掲げられていた。

 プレートに書かれている銘は『バックヤード』――この部局の名前だ。

 正式名称はロンドン警視庁異端取締局。

 イギリスの異端者の他、常人にはとても対応出来ない様々な超常現象を取り扱う。

 この異様に広いバックヤードの部局は、ある一人の魔法使いによって構築されたものらしい。

 その魔法の全貌はいまだにわかっていない。

 そして、きっとこれからもわかることはないだろう。もう奇跡を起こす魔術師の時代は終わり、機械仕掛けに頼る人形師の時代となったのだから。


「会っていただけると思うわ」


 疲れたドロッセルの歩調に合わせて歩きつつ、パトリシアは淡々と語る。


「今、ちょうど休憩中なの。副局長も部屋にいらっしゃるはずよ」

「ご、ごめんなさい。忙しい時に……」



 忙しない局内の様子に萎縮して、ドロッセルは身を縮めた。


「平気よ。――それで、今日はどんなご用件?」

「ヒラリーが先生に仕事の依頼をしたんだ。昨日、遅くに電報が来て」

「依頼? もしかして例の件かしら」


 三階の一番奥に当たる部屋で、パトリシアは足を止めた。

 正面の扉には、『副局長ヒラリー・ルー・キャンピアン』と記された仰々しいプレート。耳を澄ませると、微かに扉から怒号が漏れ聞こえてくる。


「……あの、やっぱり今度に……」


 怖じ気づいたドロッセルがおずおずと言う。

 しかしそれに構わずパトリシアは手を伸ばし、扉を三度ノックした。

「副局長。失礼いたします」

 扉の先にあったのは、とても警察関係者のオフィスとは思えない書斎だった。

 部屋には色とりどりのアクアリウムの他に、得体の知れない薬瓶を並べた酒瓶台タンタラスや、様々な菓子をぎっしりと詰めた硝子のボウルなども飾られている。

 書斎の奥には大きなデスクが据えられていた。

 しかし、その向こう側に着席している人物の姿はドロッセルには見えない。


「これは異端者の名誉に関わる問題ですぞ!」


 デスクの前で、大柄な男が派手な身振り手振りを交えて熱弁する。

 年はパトリシアよりいくらか年上らしい。

 黒髪を短く刈り込んでいる。角張った顔がいかめしい印象で、グリーンの瞳は鋭い。筋肉質の体に、黒い制服が窮屈そうだ。


「すでに四度! 四度です! 四度、心臓泥棒はやってのけた!」


 男は拳を握りしめ、悔しげに顔を歪めた。


「副局長! 今こそロンドン中の仕事屋を強制動員するべきです! 人形師、半獣ライカンスロープ、霊媒師に超能力者――なんでもいい! ともかく、異端者達はいまこそ立ち上がるべきだ!」

「落ち着けよ、ダンカン」


 デスクの向こう側から疲れたような少年の声が響いた。


「大体、仕事屋の強制動員なんてできるわけがないだろう。ただでさえ異端者は国家権力に対して警戒心が強いんだから――って、おや? トリッシュ? 休憩に行ったんじゃ?」

