第2話 乙女の盛んな朝情事


 朝食を済ませ、法衣ブレザーとその上に愛用の深紅のマントを羽織ると、わたしは駆け出すように家を出ました。

 朝会の始まる「土払つちばらいが風のとき」まであと半時ほど、少し急がなければなりません。

 魔学堂へと続く道を歩きながら冷えた空気を肌に受けている内に、わずかばかり脳漿のうしょうにこびり付いていた眠気の残滓ざんしも一気にめていきます。

 街もまだ目覚めたばかりといった雰囲気で、通りに人の群れこそ連なれど、左右に軒を並べる店はまだ開いている時間ではなく、至って静かなものです。

 そういえば、今日はファウスハイド先生のご講義があるのでした。

 ファウスハイド先生はこのアヴァロニアで唯一の『魔道家』と呼ばれる最高位の魔学者で、この『世界』の理を成す「魔道」を司るとっても偉い方。わたしの憧れです。その先生のご講義が受けられるなんて……

 もう、死んでもいい!

 あ、もちろん、ただの比喩です。だって、まだ恋だってしたことないのですよ。死ねるわけがないじゃないですか。ええ、死にませんとも。死んでたまるかコンチクショーです。

 でも、ファウスハイド先生が相手だったら……ちょっといいかも。

 くどいようですが、「死ぬことが」ではないですよ?

 そんなとりとめもないことを考えている間に、正面に魔学堂の正門が見えてきました。

 赤煉瓦レンガを積み合わせた高い塀の中央に半分ほど開いた鉄格子の門があり、その右に『アヴァロニア魔学堂』という看板が立て掛けられています。それが、わたし達「都市魔学者」が通う学業施設です。

「よう、姫!」

 びくっ!

 不意に背中から軽い衝撃を受け、鼓動が胸を打ちました。

 わたしは少し不機嫌を装いながら後ろを振り向くと、予想通りの人物がニヤけた顔でこちらを見ています。

「ダビ……おはよう」

「なんだ、朝から機嫌悪そうだな、姫?」

 このダビという黄色いマントの少年は、わざとらしく理由をいてきます。

 わたしが不機嫌な理由は、彼も解っているハズなのですが。

「その『姫』ていうの、いい加減やめてほしいなあ……」

 それとなく主張してみました。

 無駄かも知んないけど……

「なんでよ。俺が天才魔剣士で、お前が魔法のプリンセスなんだから、当然『姫』だろ?」

「…………」

 やっぱり無駄でした。ていうか、


 魔法のプリンセスって何?


