第33話 責任

「おとっつぁん、何をしているのですか?」

 家の庭でなにやら汗を流している父に、キチは驚いて声を上げた。普段であれば奉公人たちと共に店表で商売に精を出しているはずの父が、日中からこんな奥にいるなど、ただ事ではない。

 しかし父の表情に深刻な様子など微塵も見当たらなかった。父は手の甲で汗を拭うと、砂で汚れた額をさらに汚してにこりと笑った。

「お庭に、祠を建てただろう?」

「ええ、おっかさんが流行り病に罹った直後のことですよね」

 もしかしてお社を大きくするとか、そういうことだろうか。しかしその考えは、父がすぐに否定した。

「祀る神様を変えようと思って」

「えっ?」

 あっさりと、とんでもない言葉を口にする父に、キチは寸の間言葉を失った。何かの聞き間違いかと再度聞き返すも、戻ってくる言葉は変わらない。

「だってさ……。大黒天様をお祀りする社を建てても、おっかさんは助からなかったじゃぁないか」

「おとっつぁん、それは……」

 天命だったのだ。元々母はあまり体が強い方ではなかった。仕方がなかったのだ。そう思うより他ない。それに母を殺めた病は、この町の多くの命を奪っていった。大黒天様のせいにしてしまうのはお門違いというものだ。

 だが、母を心から愛していた父は、それを受け入れることができないでいる。己だって、母がいなくなってとても寂しい。父の気持ちは痛いほど分かる。

「次はねえ、大己貴神様をお祀りしようと思うんだ。知ってるかい? かの御方は日ノ本に医薬を広めたとされる二柱の片方だ。もし次、何か怖い病が広まっても、きっと救ってくださるよ」

「でも、でも、それは大黒天様に失礼なのではないでしょうか。勝手にお祀りしておきながら、あっさりと他の神様に変えるなんて……。そんなこと、して良いのかしら」

「大丈夫だよ。神様たちから見れば、私たちはちっぽけな人間だ。きっと気にしないよ」

「だ、だとしたら、お祀りしても見てくださるかは分からないのではないかしら。たくさんのお人が神様に祈っているんだもの。ちっぽけなお社など、見逃してしまうかもしれないわ」

「大丈夫だよ。神様はすごい御方だから。小さなお社でも見逃さないさ」

 父は一見穏やかだが、こうと決めたら決して曲げない頑固な人でもあった。それでもさすがに神様にまでこうくるとは思わず、どちらかと言えば小心なキチは気が気ではなかった。

「ねえ、おとっつぁん、やっぱり……」

「ねえ、キチ。私はね、この店の皆を愛しているよ。でも、それでもやっぱり、家族は特別なんだ」

 キチの言葉をさえぎって、父が穏やかにそう切り出した。

「家族を、守りたいんだよ」

「ありがとう、おとっつぁん。……きっと神様も分かってくれますよね」

 そんな風に言われれば、こう答えるしかなかった。


「ああ、やはり大己貴神様をお祀りしてよかった」

 夕餉を食べながら、父が満足げにそう言った。

「おとっつぁん、口の端に米粒がついてますよ。子供みたいなことしないでください」

「おや」

 兄の指摘に、父は米粒をぺろりと舐め取ると、照れ笑いをしながら空になった椀にお替りの米を要求した。それを受け取って米をよそう乳母やが、にこにこ微笑みながら父に同意した。

「まったくですね。旦那様の慧眼には、本当に恐れ入ります」

「いやいや、これもすべて神様のおかげさね」

 話題に上っているのは、ここ最近世間を騒がせている火事だ。

 二日と置かずに、周辺のあちこちで明らかに付け火と思われる火事が続いているのだ。だが神様のご利益なのか、火の気は店の関係者らを避けていく。もはや神の奇跡とも思えるほどであった。

 父の笑顔とは対照的に、キチの顔色は曇ったままだ。父や兄ほど、物事を楽観的に考えられるたちではないのだ。

「で、でも、でも、犯人はいったい、どこのどなたなんでしょう」キチは小さく震えた。「何度も何度も、あちこち場所を変えて付け火をするなんて、変です」

 付け火は大罪だ。木造家屋が大半を占めるこの地域では、小さな火事でも数多の命を奪う大惨事になりかねない。見つかれば死罪は免れないだろう。そんな危うい罪を、何度も何度も重ねるだろうか。

 現にあまりの頻度に付け火が起きるから、同心や岡っ引きがあちこち巡回しているのだ。とてもじゃぁないが、まともな人間の仕業とは思えない。

「もし、もしもですよ。怒った大黒天様が罰を与えているのだとしたら?」

 罪のない人を、巻き込んでしまっているのだとしたら?

