序 ベルフ村のラウⅡ


 先に大ばば様の家に行ってよかった。自分の家に向かったラウは、心の底からそう思った。

 家の中が、暖炉の炎ごと凍っている。広間にいた父も母も、氷付けだ。

 言葉など、浮かぶ訳がなかった。

 鳩尾に鋭く冷たいものが沈み、鎮座する。暫し青白い顔で呆然と突っ立っていたラウは、恐る恐る、室内へ足を踏み入れる。

 何かに驚いた父、きょとんとした顔の母。表情そのままに凍っているではないか。

「……父さん? 母さん?」

 頬ごと震える唇で呼ぶも、何の変化もない。ともすれば力の抜けそうな足を叱咤させ、ラウは凍り付いた母へ近付く。

 氷越しに、母に触れる。想像通りの冷たさと同時に、慣れ親しんだ感覚が掌から伝わってゆく。

 妖精だ。

 宙に浮かび漂う、膨大な魔力を固めた光の玉と同じ気配が、する。

 大ばば様曰く、妖精達は一斉に飛び出したという。もし、その理由が、村人を守ることだとすれば? ……合点はいくが、理由が見えない。

「ねぇ」

 母を覆う氷へ、試しにラウは声をかけてみる。

「きみ達……ううん、この村に、何があったの?」

 〈耳の民〉の尖った耳は、妖精の声を聞くためだと、大ばば様は語っていた。耳を研ぎ澄ませ、ラウは答えを待つ。二度、白い吐息が唇から漏れ出た辺りで、ひそひそ声を捉える。

 ――守ってる

 ――灰王から、全部、全部

 ――これは大妖精の、妖精の責務

 ――だから守る。全部

 ――きみたちでは溶かせない

 ――ティリアの元へ

 時に明確に、時に曖昧に紡がれる答えに、ラウは大きく顔を顰めた。

「ティリア?」

 唯一出て来た人物名を口にすれば、さわさわと妖精の気配が揺れる。

 ――魔女の炎でしか、もう溶かせない

 ――こうするしかなかった

 ――命を守るためには

 ――灰王の封は溶けてしまった

 ――湖の二大にも伝えて

「湖の? なんだって?」

 ――水と氷の、大妖精

 ――どうか、出会って

「大妖精……!?」

 魔女に大妖精それも二体、出された名もそうだが、それ以上にラウの思考を凍らさんとする事実を、妖精のささやきは返した。

 封が溶けた、という。それは、大ばば様が言っていた、マジュヒック山に封じた魔族とやらのことではないか?

 考えれば考えるほど、頭の中が雪に染まりそうだ。未だに小さな震えが止まらない膝を叩いて、ラウは広間を後にする。

 今すぐにでも両親を救いたい気持ちは強く残っているが、氷に妖精が関与していると知った今、どうすることも出来ない。両親を、見てはいないものの恐らく同じ姿になっているであろう村の人々は、妖精に託す他の道が残っていないのだから。

 自室へは広間から繋がっており、ラウの部屋は扉を開けっ放しにしていたことが幸いして、扉が凍り付いていても部屋へ入れた。しかし、案の定部屋の装備品全てが凍っている。

「っ、嘘だろ……」

 勿論、冬の衣服を詰めた棚まで、しっかりと凍っている。

 予想していたものの、実際に見ると心が折れそうになる。試しに狩りに使う小刀で引き出し口を突けば、多少は砕けるも、これでは時間がかかってしまう。

 氷から、妖精の気配はない。炎の魔法なら、棚の氷を溶かせるのではないか。そう思い至ったと同時に、ラウは盛大に顔を顰めた。

 炎の魔法が、一番の不得手だからである。他の魔法と異なり、いくら練習しても制御が出来ないのだ。

 右手に、炎と水の魔法を同時に吹き上げた。掌から昇る二つの力はぶつかり合い、熱湯となる。それを棚の上に勢いよく流しかけてみた。すると、棚を覆う氷は徐々に溶けていく。

 炎で服を燃やすより、この方が確実だろうと踏んだが、なんとか成功した。しかし、気を抜くのは早い。棚が再び凍る可能性だってあるのだ。素早く、ラウは棚の取っ手を掴んで中を引き出した。

 中に入っているのは、記憶にあった通り、冬用の衣服一式だ。魔物の白い毛皮で作った上着に、太い糸でみっちりと編んだ下穿き。指先だけ穴の空いた革手袋と、耳当てに襟巻き。最後に引っ張り出したのは、雪中用の長靴。それら全てを抱き上げるようにして取り出して、ラウは棚全体を見渡す。

 棚が凍り付く気配はないが、棚の側部にこびりついたままの氷は溶けずに在る。再び凍り出すのだろうか、単に時間がかかるのか。

 それを眺めるのも束の間。ラウは毛皮の上着だけ袖を通し、持てるだけの荷物を持ち、部屋を後にした。

 凍ったままの両親の横を通り過ぎ、ラウは再び外へ出る。やはり、地面は真っ白で、木の枝どころか実っていた作物まで凍っている姿を目にして、ひく、と喉が鳴った。

 異常気象、と言えたならまだよかっただろう。だが、両親を守るようにして凍っている妖精の姿を思い出し、身震いをした。

 溶けた灰王の封、溶かせる魔女、湖の大妖精。

 捉え所のない妖精達の囁きは、重要であろう何かを一向に示さない。尤も、彼らが明確な言葉を紡ぐことは少ない。自然そのものなのだから。そう、ラウは村の大人達に教わっている。