 そんな正体不明のイキモノになった覚えはないのだけど……

 そもそも、彼にまともな会話を試みたのが間違いでした。

 短い黒髪に紫の宝石のような瞳をした端正な顔立ちで、黙ってさえいれば中々の美少年なだけに残念極まりない。

「はあ……」

「どうかしたか、ため息なんかついて。元気出せよ、姫」

 一体、誰のせいだと思っているのだか……

 しかし、当の本人はまるで他人事のようで、乙女の微妙な想いなど気にもめません。

 …………まったく、少しくらい気を遣ってくれてもいいのに。

 ゲンナリと肩を落としながらも、わたしは目前に迫った魔学堂の正門へと歩みを進めていきます。隣には、当然のように並んで歩くダビ。共に学堂へ入ろうとしたところで、

「マルちゃん、おっはよぉ~!」

 イベントその二は、正門の手前で待ち構えていました。

 綺麗な黒髪を背中まで伸ばし、法衣の上に蒼いマントを羽織った清楚な感じの美少女が、こちらに手を振っています。切れ長の碧の瞳がとても綺麗な子です。

「ノーア、おはよう」

 わたしは、やはり少し不機嫌を装うわけですが。

「どうしたの、朝から。低血圧?」

 彼女も同じく、わざとらしくいてきます。

 だから……解っているくせに、訊かないで欲しいなあ。

「でたな、性悪魔女っ!」

 今度は、横にいたダビが恒例のご挨拶。

「……なぁ~んだ、あんたもいたの。魔剣士……」

 嘆息しながら、ダビに適当な手振りで挨拶を返すノーア。

 どうもこの二人、あまり仲が良くないみたいで、顔を突き合わせる度にこうして皮肉が飛び交ったりします。わたしとしては、この状況は居た堪れないものです。

「当然だろ、俺は姫をまもる星のもとに生まれたんだぜ?」

「うっざっ! 本っ当ぉ~に熱っ苦しいね、あんたは。それに比べてぇ~……」

 ノーアは、わたしの方を向くと、少し怖い笑みを浮かべます。

 やばい、これはまさか……

「マぁぁぁ~ルちゃぁぁ~ん」

 突然の抱擁。

「今日も可愛いなぁ、あんたは」

 戸惑うわたしの顔に、スリスリと彼女は頬ずりしてきます。

「ちょ、やめ……」

 わたしは必死でノーアの肩を押し除けようとしますが、こともあろうか彼女はわたしの腰に回したその手を更に下へと伸ばしていくではありませんか!

 そ、その下は……

「だ、だめ……そ、そこ……は…………はぅっ!」

 スカートから少し覗いたわたしの絶対領域に、ノーアの魔の手が忍び寄ります。

「あ~ん、やっぱりマルちゃんのあんよはスベスベして触り心地がいいわぁ~」

「あ、やだ……そんなに撫で回すようにしちゃ……」

「なんか羨まし……て、違った。ズルイぞお前、一人だけ姫とスキンシップとか。俺も混ぜろよー」

「それも違あぁぁう!」

「ちょっと、男がマルちゃんのカラダに触ったりしたらセクハラよ!」

「の、ノーアだってセクハラだよ!」

「とにかく姫から離れろ」

 三者三様に口々に叫びながら揉みくちゃになっていると、わたしは不意に平衡感覚へいこうかんかくを失います。となれば当然――

「あわっ!」

 わたしを軸にバランスを崩した三人は、重力の法則に遵って後ろに転倒しました。

「痛い……ていうか、ちょっと重いって……」

 ノーアが脇で悲鳴を上げるのが聞こえます。

 わたしはノーアの身体がクッションになってくれたおかげで、あんまし痛くなかった。

 ダビは……あれ、どこだろ?

 仰向けになったわたしの眼前には空が青白く広がっていて、彼の姿が見当たらない。

 取り敢えず身を起そうとして、

「ひゃいっ!」

「ぐぉっ!」

 膝元を生温かいものが吹き抜けました。同時に鼓動が高鳴ります。

 何かの予感に背筋が凍り、身体から汗が噴き出しました。意を決したわたしは、上半身を起こして視線を下半身に移してみました。そこには、スカートの下に黒の短髪が埋まり、わたしの膝の裏から脚をMの字に開くように持ち上げる彼の両腕……

 よかった、こんなところに………………

「て、よくなぁぁぁいっ!」

 慌てて彼の頭を両手で押しのけ、わたしは激しくそれを蹴りまくっていました。

「つっ、いてえーって!」

「だから、重っ……」

「う、うるさい。しんじゃえ!」

 鼓動の速くなっている胸を押さえながら、「はぁはぁ」と肩で息するわたし。全身が熱く火照っているのが自分でも判ります。そこへ、

「あのー、さっきから重いって言ってるんだけど……」

 あっ……

 下の方から漏れる声にゆっくり首を動かすと、わたしの左手が二つある柔らかなお饅頭まんじゅうの片割れに乗っかっていたのです。

 わたしは慌てて立ち上がり、その手を引っ込めようとしましたが、わずかに速く彼女が手首の辺りを掴んできました。

「マぁぁぁルちゃぁ~ん、嫌々言っている割にお手々の方は随分とお行儀が悪いわね。そんな強く揉みまくるほどこのノーアさんの身体からだが欲しいのなら、素直に言ってくれれば……」