「これ、キチ。滅多なことを言うもんじゃないよ。大黒天様がそんなに器の小さい御方なはずがないだろう」

「ご、ごめんなさい」

 それでもキチの心配は止まらない。だって、火事はお社を変えた直後に起きたのだ。それも、うちのお店を中心にして、あちこちで猛威を振るっているのだ。

(どうしよう。やっぱり、大黒天様はお怒りなんじゃないかしら)

 父も言っていたが、神にとって人とはあまりに矮小な存在なのだ。そんな存在が、偉大なる神を粗末に扱うことを、本当に許してくれるのだろうか。

 どちらかと言えば、神はキチや父への報復のため、町一つ焼き尽くそうと考えていてもおかしくないのではないか。だって、神にとって人の命など、吹けば飛ぶ紙切れも同然なのだから。

 ぶるりと、キチは身震いした。そして突いただけの膳を残し、「ご馳走様」と呟いた。

「お嬢さん? 具合でも悪いんですか?」

 乳母やが心配して顔を覗き込んでくる。

「大丈夫。お腹が空いていないだけ。

 ……もう寝ます」

 早口にそう吐き捨てると、キチは早々に部屋に戻った。そそくさと寝る支度をし、頭からすっぽりと蒲団をかぶる。

(どうしたらいいんだろう。私に、何ができるだろう)

 目を瞑ると思い出すのは、かつて一度、人ではない何者かに遭遇した記憶だった。

 実は母は己を産んだ時、腹の中にいた己と共に、死にかけたことがあった。

(不思議。生まれる前なのに、昨日のことのように思い出せる)

 あの世へと至る道、生者と死者を分ける境である三途の川。そこに母とキチはいた。母はもう己が死んだものと思っていたようで、しきりにキチに謝っていた。

 そんな母に、「もし」と声がかけられた。キチを抱いたまま三途の川を渡ろうとする母を、呼び止めた男がいたのだ。

 母が足を止めると、その男は優しげに微笑んだ。

――お前さんが行くのは、そっちじゃぁないよ。

 そして彼は反対側、人の世へと母を導いた。

――気を付けて。良い旅を。

 男のその言葉を境に、キチの記憶は途切れている。きっと母が、生き返ったのだろう。

 その経験があったから、キチは他の誰より信心深く、またこの世の不思議を承知していた。そしてその記憶をたどった途端、「あっ」と一つの考えが浮かんだ。

(もしかして……あの時お会いしたあのお方。あのお方が、大黒天様だった……とか?)

 あの優しげな男は、人のような見目であったが、明らかに人ではない。また大黒天様と思しき特徴など何一つ持ってはいなかったが、そもそも彼は、あえてそうしているのではないかと思うくらい、目立つ特徴を持っていなかった。無理くり特徴を述べるとしたら、柔らかそうな藍染めの着物くらいだろう。人間離れした美しさではあったが……人でないのならそれも納得だ。

(なんてこと……。私は、恩人である大黒天様に、ひどい仕打ちをしてしまったのね)

 大黒天様が怒るのも、無理のない話だ。

(ああ、私はなんてことを。私のせいだ。私のせいだ)

 よもや、人の世になどいられない。しかし自死してしまうのもまた、せっかく拾ってもらった命を無駄にするようでいただけない。

(あ。そう、だ……。尼になろう)

 もはやそれしか道は残されていないように思えた。

(尼になって、火事で亡くなった皆を弔おう。大黒天様に謝ろう)

 お優しいあの神様ならば、きっとそれで許してくださるだろう。


 社の奥の奥の奥で、二人の男が向かい合って座っていた。

 片方の男は、まだ十を数えたばかりと思しき少年で、しかし艶やかで若々しい頭髪は、いっそ見事なほどに真っ白だった。年に見合わぬ落ち着きを見せるその少年は、神職を示す衣を軽やかに遊ばせて、ちょこんと正座をしている。