「はい、副局長」


 声を掛けられ、パトリシアがすっと姿勢を正した。

 それに釣られ、ドロッセルも背筋を伸ばす。首元でくつろいでいたトム=ナインもあくびを呑み込み、長い尻尾をピンと正した。


「途中でドロッセルに会ったので。ここに連れて参りました」

「ドロッセルだって?」


 デスクに着いていた人物が立ち上がり、ダンカンの向こうから現われた。

 それはどう見積もってもドロッセルとほぼ同年代の少年だった。

 さらりとした栗色の髪を綺麗に切り揃え、上から薔薇やら羽根やらの飾りが付いた派手な帽子を被っている。

 グレーの瞳はつぶらで、ますます子供のようにしか見えない。

 直立不動の状態で固まったドロッセルを見つけ、少年はにっこりと笑った。


「やぁドロッセル、久しぶりだね。元気かい?」

「あ、ああ……そこそこ元気にやってるよ、ヒラリー」


 ドロッセルがぎこちなく答えると、少年は――バックヤード副局長ヒラリー・ルー・キャンピアンはけらけらと声を上げて笑った。

「なんだ、そんなに緊張しちゃって。もっと楽にすればいいんだよ。――そうだ、この前持ってきたキャンディはない? アレ気に入っちゃってさぁ」

「一応持ってるけど……」


 ドロッセルはポケットから銀のケースを出し、ヒラリーにキャンディを渡した。するとヒラリーは「やっほぅ」と歓声を上げ、大急ぎで包み紙を剥がし始めた。

 容姿も、そして言動も子供のようだ。

 しかしこの少年は、少なくとも十年以上は容姿が変わっていない。

 聞いた当初は笑っていた『サンジェルマン伯爵の一番弟子』という自称ももしかすると真実かもしれないと、ドロッセルはここ最近思い始めていた。


「二月ぶりかな。ここ最近忙しくてねぇ。相変わらず小さいね、君は」


 キャンディをころころと口の中で転がしつつ、ヒラリーはドロッセルを見下ろす。


「い、いちいち小さいとか言わなくてもいいじゃないか……」


 ドロッセルは眉を吊り上げ、彼を軽く睨んだ。


「はは、だって小さくて可愛らしいんだもの。それで? 今日はどんな御用事かな? 僕は君の先生を呼んだんだが――」

「その件だ。今、師匠はパリにいるんだ。だから私が――」

「……我々が呼んだのはグレース・マイヤーだ。お前じゃない」


 地の底から響くような声が、ドロッセルの言葉をさえぎった。

 ダンカンはつかつかと近づいてくると、腕を組んでドロッセルを見下ろす。そのまなざしに射竦められ、ドロッセルは身を縮めた。


「ここに一体何をしに来た、ドロッセル・ガーネット?」

「だ、だから師匠は今イギリスにいないんだ。今はドーヴァー海峡にいる異形のせいで、大陸間の移動ができないだろう? それで、私が話だけでもって思って――」

「……ふむ。グレースの代理か」


 栗色の髪をいじりつつ、ヒラリーはなにやら考え込み始めた。

 しかし彼の答えが出るよりも速く、ダンカンが唸るようにいった。


「我々が読んだのはグレース・マイヤーだ。マイヤーがいないなら他の仕事屋に頼む。第一、お前はまだ正式な異端免許の交付を受けていないだろう?」

「それは――っ」


 ダンカンの言葉に、ドロッセルは思わず唇を噛む。

 異端免許――それはバックヤードにより交付される証明書のことだ。

 自らの異能を用いて商売をする異端者に与えられるもので、特に様々な怪異を解決することを生業とする仕事屋達には取得が強く推奨されている。

 しかしダンカンの言うとおり、ドロッセルはまだその正式な免許を持っていない。


「未熟な仮免など邪魔にしかならん。大人しく帰れ」

「か、仮免なのは……!」


 ダンカンの言葉は冷たく、そのまなざしは射殺すように鋭い。

 それでも、黙っていられなかった。きつく拳を握りしめ、床を睨み付けつつ、ドロッセルはなんとか震える声を絞り出した。


「試験に合格したのに、何故か私一人だけ失格扱いになったからで――!」

「だからなんだ。仮免は監督者がいなければバックヤードの依頼は受注できない。さらに有事以外は異能の使用も制限される」

「原則的にはそうだねぇ」


 厳めしいダンカンの説明に、ヒラリーが顎を撫でながらうなずいた。

 が、途中で意味ありげに目を細める。


「……ただ、まだ免許の取得は『推奨』に留められているけど。いくら怪事件関係はバックヤードが仕切っているとはいえ、まだ民衆は無免許の仕事屋に依頼したりしてるし」

「そこが手ぬるいのです!」


 ダンカンは信じられないと言わんばかりに首を振る。

 まるで役者になったかのように両手を振るい、彼は一語一語に力を込めて語る。


「本来は義務化するのが望ましい! 無免許の仕事屋達はもっと強固に取り締まっていくべきだ! そうでしょう、キャンピアン副局長!」

「いや、わかってるけどさぁ」


