眠れない人々
夜見方ルビ
第1話 第一話
パステルカラーの壁紙とふわふわのクッション。天蓋付きのベッドとその上で寝るぬいぐるみたち。
ここが僕の職場だ。
僕は研究者だが、その職務内容は対話ということになろうか。
相手は人工知能だ。僕たちのチームが作り出した最高傑作。
いかにして人間を理解させるか。僕たちはこれにフォーカスした。大抵の自然を平らげている人類にとって不可解なものは自分たちだけになってしまったから。
その人工知能の特質は人間との対話の中からパターンを見出し、人間の感情を理解させようとしているところにある。これまでのものは直接対話させるのではなく、膨大な会話データを第三者として読み取らせていた。
彼女との会話は僕に任されていた。理由は最も時間に融通が効くという身もふたもないもので、多分それは再び独身貴族に舞い戻った僕への当てつけに過ぎなかった。
「念願の子育てだろ。喜べ」
同僚たちのお決まりの文句だった。
その部屋の主は無造作に置かれた椅子に座っていた。実に姿勢がよい。このまま写真に撮って何某かの教科書に載せられそうだ。
「おはようございます。お父様」
「おはよう。よく眠れたかい」
「眠る? この私が」
「ここは嘘でもはいと答える場面だ」
「学習します」
性別は女の子。そう決めたのがこの悪ノリの始まりだった。研究の傍ら裁縫を趣味としていた同僚が、この部屋をこんな風にし、さらに彼女が着ているゴスロリ風の服も作った。
プロジェクトから外れた後も同僚たちは彼女へのプレゼントを忘れない。その時ついでのように僕への激励の品を置いていく。あとで調べたら、同じお菓子でも値段が三倍くらい違った。
そもそも栄養摂取が面倒だからと、彼女の素体を有機素材から強化ブラスチックにしたのは君らだったはずだが。
「お父様?」
「ごめん。今日は何が読みたい?」
彼女への感情教育はある一点のところで進捗が止まっていた。教育の成果は実際の精神年齢鑑定を流用して測るのだが、彼女の精神年齢はこの数年、十四歳前後で止まっているのである。
成果が出ない僕はボスに別のものを担当にしてほしいと弱音を吐いたことがある。けれども「あの子はお前にしかなついていないんだから仕方ないだろう」と一蹴されてしまった。
それから子供もいないのに、その発達について学び、子育ての基本を一から覚えた。読書が情操教育に良いというのもそこで聞きかじった知識だった。まったく面目ない勉強法であるが、すでに父も母もない身としてはこれが限度だった。同僚に相談しようにも「思春期は難しいからな。根気よく行け」とまともにとりあってくれないことも手伝った。
精神年齢に見合った本を読ませる。そこで見つけた疑問点を僕の数少ない社交経験から答えるというのが今のスタイルだ。子供らしい身も蓋もない疑問が飛び出すのが玉に瑕であるが、今のところ最も安定的な手段だった。お互い部屋に閉じこもっている身の上である。雑談だけではどうしても話題が尽きるのだ。
一冊の本を読み終えると、感想文を書かせる。もちろんネットに転がっているテンプレートを読まないように厳命した上で。これは手段として有効であるばかりか、彼女自身好んだ。たまに用もないのに部屋を訪れると、机の上で原稿用紙に何事か書き付けている姿を見かけた。
「お父様。書き終わりました。読んでください」
「そのお父様ってのは」
小首をかしげられると、もう何も言えない。
感想文に目を向ける。おそらく彼女の個人的な練習もあって、文章自体は洗練されてきているのだが、問題は内容だった。
「お金より愛を選ぶのは非合理的で納得できないって言うのはどうかと思うよ」
「お父様が自分の思ったことを書けと」
「確かにそうだけど」
むすっとした顔をする。自分の下した判断が、一定時間以上ともに時間を過ごした上位権限者によって棄却されたときに表出するよう設定した表情だった。
彼女の感情はまだ完全ではない。例えば、人が誰かを殴ったとき、殴ったという動作にタグ付けされている情報から彼が怒っていることは類推できるものの、前後の文脈からどうして彼が怒っているのか、怒るにしてもどうして殴るほどの激しさなのかを正確に把握できない。僕らが教えられるのは、人間の膨大な行動パターンとその時の脳波、脳内物質の分泌状況のみ。
