古の英雄譚

神奈崎アスカ

序 ベルフ村のラウ

序 ベルフ村のラウⅠ

 ラウが目にしたのは、凍てついた村だった。

 確かに、マジュヒック山嶺の麓に位置するベルフ村は冬の厳しさで有名だが、雪の季節は未だ遠かった。筈だ。

 自ら事切れさせた兎の肉塊が、革袋ごと厚い氷雪の大地に落ちる。どさり。音は粉雪のせいで大きくならず、故にラウは手中に何があったのか、そもそも手に何を持っていたのかさえ忘れ。

 少女は、凍てついた故郷を彷徨う。

 誰か、父さん、母さん。友の名を、仲間の名を、そして家族の存在を。真っ白な吐息と共に大きく口にはするが、しかし微塵も響かない。真白いものが、全ての音を吸い込んで、静寂だけをラウに返すばかり。

 短くとも瑞々しい草木に包まれた大地は、代わりのように氷に包まれ、乾いた青空は厚ぼったい灰色に成り代わる。ふらり、ふらり、ラウは覚束無い足取りで、今日まで生きてきた村を巡る。

 生命の緑は細やかな白く冷たい砂に覆われ、時折風と共にラウの頬を強く撫でる。冬の装いなどしていない少女の体を、大地から空から冷やしていく。

 予感は、全くなかった。

 前日は見事な秋晴れで、今年は豊作だと畑番の者達が朗らかに言っていた。村の外れに自生している果実の木には、森からの恵みだと言外に伝えんばかりにたわわな実がなっていて、今朝方少しばかり失敬したばかりである。その後は、大人達に混じって狩りを行い、大物を捕まえた彼らの背をその場で見送った。ラウには行きたい場所があった。先日、山の方に罠を張ったので、その確認である。

 罠を張った箇所へ赴き、運悪くも捕まった兎を幾つか狩ったところ、雲行きが怪しくなった。昼の頃合いでもあったので村への帰路を急いだら、これだ。

 再度、村を見渡す。人が、人のいる気配が不思議とない。道には勿論、点々と建っている家にすら。

 妖精もいない。音も重さも感じさせない魔力が詰まった煌めきを、空気のように漂う光を、一つも目にしていない。

 言葉に表しきれない恐怖が、ひたひたと足を包んでくる。ラウは懸命に歩を進め、見落としのないよう、蒼天の目を光らせた。

 曇天に紛れ、煙突から煙をくゆらせている家がある。

 時折足に力を取られそうになりつつも、ラウは煙を頼りに歩を進める。冬支度であれば、この程度の雪など造作もないというのに。数少ない救いといえば、黒髪を二つに分けて編み込み更に一つに束ねているので、髪が視界を遮ることはない。

 懸命に向かったその先、雪の重みにも耐えうる強固な家が何なのか、勿論知っている。この村を治める大ばば様の家だ。

「大ばば様! いる!?」

 乱雑に扉を開け放ち、ラウは声を張り上げた。ベルフ村の家屋は、冬場の冷気から室内を守るため、扉が二重になっている。そして、二つ目の扉の奥は暖炉が付いた広間。これも、どの家でも変わらない間取りだ。