 くしゃくしゃと髪を掻きながら、ヒラリーが深々とため息を吐いた。


「金も人手も足りないんだよねぇ……それに、ただでさえ異端者達は魔女狩りの影響で国家権力への不信感が強いんだ。下手に刺激すれば暴動になるぞ」

「まったく手ぬるい!」


 ダンカンは苛立たしげに大きく頭を振り、深々とため息をついた。

 そこでふと、思い出したように彼はドロッセルを見る。


「――なんだ。まだいたのか、ガーネット」

「わ、私……」


 冷やかな声とまなざしにドロッセルは震える。

 ダンカンは目を細めると、人差し指を部屋の出入り口へと向けた。


「お前に出来る事はただ一つ。大人しくそこの扉から出て行くことだ。大体、お前のような半端者に彼女の代わりが務まるものか」

「エッジワース! そこまで言わなくてもいいでしょう!」


 珍しく強い語調でパトリシアが口を挟んだ。

 ドロッセルを庇うように立つと、彼女はダンカンを睨みつけた。


「第一、この子の実力は本来そこまで貶められるようなものではないわ」

「事実だ。――思い上がるなよ、ガーネット」

「こらこらダンカン。そこまで言う必要ないだろ」


 ヒラリーがやんわりと制すると、ダンカンは不機嫌そうな顔で僅かに頭を下げた。


「しかし、せっかく来てくれたのにこのまま帰すのもなぁ――そうだ、じゃあ異界の定期探索と、モルグウォーカーの退治をお願いしようか。これなら仮免でも大丈夫だろう」

「モルグウォーカー?」


 床に視線を落としていたドロッセルは顔を上げる。

 ヒラリーが机の上から一枚の図版を取り、軽く持ち上げてみせた。そこには類人猿にも似た姿を持つ怪物の姿が描かれていた。


「知ってるね? 凶暴で、動きが俊敏な異形だ」

「ああ。確か、先生と一緒に何度か倒したことがある。一体なら大したことはないが、群れると大変な奴だったな……」


 けらけらという子供に似た奇怪な鳴き声が特徴的だった。あの異形に初めて出くわしてからしばらくの間は、夢にまであの声が響いたものだ。

 恐怖のあまり師匠に添い寝を頼んだことを思い出し、ドロッセルは頭を抱え込む。


「最近、フリート街の方で見かけたって話が出ているんだ」


 恥ずかしさに身悶えていたドロッセルはその声に顔を上げ、ヒラリーを見た。


「知っての通り、お恥ずかしながらバックヤードは人手不足でね。しかも今はちょっと厄介な事件が起きてて、そっちに人員を持っていかれてる。だからここは、民間の仕事屋の手を借りたいんだけど――」


 ヒラリーは困ったように肩をすくめ、手に持った書類を軽く振ってみせる。


「わ、私がやってもいいのか……?」

「君にお願いしたい。――トリッシュ、契約書用意してあげて」

「承知しました、副局長」


 パトリシアがうなずき、古びた木製のキャビネットに向かう。


「……よろしいのですか? 仮免に依頼など」


 ボウルの中の菓子をあさりだしたヒラリーを、ダンカンがじろりと見る。

 ヒラリーはチョコレートを一つ取り、いたずらっぽく笑った。


「本当は望ましいことではないね。バックヤードは免許の義務化を目指してるわけだから」


「ご、ごめん……」


 肩をすくませるドロッセルに、ヒラリーはぽんとリコリス飴を投げてよこした。


「こら、謝るんじゃないの。別に、今回の依頼は可哀想だと思ったからお願いしたわけじゃないよ。果たすべき義務のため、そしてロンドン市民の安寧のためさ」


 パトリシアが近くのテーブルにドロッセルを導いた。

 そして席に着いたドロッセルの前に、一枚の書類とペンとが出した。書面には依頼の際に書かれる一般的な契約文が書き込まれている。


「それで――引き受けてくれるかい? 人形師ドロッセル・ガーネット」


 ヒラリーの眼がまっすぐにドロッセルを見つめる。

 ドロッセルはその眼と、差し出された紙片とを交互に見た。キャロルのからかい、ウェスターと仲間達の嘲笑、厳しいダンカンの言葉――全てが頭に蘇る。

 ドロッセルは何度か小さくうなずき、契約書に手を伸ばした。


「……わかった」


 ペンを取りつつ、文面にざっと目を走らせる。依頼内容、約束される報奨金、依頼を反故にした場合の罰則内容――それらが几帳面な筆跡で書かれている。

 そして、請負人の名前欄。ここにはいつも、最初に師匠の名前が書かれた。

 ドロッセルは震える手で、そこに自分の名前を書き込んだ。


「――この依頼、ドロッセル・ガーネットが請け負った」


 かすれた声でドロッセルは言って、パトリシアに書類を差し出した。

 たった一枚の書類。しかし、手の中のそれはどうしてか奇妙に重く感じられた。

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