第2話 第二話

ドアを開けると、もう彼は玄関の前の道路に立っていた。

「おはよう、華」

 ニコニコという書き文字が似合う表情を浮かべながら、すっと片手を上げた。

「陸君」

 あたしは上げている片手をつかんだ。そうしてぎゅっと握りしめる。指もからめる。

 間違っても離さないように。

 じわりと胸に暖かい気持ちが広がる。今まで頭の中に巣くっていた眠気が一気に吹っ飛んでしゃっきと元気がわく。今日も頑張っていこうと思う。

 通学路は一本道だ。この辺りは田舎町だから車も少ない。だから堂々と真ん中を歩く。

「今日は英語の小テストだけど、勉強した?」

「聞いてないよ、私」

「華はあの時間寝てたもんね」

「起こしてよ!」

「席が離れてるから無理だよ、有原さんに起こしてもらわないと」

「さくらもいつも寝てるでしょ」

「確かに」

「そのくせ点数だけはいいのあの子」

 私たちは笑いあった。英語のテストは憂鬱だけど少なくとも今はとっても幸せだ。

「いいかい? 今回の範囲は」

 英単語帳を繰りながら、陸君は英単語とその意味を唱え始めた。

 私はそれを聞き流しながら、空を仰いだ。

 空は抜けるように青い。その青さが好きだ。見ているだけで気分がすっきりするから。うれしいときも悲しい時も空だけはずっと青くて頼もしい感じすらする。

こんな風に私が幸せでいられるのも陸君のおかげだ。

陸君が毎朝家の前で私を待っていてくれる。

それだけであたしはこんなにハッピーだ。

ときめきを抑えきれなくて、その手を強く握る。彼は握り返

してくれた。それがうれしくなって私は何度もそれを繰り返す。

「痛いよ」

陸君の苦笑が聞こえた。

 彼の顔を直視できない。あまりにもまぶしいのだ。

でもこれではカップルとして微妙なのでたまに練習する。

今日も練習してみよう。

 頑張ってその顔を見るのだ。

 ファイトだ、あたし。

 かっと目を見開く。

あたしの意思は固いぞ。

「ん? どうしたの」

 あっ。

 顔が熱くなると同時に視線がふらふらとどこかへ行ってしまう。

 これはいけない。

 もう一回。

「いやだから、どうしたの?」

 やっぱりだめだ。正視に耐えない。いい意味で。

「なんでもないっ!」

 熱くなった頬を両手で抑えながら、あたしは走り出した。

「風が熱を冷ましてくれるって思ったのに」

 五月の陽気は侮れない。走っているうちにだんだんと汗ばんできた。すぐに立ち止まる。

 これはあまりにもふがいない。運動もできないような女の子では陸君にも愛想をつかされてしまう。

 十八年の人生の中で陸君は一番大切な人なのだ。どうしたって手放すわけにはいかない。

「おーい。華、どうしたんだ。急に走り出して」

「え、あ、いや、なんでもないの」

「そうは見えないけど。何かあったら相談してよ。俺は君の彼氏なんだからさ」

「大丈夫?」

 膝に手をついて荒い息をしているあたしの顔を彼は眉をひそめてずいとのぞき込む。

 無垢と顔に書いてありそうなくらい純粋さ。

 近い近い近い近い。

 あたしの頭の中はもうしっちゃかめっちゃか。今までの熱もあってオーバヒートしそうになる。

 何か言わなくちゃ。このままじゃ変な女の子だと思われちゃう。それだけは嫌だ。絶対に。

「えとえとえっと」

 何も出てこない。

 ぐちゃぐちゃになった頭の中をさらにかき回して私は叫んだ。

「陸君は運動できない女の子は嫌い!?」

「え?」

心底後悔した。

一体何言ってるんだあたしは。彼はさっきから英単語帳をめくっていたのだから、その話をすればよかったではないか。会話も弾んであたしも英単語の勉強もできるのだから一石二鳥だ。