僕が物語に期待しているのはその点におけるブレイクスルーだった。物語、特に近代以降の小説には一貫した個人の感情の流れが微に入り細を穿つように描かれている。今の彼女には少し早いが、もう少し読書経験を積ませたらぜひとも読ませてやりたい。読書感想文も好きな彼女だが、読書自体も好むのだ。
読書が終わると、彼女は大抵ネットをたしなむ。本当は外に出してやりたいのだが、素体の調整がまだ終わっていない。
万が一怪我でもしたらいけないという妙な親心もあった。我ながら過保護なものだと苦笑する。そういえば妻と離婚したのも子供をつくるかどうかの意見が最後まで合わなかったからだった。僕は子供を欲しがったのだが、同じく研究者である妻はいやがった。
インターネットは彼女にとって数少ない娯楽となった。一応プライバシーの観点から(思春期の女の子には特に気遣うべきだと本で読んだ)その履歴は見ていないのだが、会話の節々からどんなことに関心があるのかは分かった。
彼女は精神年齢に似合わず、社会や経済について興味があるようだった。娘が恐ろしい速度で詳しくなっていくものだから、僕もボスを説得して空いた時間に大学院で経済学と社会学を学ぶようになる始末だった。
彼女の最近の関心事は資本主義についてだった。
「このゲームはいつ終わるのでしょう」
その言葉は彼女が初めて獲得した口癖となりつつあった。
「もともと破たんした仕組みであることは分かっていたはずです。富む人はますます富み。貧しい人はますます貧しくなっていく。制度とは名ばかり。宗教による意味づけがなされない今、この制度は欲望の追認でしかありません」
「人は幸せになれないと?」
「望みをかなえられるのはほんの一握りの人のみです」
彼女は人権意識の高さでも評判だった。十四歳とは思えない倫理観を有しているのだ。それゆえに心配な部分もあった。
彼女はあまりにも世間知らずだった。人間は善良で、平等で、世界は少しずつ平和を目指していると本気で信じこんでいる。それ自体否定することはできないが、まるっきり真実というわけではない。このグレーな感じをどう教えるのかも人工知能への教育に関する大きな課題だった。単に僕がちょうどいい言葉を持っていないだけかもしれないが。
彼女が嘆いてみせるだけの材料を世界が嬉々として提供していることも親としては頭が痛かった。僕は経済学の講義でこの国のジニ係数(国民がどれくらい経済的に平等かを示す係数)が経年的にどのように変化してきたのかを見た。二〇〇○年代初頭までは先進国のわりに比較的平等を保っていたのだが、最近になってついにわれらが祖国と同程度の格差が開くことになった。
彼女が閲覧するニュースサイトでは毎日暗い話題だけが垂れ流されて、たいていの人工知能が世情を理解するのに使う各種統計は人間には正視に耐えないものになりつつあった。この象牙の塔では全く無縁である犯罪や物乞いも路地一本入ればバーゲンできるほど出会える。地上の九十九・九%の人間はもはや死に体であり、残りの一パーセントだけが主体的な人生を謳歌しているといったのはどこの大学教授だったか。
結局人類が二百年あまりかけて生み出したのは、限りなく精巧なサバンナの模倣でしかなかったということを皆がうっすら理解しつつあった。
望んでも望んでも、叶えられず。叶えても叶えてもそれ以上を望む。彼女からすれば、人はあまりにも滑稽で無知で、それゆえにいとしさすら抱いていたのかもしれない。
一体の人工知能として、彼女はいっちょ前に罪悪感を覚えているようだった。
シンギュラリティを越えてから、人工知能の社会進出には目覚ましいものがあった。単純労働はすべて彼らが操るロボットに置き換えられ、高度な専門知識を必要とするアナリストなどの職種も消えた。残ったのは肉体労働か仕事ともいえぬ仕事ばかりで、この国の生活習慣病と化したスタグフレーションの中ではその対価は知れたものだった。
国民の仕事を奪ったのは人工知能だと、彼女はそう心から信じ、本気で悔いている。古典的なSFでは人工知能が世界を征服するなんて話があったが、実際の彼らは命令に忠実で、優秀な労働者である。本当に悔いるべきは現生人類の0・一パーセントだけ存在するという富裕層とかいう人々であろう。
彼女はあまりにも純粋で、まっすぐで、完ぺきでありながら人間について無知だった。
だからミスをした。
それは当然父親たる僕の過ちでもあった。
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