 開かれた空間に目を凝らすまでもなく、今にも消えそうな暖炉の火の側で、小さな背中が縮こまってい姿を、ラウは視認する。

「大ばば様」

 恐る恐る口にすれば、その影はゆっくりと背を伸ばし、ラウを見上げた。雪焼けの、しわくちゃな老婆の顔には、疲労が刻まれている。

「おぉ……ラウ、お前さんは無事だったんだな……」

「大ばば様、これは一体何が?」

 掠れ声の大ばば様へ、ラウは小走りで駆け寄り膝を付く。

「分からん……お前が罠を見に行っている間に……突然のことじゃった」

「何が起こったの?」

 眉根を顰めて問えば、大ばば様はラウの両手を強く握り締める。

「外におったらな、突然山より冷風が突き付けられたかと思うたら、みるみるうちに周囲の木々が凍り、地面が白く染まった」

 言葉だけでは、まるで、早送りで冬が来たような流れであった。言葉だけでは想像しえないものを、大ばば様は、村の人々は見たのだろうか。

「流石に、衰えたとはいえ、我が目を疑ったものだ。急ぎ家に戻り妖精たちを守ろうとしたが……彼らは飛び出して、家ごと守りおった」

 大ばば様から零れたのは、石の如く重たい溜息。ラウは身が縮こまる感覚を覚える。

 妖精とは、自然の息吹そのものだ。それが自ら動き、自然と思われる現象から、驚異から、大ばば様を守ったのだろうか。

 問えぬラウが逡巡する間に、大ばば様の青い唇がこじ開けられる。

「……霊峰マジュヒックの最奥に、封じられた存在がおることを知っておるか?」

「いいえ」

 素直に答えれば、大ばば様は一つげんなりと溜息を吐いた。

「……少々、野山を駆け回りすぎたようじゃな」

「わたしにそう言われても」

 狩りや、それこそ魔物退治もこなすラウだったが、ベルフ村に纏わる言い伝えを聞き覚えることはしていなかった。狩りの手伝いや、幼い頃は外遊びで手一杯だったのだから。

 やや渋々と、居住まいを正したラウの右手を、大ばば様は両手で挟み込み、手の甲を軽く叩きながら言う。

「大昔の……ワシも爺様に聞いた言い伝えじゃ」

 訥々と、大ばば様は語る。

「大いなる力を持つ大妖精が作りたもうた存在にして、彼らにも御しきれぬ者。そう言われておる」

「大妖精が……作った?」

「そうじゃ」

 大ばば様は一つ頷いて立ち上がり、暖炉の横に設えている棚から一枚の布を取り出した。

「曾て我らは、数多くの種族は、創造の神と呼ばれる者の手によって作られた」

 ラウのように、妖精の声を聞ける尖った耳を持ち、自在に魔法を操る〈耳の民〉

 器用な手を持ち何でも作り出せる半面、丸い耳は妖精の声を拾えず、妖精の姿も視認出来ず魔法も殆ど使えない〈手の民〉

 妖精を視認すれど〈手の民〉同様魔法は乏しい。が、彼らの倍近くある巨体と、それに見合う怪力を持つ、麓へ降りず山に住まう〈山の民〉

 魔法は〈耳の民〉よりうんと自在に扱える半面、東のスウェー湖から、何より水から離れられぬ、別名半魚人〈水の民〉

 古びた布には、それらが書かれた図が広がっている。

「じゃが。一つだけ、大妖精が作った種族がおる。それを、魔族、という」

 大ばば様の皺に包まれた細い指が、先程の民らとは別の枠を指し示す。

「創造の神より力を与えられた大妖精達は、数多の種族を守護すると同時に、全く新しい生態系を築こうとした」

「それが、魔族?」

 確認するようにラウが問えば、大ばば様は強く頷いた。

「しかし、その魔族に関する記述もなければ、言い伝えもない。ただ、大妖精が御しきれなかった存在を、マジュヒックの最奥に封じた、と」

 外の天気が荒れてきているのか、嵌められている小さく丸い窓硝子が、がたがたと音を立てる。

「古き世、大妖精達はそれをマジュヒックに封じ、以降、麓の民に霊峰として奉るよう伝えた、と」

 ともすれば素通りしかねない、夢物語のような言葉を、ラウは頭の中に必死に書き留めた。

 自分達とは全く違う形で誕生した、大妖精が作ったという種族。何故か大妖精でも抑えきれなかったという存在が、マジュヒック山に封じられている。

 これだけ大切な伝承なら両親から聞いている筈だが、聞き覚えがないのは、やはり大ばば様の言葉を借りれば『野山を駆け回りすぎた』から、かもしれない。

 頭の中で、語られた内容を反芻させつつ、ラウは言う。

「それじゃあ……大ばば様は、この雪や氷が、マジュヒック山に封じられていた魔族だっていうの?」

「確証はないが……可能性の一つとして、覚えていてほしい」

 大ばば様の声音は、可能性の一つとして捉えるには強すぎる響きがあった。 

 暖炉の木の爆ぜる音と、窓を叩く雪風の音が同時に鳴り響き、ラウはぞわりと背を凍らせる。ベルフ村は元々雪深い村だ、一年の半分以上は雪に包まれるものの、今ばかりは雪が降るまでの経緯のせいで恐ろしくてたまらない。

 何を、どうすればいいのか。考える力さえ纏まらず、ラウは目を伏せた。

「一度、家に帰るかい?」

「……はい」

 ラウの意識を掬うような大ばば様の提案に、彼女は項垂れながらも頷く。そうだ、まだ、両親に会っていない。無事、だろうか。

 嫌な予感は胸中に燻り、晴れる兆しは見せず。

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