Ⅰ.人形師と水底の彼
1.ドロッセル・ガーネット
一八九〇年――十一月。
ストランド街の片隅に、小さな店があった。古びた赤いレンガ造りの建物で、道に面した小さなショーウィンドウには様々な人形が展示されている。
銅製の看板には『マイヤー人形工房』と飾り文字で書かれていた。
そしてその下には、さらにこう書いてあった。
『仕事屋――人形師グレース・マイヤーの店。異形退治の他、各種怪異承ります』
そのマイヤー人形工房の二階で、ドロッセル・ガーネットは身支度を整えていた。
「……こんな感じかな」
髪を整えて、ドロッセルは姿見を確認する。
ガーネットから紡いだような赤髪を髪留めでシニヨンにしている。目尻の吊り上がった瞳は黄金色で、いまいちドロッセルはその色が好きではない。
十六才という年齢のわりに小柄な体を、今は質素なブラウスと黒いスカートに包んでいた。
その上から深紅のコートを羽織り、ブラウスの衿を整える。
「……よし。おかしくないな」
ドロッセルがうなずいた時、足下でミイと猫の鳴き声が響いた。見れば、オレンジ色の毛並みをした猫が尻尾を揺らしてドロッセルを見上げている。
「待たせて悪かったな――それじゃ行こうか、トム=ナイン」
ニャーニャーと急かすように鳴く猫を抱き上げると、ドロッセルは自室を後にした。階下に降り、狭い廊下の突き当たりの扉を開ける。
すると、目の前に広がるのはマイヤー人形工房の店舗部分だ。
美しい人形や煌びやかなドレス、様々な型紙やカタログが所狭しと並んでいる。ビスクドールだけではなく、壁にはマリオネットの類いも掛けてあった。
そしてドロッセルのすぐ目の前に、レジカウンターがある。
そこにはこの店の看板娘が座り、雑誌を枕にぐっすりと眠り込んでいた。
ドロッセルは一瞬呆気にとられて、十時を示す時計と眠る看板娘とを見た。そして眉を吊り上げ、気持ちよさそうに眠る少女の肩を容赦なく揺する。
「起きろ、キャロル! 仕事はこれからだろ!」
椅子を軽く蹴ってやると、キャロルは唸りながら起きた。
軽く乱れた前髪を掻き上げ、肩を怒らせたドロッセルを眠たげなまなざしで見る。
「……あら。おはよう、おちびちゃん。今日も変わらずちんちくりんね」
「おはよう。ずいぶんな挨拶だな」
こめかみを引きつらせつつもドロッセルが返すと、キャロルは小さくあくびした。
「仕方ないでしょう? なんせあたしときたら鏡見りゃいつでも美人が映ってるんで。なんでもちんちくりんに見えちゃうのよ、困っちゃうわ」
言いながらキャロルは頭上に手を伸ばし、ぐうっと伸びをした。
キャロル――キャロライン・ヴィットーリア・フォルトゥナート。
実際この少女は、恐らくヨーロッパでも有数の美人だろう。
優美な形に結い上げた見事な亜麻色の髪。大きな瞳はオリーブ色で、鼻筋の通った顔にはどことなく異国風の面影がある。
プロポーションも抜群で、二人並べばドロッセルが際立って貧相に見える。
「――で? これから出かけるの? この前の伯爵夫人に人形を届けに行くとか?」
たっぷりと両手両足の筋肉を伸ばした後、キャロルはドロッセルを見た。
「いや、私は今からスコットランド・ヤードに行く」
「……ヤードに人形を届けに行くの?」
整った眉を吊り上げ、キャロルは首をかしげた。
「そんなわけないだろ。仕事屋の依頼だ、さっき電報がきたんだよ。多分いつも通り異形を倒したりとか、変な事件解決したりとか、そういう話だと思う」
「……でも、それって店長宛の依頼よね? あんたが行く意味あるの?」
「だって先生は今パリにいるんだ。話だけでも聞こうと思って。私だって先生と同じ人形師だし、ちょっとは役に立つかもしれないだろ?」
「へぇ、あんたみたいなちびちゃんがねぇ……」
珊瑚色の唇に触れつつ、キャロルはドロッセルを見つめた。
品定めするようなまなざしに落着かず、ドロッセルはもぞもぞとする。するとキャロルはにぃっと唇を吊り上げて笑った。
「門前払いされたら慰めてあげる」
「いらない。どうせ一言につき一ペニーとか要求するんだろ」
「バカにしないで、それじゃ切手くらいしか買えないじゃない。一言につき一シリングよ」
「ひどい商売だ……ともかく私が留守の間、しっかり仕事してくれよ」
「気が向いたらねぇ」
「真面目にやれ!」
さっそく雑誌を読み出したキャロルに怒鳴りつつ、ドロッセルは店を出た。
弱々しい日差しが、レンガや花崗岩の建物を淡く照らしている。その下を、落ち着いた色彩のドレスに身を包んだ淑女や山高帽を被った紳士達が闊歩していた。
この場所は、ロンドン有数の繁華街であるストランド街の片隅だ。
そのため人通りも活発で、油断しているとすぐに見知らぬ場所に流される。
行き交う人々や荷物を満載した馬車の間を、ドロッセルは器用にすり抜けて進んだ。最近は蒸気仕掛けの自動車や大きな二輪車が増えたため、油断すればはねられてしまう。
いつもならばセント・クレメント・デーンズ教会の鐘の音が聞こえる頃だ。
しかし、今は不穏な事件の知らせがその鐘の音を掻き消していた。
「今度はステップニー! ステップニーで血の雨だ!」
「またしても心臓泥棒だ! 異形か、あるいは異端者か!」
道の片隅で新聞売りが声を張り上げ、真新しい新聞を振り回している。その紙面には一面に、『怪死再び』『冷徹なり心臓泥棒』等と言った文字が躍っている。
「これで四件目か……」
「……言ったろ、これは異端者の仕業だって。間違いない」
「遺体は全部、心臓を抜き取られていたんでしょう……?」
「決めつけは良くないって。異端者の技術で、私達も助けられてるんだし……」
ひそひそと話し合う通行人の狭間を、ドロッセルはフードを目深に被って潜り抜けた。
十九世紀になってなお、『異端者』という言葉は活きていた。
たいていの場合、この言葉は常人とは異なる力や特徴を持った人々の事を示している。
人狼、超能力者、魔法使い――異端者と呼ばれる存在は様々だ。
そんな彼らは、時の流れによって急速に表社会に溶け込んでいった。それまで隠されていた彼らの技術や能力は、文明を著しく発展させたのだ。
また『仕事屋』と呼ばれる異端者達によって、人々は日夜様々な怪異から救われている。
しかし大半の常人にとって、異端者はいまだ『わけのわからない存在』でしかない。
途中で適当な辻馬車を見つけ、ドロッセルはそれを呼び止めた。
「スコットランドヤードまで頼む――新しい方の建物だ」
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