恐る恐る彼の顔色を窺って、すぐに視線をそらした。こんな時で

も恥ずかしいものは恥ずかしい。

どんだけ奥手なんだ、あたし。

 陸君は一瞬小さくぽかんと口を開いた後、すぐにそのさわやかすぎる笑みを見せてくれた。

「運動なんかできなくって、俺は華のことが好きだよ」

 脳内の宇宙がさらなる混沌に陥った。このままこのカオスが深まれば、ついにはこの宇宙も消し飛んでしまうだろう。こうなっては新しく創世されるのを待つしかない。

 ビックバンが終わり、宇宙にある物質たちが星雲を作り始めたころ、再び声がした。

「華?」

 まだまだ混乱の極みにあったあたしは不用意にもふらふらとそちらに近づいてその腰にがっしりとしがみついてしまった。

 そのぬくもりに涙すら出そうになる。

「どうしたの? 華? 俺何か変なこと言っちゃったかな。一応本音のつもりなんだけど」

「またそういうこと言う!」

再び頭の中は大騒動。今度は言葉が勝手に口をついて出てくる。多分、混乱をごまかそうと脳が最大限努力してるんだろう。あたしの脳は実に優秀だ。

「死ぬ。恥ずかしすぎて死んじゃう。あたしが死んでも忘れないでね、陸君。もし他の女の子と付き合ったら、その子をビンタして引きずり回してやるわ」

 前言撤回。何してるんだあたしの脳。これではとてつもなく重たい女の子になってしまうではないか。

「俺には何の被害もないんだね。って違う。その態勢から力抜くとアスファルトと同衾しちゃうよ! 華! 華!」

 渡辺華。現在高校三年生。

最近は幸せすぎて死にそうです。



 結局、英単語の小テストは散々だった。それもこれも陸君が悪い。陸君がもう少しかっこよくなければさすがのあたしも直前に詰め込むことくらいはしたのだ。

でも別にいいかなんて思ってしまったりもする。どうせ英語などここを出れば使う機会など一生訪れまい。大体あたしたちは今この言語で問題なく意思疎通ができているのに、もう一つ言葉を覚えて何の意味があるというのだ。もしそんなことを覚える時間があるのならあたしは陸君と一緒にいたい。

そんな話をして友達に苦笑されたのが昼休み。

 今は現代文の時間だ。

 現代文は嫌いではない。評論文は読んでいるうちに訳が分からなくなるし、問題の答えだって意味が分からない。友達は問題も答えも全部問題文に書いてあるから簡単だなんて言うけど、ちょっと信じられない。

あたしが好きなのは小説のほうだ。小説で取り上げられるのは人間の気持ちで、小難しい論理関係など追わなくてもいいから。

ただ、小説も評論文も担当しているのはあの先生なので、結局授業自体はつまらないことに変わりはないんだけど。

 黒板の前で教鞭を振っているのは定年間近のおじいちゃん先生。ひょろっとしたいで立ち、白髪がわずかに残る寂しい感じの頭、古めかしい丸メガネなんていかにも国語の先生だ。

 問題は見た目より授業のやり方。生徒に教科書を読ませてあとは先生が全部解説していく感じだから聞いている分は楽なんだけど、おかげでずいぶん眠い。授業のペースも非常にゆっくりだからなおさらだ。以前居眠りしてしまったとき、「ああ結構寝たな」と思って急いで黒板を写そうとするとまだ寝る前と同じページを扱っていたときはとっても驚いた。

 現に先生はえー、としわがれた声で間をつなぎながらゆっくりゆっくりとチョークを持ち上げている。まるで爆発物でも扱っているようだ。ただ、のっそりしたこの感じが可愛いと女子の間ではひそかに人気だ。

まあ、女子が自分以外のことをかわいいなんて言うときは大抵別の感情も混ざっているわけだけど。

 こほん。黒板に視線を戻そう。今はあたしが好きなほうを取り扱っていた。

授業はぼうと聞いていたせいでついていけないけれど、今の話がどんなのかはわかる。確か三角関係についてだった気がする。学校に通っていた主人公の下宿先に金に困った主人公の友人が転がりこんで来る。そして主人公と友人は下宿先のお嬢さんに恋してしまうのだ。