「ち、ちち……ちがぅ……」

「ちち? おチチが欲しいの?」と、ニヤけた眼で訊き返すノーア。

「だから、違うのぉぉぉぉ!」

 わたしは叫んだ勢いに乗じて必死に足掻き、何とかノーアの魔の手を振り解き、二、三歩ほど距離を置きます。

 ちょっと油断すると、何されるか判ったものじゃありません。

「ちぃ、逃げられたか。もう、マルちゃんったら照れ屋さんね」

「照れ屋とかじゃなくて、もう……それから、わたしのことは『リズ』と呼んでっていつも言っているのに」

「いいじゃない。だって、ファーストネーム……」

「……お願い、それは言わないで」

 わたしは、懇願するようにノーアに詰め寄ります。

「ごめん、ごめん。でも、『マルちゃん』も可愛いと思うけどなあ、『ミニマルコさん』みたいで」

『ミニマルコさん』というのは、少女向けの絵本に登場する主人公のことで、幼い頃に生き別れになった祖父を訪ねて、三千里もの長い道のりを旅するお話です。

「だからぁ……」

 わたしが頬を膨らませていると、ノーアは口元で両手を合わせる仕草で、

「ごめん、悪かったって。だから、もう機嫌直して。ね、リズちゃん?」

 そう言って右眼を瞑りウィンクします。

 一応、彼女は言えば解ってくれるので、わたしとしても有難いのですが、問題は……

「マルガリータ=リズ=ペンドルァリア!」

 ……そう、空気を読まない人がいるのですよ。

「ちょっと、挨拶なさい。『深紅あか斜塔しゃとう』のマルガリータ!」

 緩い金髪を首のあたりで切りそろえた、釣り上がった青い瞳の少女は、まるで風紀委員よろしく門の内側で仁王立ちになってあの名前を連呼してきます。ちなみに、本物の風紀委員は他にちゃんといますよ。

 わたしは無言のまま、本日最悪の顔を彼女に向けます。

「なんです、その顔は。このワタクシがわざわざ挨拶して差し上げているのに、失礼でなくって?」

 それは挨拶とは言わないと思います。

「まったく、気分悪いったらありませんわね。ワタクシのような優秀な魔学者が、こんな落ち零れなんかに……」

「優秀な魔学者?」

 彼女の言葉が気に障ったのか、隣でノーアが眉をひそめます。そのまま、険しい相貌でエセ風紀委員の少女に近寄っていきました。

「あら、何かしら『蒼穹あお天塔てんとう』のノーア?」

 うう……この険悪な空気は苦手です。

「ふぅ……称号も無いただの魔学生の分際で、よくもそんな恥ずかしいこと言えるわね。ミデア=ネブカ=トゥルエーラ?」

 ぴくっ!

 今、ミデアさん――つまりエセ風紀委員さんの頬の辺りが微かに動くのを見ました。

「そ、そのうち、称号くらい取って見せますわよ!」

 どう聞いても負け惜しみにしか聞こえない台詞を吐くミデアさんは、何とか言い返そうと口をパクパクと動かしています。しかし、ノーアは彼女の言葉を待ってはくれません。

「どうだか。それにしても、面白いこと言ってくれたわね。落ち零れって、誰のことかしらね?」

「あ、アナタに言ったわけではなくってよ!」

「じゃあ誰のことよ。この中でって?」

 ノーアは蒼いマントを翻してそう言うと、マントを羽織っていない彼女の法衣の襟元を鷲掴みしました。はたから見ると、カツアゲしているみたいです。

「ひぃっ!」

 ミデアさんは、今にも泣き出しそうな顔でノーアを見ています。

 こちらから覗くことはできませんが、おそらく今のノーアの顔は……いや、やめとこ。

 思い出すだけで、今夜安眠できなくなりそうなので。

 一方のミデアさんは、もう可哀想としか言いようがありません。顔面蒼白になりながら、奥歯ガタガタいっていますし。泡を吹いて倒れるのも、最早時間の問題でしょう。

「いい、お嬢サマ? あたしのリズはねえ、あんたなんかと違ってやればできる子なの。その証拠に『称号持ち』だし、ただ少し不器用なだけで誰よりも才能ある子なのよ。今度あの子にちょっかい出したら、その生意気な口から永久に言葉をつむげなくしてやるわよ!」

 ドサクサに紛れて「あたしのリズ」とか言ったし。変な誤解を招くから、止めて欲しいなあ。

 でも、ありがと。

 わたしは心の中で、庇ってくれたノーアに感謝します。

 少し、憂鬱な気持ちもありましたが……

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