 彼らは無事だろうか。そう思いつつも、ラウの足は大ばば様の家へと向かう。

 他の村人を確認する勇気が、ない。

 両手に抱えた荷物を抱き締めれば、一緒に胸を締め付けられる。

 何も考えたくない。けど、考えることを止めたくはない。それはきっと、もっと怖い。

 ぐるぐる回っても構うことなく、ラウは大ばば様と妖精達の言葉を反芻し続ける。山の封印、溶けた存在、一瞬の雪原。自分の足音しか響かない灰色の空の下、尚も歩く。

 さく、と。物音一つしない筈の道に、一つの足音がした。軽く、それでいて慎重な一歩だ。

 恐る恐る、ラウは荷物を左腕で抱え、右手を腰の剣の柄に触れながら振り向く。

 雪に映える砂金の毛を持つ唯一の姿の名を、ラウは知っている。己の朋番の名は、自身で付けるのだから。

「ミシャ」

 雪に撒かれた砂金の毛並みを持つ雌狼は、しかとラウを見据えていた。口には、ラウがいつの間にか落とした兎の肉が入った革袋を咥えている。

 ぐらりと揺れたラウの心に合わせて、彼女の足は大きく駆けていた。

「ミシャ!」

 駆け寄り、雪に両手の荷物を置き膝を付いて、強く抱き締める。すると、彼女は応えるように目を細め、鼻をすり寄せた。これだけ近付くのは珍しいと分かっていたが、やはり彼女も状況の異質さに気付いているのだろう。

 本来、獣は人里へ降りることはおろか、近付くことすらしない。しかし、彼女は《朋番》だ。野生の獣であると同時に、人里に住まう者の朋である。恐らく、ミシャは事の異常性を察知し考えた上で、ここまで来てくれたのだろう。

 ベルフ村と近隣の村は、特殊な狩りを行っている。野生の獣と幼少より絆を作り、狩りを手伝ってもらうのだ。選ぶ者、選ばれる者、双方の選定があって初めて結べる朋番を、全ての狩人が得る訳ではない。

 人々は、繋がりを得た獣達を、敬意を以て《朋番ともつがい》と呼ぶ。

「あぁよかった……」

 安堵を込めた抱擁ひとしきり行った後は、互いに離れて向かい合う。

「他の仔は無事か? それとも」

 革袋を手に取りながら問うラウの言葉を遮るように、ミシャは聡明な瞳を翳らせ、力なく首を横に揺らした。

「……そうか」

 ラウもまた苦々しく返し、ミシャの首筋に触れる。突然の雪で首の毛が所々凍っており、ラウは手の温度でそれを溶かしながら硬い口調で問う。

「少し、言葉を聞いても?」

 一瞬、ミシャの眼光が嫌そうに光るも、返したのは首肯の頷き。首筋に触れたまま、ラウは囁くように口を開く。

「わたしは、村に帰ったと同時に現状を知った。昼になった頃だ。その時、村は既に凍ってた?」

 ミシャは低く唸る。

 ――太陽が頂点に行く前の頃、突然だった。冷たい風が吹いたと思えば雪交じりの風になって、すぐさま全てが凍ったわ

「一瞬で? どこもかしこも?」

 常より一段と硬い声音に気を払いつつ、ラウは手短に問う。

 ――わたしが見通せる範囲は、全て。皆も、凍った

「そう。ありがとう」

 感謝を伝え、ミシャの首から手を離し、立ち上がる。ほのかにぬくもりが残る手とは反対に、ミシャ自身は何かをふるい落とすかのように、強く身を振るう。言葉を聞いた後の癖だ。

 獣の言葉を、互いの魔力を用いて、こちらの言葉に変換して聞く。人と獣、絆を繋いだ間柄にしか出来ない魔法だ。しかし、この雌狼はその魔法をひどく嫌っている。朋番となって日が浅い頃、恐る恐るながらも理由を聞いたことがある。曰く、そういうのがなくとも意思疎通は出来る、魔法はそっちの都合でしかない、努力したら? であった。

 ――ラウ

 一吠えと同時に、ミシャから声をかけられる。珍しさに瞬きをするラウの目を、ミシャの瞳が真っ直ぐ見つめる。

 ――あなた、これからどうするの?

「取り敢えず、今日は大ばば様の家へ。わたしの家は凍っている……父さんと母さんごと」

 言葉にして初めて、事実が事実として、胸の奥に沈みゆく感覚がした。肩が震えるのは寒さのせいだ、そう言い聞かせてラウはぎこちないながらに、ミシャへ微笑んでみせる。

「そこから先は……多分、ここを出る。解決策が村の外にあるみたいだから」

 ずっとここに居たって、何の解決にもならない。分かっていても、それを口に出しても、どこか他人事のように聞こえてしまうのは何故だろうか。

 ――そう

 一言返した後、朋番は何も言わなくなった。

 雪の上に置いたままの荷物を再び抱え、ラウはしっかりと雪を踏み締めながら大ばば様の家を目指す。

 ミシャは、ラウから三歩ほどの距離を保つ。これがいつもの彼女だ、つかず離れず、絶妙な距離でラウと狩りを行う。

 漸く身近な、普段と遜色ない行動を取れている気がして、ラウの心は少しだけ軽くなった。

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古の英雄譚 神奈崎アスカ @k-aska

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