飴と傘

ゆあん

レイニー・シガレット

 死んだ婆さんが言うには、雨には二種類あるのだそうだ。

 一つは人を走らせる雨。もう一つは足を止めさせる雨。

 それで言うのであれば、この雨は後者だ。


 会社を出たときには、既に空は泣き出しそうであったが、こうして住まいの駅へ到着してみると、本降りになっていた。小さいロータリーに行き交う車のライトが、降り注ぐ雨に乱反射して嫌に眩しい。タクシーや迎えに来た車に乗り込む人々は、荷物を頭に乗せて、まるでそこへ飛び込んでいるかのようだ。対して俺は、その長蛇に並ぶ気にもなれず、そんな人々を眺めながらタバコをふかしていた。走る人々と足を止める俺。婆さんが言う分類は精神的なところなんだろうが、現実的には区別できてないじゃないかと、煙とともに吐き捨てた。


 別に誰かを待っている訳じゃない。車内でさんざん味わった窮屈さからやっと開放されたこの体を、またあの行列に戻したくないだけだった。そうこうしている内にまた多くの人々がホームをくぐってくる。少しは減ったと思われたタクシー待ちの行列は、あっという間に長蛇に逆戻りになった。


 今日、人事の発表があった。同期の芝村が営業課長に昇進していた。辞めた連中を除けば、同期の中で未だに一般職でいるのは、いよいよ俺だけになってしまった。入社一年目に味わった山場ですっかりやる気を削がれてしまった自分には、もはや悔しいという感情は湧いてこなかった。「おめでとう」という言葉の八割は本音で、残り二割はむなしさだった。


 こういうとき、時計の存在を忘れる。駅についた時間を確認していないから、いまさらそれを見たところで、一体どれほどこうしているのかも結局のところわからない。ただ考えてみれば、自問自答にふける時間を確保できていなかった自分に気がつく。雨を言い訳に、自分を慰める時間を作っていたなんて、君は許してくれるだろうか。


 やる気と希望を持って出社していた時期が眩しい。あのときは全てに全力だった。仕事は大変だったが、楽しかった。生意気なことに、俺が会社を大きくしてやるだなんて、そんな大それたことを思ったりもしていた。その時の俺が今の俺を見たら、きっと後ろ足で蹴飛ばしたに違いない。


「おせーよ!」


 しばらく前からいた金髪の男が、前に停められた黒い軽自動車に乗り込みながら怒鳴っていた。運転手の明るい髪の女はまだ若く、窮屈そうにハンドルを回しながらロータリーを出ていった。迎えが来るだけありがたいということが、あの青年にはまだわからないらしい。


 こうして見ていると、不思議な傾向に気がつく。ロータリーにやってくる車のドライバーの多くは女だった。男が乗り込む車には恋人か妻、若い女が乗り込む車はその母か友人。そして学生の女の子が乗り込む車の運転手だけは父と思われる男だった。何台も繰り返されるやり取りを見ているうちに、その関係性を考えてしまう。ひとしきり考えて、意味のないことだと思い至って、また煙とともに吐き捨てた。


「それにしても良く降るなぁ」


 独り言はほとんど意識的に発していた。この時期にしては珍しく本降りで、スーツに染み込めば風邪をひきそうだ。こんな天気の中、傘をさして歩くと考えるだけでも億劫になる。先日、置き傘用の傘を紛失したが、仮にそれがあったとしても、持ってこなかっただろう。


 そんな取り留めのない思考を弄んでしばらくたった、次の瞬間だった。

 突然、雨がやんだ気がした。


 目前には、いるはずの無い人物の姿があった。コンビニの角を曲がって、傘をさしてゆっくりと歩き、俺の前で立ち止まった。


「どうして」


「携帯」


 そう言われてポケットの携帯電話をまさぐった。無意識にサイレントモードに設定していたらしい。画面には着信件数を示す数字が写っている。


「電話、出ないから。帰りが遅いからどうしてるのかと思って」


「ごめん、気が付かなかった」


 着信は半時置きに四回ほどあった。時刻は二十一時を回っていた。どうやら俺はこうして二時間も立ち尽くしていたらしい。


「どうしてここが?」


「タバコ。私が口うるさく言うもんだから、吸うんならここだろうかなって」


「さすが名探偵。だが、別にあてつけとかじゃないよ」


「わかってるよ。さ、帰ろ。風邪引いちゃうよ」


 彼女に不釣合いなほど大きな傘に、前かがみで入り込む。精一杯肩をすくめても、その左肩が濡れた。駅から遠ざかるにつれ徐々に暗くなっていく街道を、二人はゆっくりと歩いていく。


「なにかあった?」


 ふいに彼女が言った。こういうとき、彼女は妙に鋭いのだ。


「同期が課長に昇進した」


「へぇ。おめでたい話じゃない」


「そう。おめでたい話なんだ」


「昇進祝い贈らないとね。飴玉とかどう? 飴と鞭、って言うしね」


「それは上司が部下にやるしつけの話だろう。そいつはもう俺の上司になるんだよ。それにそいつに飴をあげたなら、俺は自分の体を鞭で打ち付けることになりそうだ」


 俺が自笑気味に言うと、しかし彼女は笑っていなかった。こちらの顔をまじまじと覗き込み、いよいよバツが悪くなった俺が降参した。その様子を見た彼女は、ようやく優しい目を向けてくれた。


「仕事があるだけありがたい、って思わなくちゃね」


 その言葉にハッとする。

 そうなのだ。俺には仕事があり、こうして迎えに来てくれる妻もいた。帰るべき場所があるのだ。


 この世知辛い社会で生きるものにとって、これほどありがたいことが他にあるだろうか。


「タバコ、無理しなくていいよ。換気扇の下とかにしてくれれば」


「……いや、いい。本当にあてつけとかじゃないんだ。ごめん」


 華奢な彼女の腹部はわずかに膨らんでいた。数カ月後には、新しい家族が生まれてくる予定だ。それは俺と彼女の、初めての子供だった。


「帰り、酒屋さん寄ってこっか。私は飲めないけど、どうせなら良いお酒買ってお祝いしようよ。今日もクビにならなくて助かりました記念」


「お前なぁ。それにちょっと道を逸れることになるけど、……大丈夫か」


「心配しすぎ、まだまだ先の話よ。それに、逆に歩いたほうが良いらしいよ? 特に私みたいな小さい人は」


「ふぅん」


「ま、今日は慰めてあげるよ。そのかわり、今後はちゃんと連絡すること。一家の大黒柱に風邪を引かれたら、困ります」


「わかりました」


 街道を逸れて、路地に吸い込まれていけば、蛍の光のように薄っすらと輝く看板が見える。一体いつからやっているのかわからない、古い酒屋さんだった。


「祝品、本当に私、買ってこよっかな。飴で思い出したんだけど、なかなか悪くないんじゃないかと思って」


 彼女の茶化す声が、俺の肩を軽くさせた。いつの間にかそこに重く積み上がったものを、この雨と共に洗い流してくれるように。


 なんだ。たまには雨というのも、悪くないじゃないか。

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