「じゃあここを成瀬、読め」

 あてられた男子が読み始めたのは、学校帰りに主人公と友人が公園を歩いている場面だ。お嬢さんと仲の良い友人に嫉妬した主人公は友人の高潔な部分につけこんで馬鹿だ馬鹿だと叱責するのだ。主人公もだいぶあれだけど、それを真に受けてしまうような友人も少々どうかと思う。

 幸いなことにあたしは生まれてこの方、嫉妬という感情からは無縁の生活を送ってきた。基本的にあまり多くを望まないので多少努力すればほしいものは大抵手に入った。

 

 三角関係はどうだろうか。

 二通り考えられる。あたしを誰かが取り合う場合とあたしと誰かが陸君を取り合う場合だ。

 残念ながら一つ目はない。あたしは陸君以外の男子とほとんど会話しないし、遠くから視線を注がれるような女の子でないことくらいわかっているつもりだ。

 問題は二つ目。陸君を巡ってあたしと誰かが取り合う場合だ。あたしと陸君は運命の赤い糸で最高に固く結ばれているから、もう一人の子には悪いけど退場してもらう羽目になるだろう。

 陸君を盗み見る。うん、やっぱりかっこいい。あたしの陸君は無敵だ。

 待てよ。最高にかっこいい陸君のことだからきっとあたし以外の女の子にも優しいはずだ。

優しくされた女の方は勘違いして彼に付きまとうかもしれない。超絶優しい陸君はそれを邪険にできない。当然彼はあたしに助けを求めるだろう。彼の求めには絶対に応じる。それが彼女というものだ。そして、その勘違い女を協力してはねのけ二人は結ばれる。現実みたいに二人でこっそり付き合いはじめるのもいいけど、こういう風にひと悶着あった方が後々の思い出になっていいのかもしれない。

 そういえば、この小説。最後は主人公とお嬢さんがむすばれるんだっけ。そしてそれを知った友人は自殺する。勘違い女は死ななくてもいいけど、静かにはしておいてほしいかな。具体的には今後一切あたしと陸君には話しかけない方向で。

 そんな妄想を続けている間にも授業は進んでいた。あたしは急いで板書を移す。場面もそれなりに進んでいて、お嬢さんのお母さんから主人公とお嬢さんが結婚すると聞かされた友人の出方を主人公がやきもきしながら伺っているところだ。友人なんだから結婚の報告くらい一番にしてあげてほしいものだ。たとえそれが恋敵であったとしても。そんなことだから友達が死んじゃうんだ。

 あれ? 

あたしは何かを見落としていることに気付いた。必死に教科書を最後までめくる。物語自体はあたしの記憶とそれほど相違ない。ただ最後には主人公も死んでしまうのだというところを忘れていたくらいだ。

 どうせ忘れるようなことに意味などないのだ。切り替えよう。そして鉛筆をノートに押し当てた時に気が付いた。

 どうしてあたしはこの物語の結末を知っているのだろう。

 誓って言うが、あたしの辞書には予習などという言葉はない。だから、いつかの勤勉なあたしがこの教科書を事前に読み進めていたなんてことは絶対にないはずなのだ。

 この物語を教科書以外で読んでいたとすればどうだろうか。教科書に載るくらいの名作だ。きっと文庫本などはいたるところで手に入るだろう。あらすじを知っていても何の不思議もない。

 どうもしっくりこない。あたしはこの物語を文章という形で知っているような気がするのだ。

 いつの間にかクラスの視線があたしに集まっていることに気が付いた。中にはくすくすと笑っている子もいる。

 きょろきょろするあたしに先生は言った。


「ここから読め、といったのが聞こえんのか渡邊」

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眠れない人々 夜見方ルビ @suma_ken

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