 そしてもう一方の男は、高直そうな藍染の着物を無造作に纏い、胡坐をかいて座り込んでいた。手には神酒さえ携えている。だのにどこか気品すら感じられるのは何故であろうか。

 藍染の男がちょこんと首を傾げ、男にしては少し高い、涼やかな声を響かせた。

「本当に、私が頂いてしまって良いのかい? この酒は大己貴神に供えられたものだろう?」

 問われた少年はわずかに微笑み、答えた。

「大己貴神より、ミツキ様に振舞うようにと仰せつかっておりますので」

「それは嬉しい。大己貴神様も太っ腹なことだ」

 ミツキは心底嬉しそうに酒を舐め、並べられたお菜に手を伸ばした。

「おうい、火鼠。そんな端っこで縮こまってないで、一緒にどうだい? 美味しいよ」

 ようよう目を凝らさないと分からないような隅っこの暗がりに、火鼠の群れが隠れていた。そのうちの一匹が、そろりと光の下まで顔を出す。その火鼠は群れの長であったが、さすがにこの面子で威張り散らせるほど厚顔ではなかった。

「でも、ミツキ様。我らは、本当にこんなところにいて良いので? その……、光栄ではあるのですが、こちらは大己貴神様のお社でしょう? ミツキ様や御使い殿ならいざ知らず、我らのような矮小な妖では……」

「構わないって。私が許すから。ほら、おいで。一緒に飲もう」

 態度からして酒は好きなようだが、もしやそれほど強くはないのだろうか。早くも、ほんの少し赤らんだ顔のミツキが、嬉しそうに酒を掲げた。火鼠とて酒やお菜は大好きだ。ごくりと、仲間の誰かが喉を鳴らす。その気持ちはよく分かる。こんなに豪華でうまそうなお菜、見るのも初めてだ。

 結局のところ、逡巡はほんの短い時だけだった。そもそも我慢は火鼠の性に合わない。ましてやミツキの許可が下りているものだから、案の定その誘惑は、ものの数呼吸で火鼠の我慢の限界を超えた。

「じゃあ、ちょっとだけ」

 ちょっとがもうちょっとになり、もう一声になり、たっぷりになるまで、さして時間はかからなかった。

 やがて御使いまでもがちろりと酒を舐め始める。

 火鼠たちは酒を飲み、羊羹をつまみ、卵を食い、おおいに楽しんだ。それからたっぷり酒が回った脳みそで、ミツキにもたれかかる。

「それにしても、こんな大事な時に、火事を起こすのをやめろと仰るなんて。ミツキ様は意地悪です」

 長の声に合わせて「いじわるですよぅ」「そうです、ひどいです」と他の鼠たちも声を重ねた。

「おや、どうして? 過度に人に迷惑をかけてはいけない。これは別に人間のために決めたことじゃぁなくて、お前さんたちが捕まったりしないようにっていう配慮なんだけどね」

 ミツキは分かっていない。そう言って火鼠はますます口を尖らせる。

「違うんですよう。今、この時に火事を起こすのをやめたら、またあの人間が調子に乗るんですよう」

「人間?」

 ミツキは寸の間酒をあおる手を止めた。それからゆっくり考え、ゆっくり首を傾げた。

「なんで、ここで人の子が出てくるんだい?」

「ひどいんですよ! 聞いてくださいよミツキ様ぁ」

「うんうん、聞くよ」

「せっかく我らが起こした火事を、己の手柄だと、横取りした人間がいるんです!」

「……うん?」

 頷いていたミツキの首が、またしても横に傾く。

「えっと、その人の子は、火事を己の仕業にしたがったのかい?」

 ミツキの問いに、そうだとの答えを返す。ミツキの首はますます曲がった。

「よく分からないねえ」

 きいきい叫ぶ火鼠たちの横から、見かねた様子の御使いが口を挟んだ。

「己の行いが悪いから町に火事が起こるのだ、と勘違いした娘がおりまして」

「……はあ?」

 ミツキの口から呆けたような声が出た。御使いも苦笑している。

「その娘が、今日髪を落としたそうで。ちょうど明日から火鼠が暴れなくなれば、娘は己の行為で町を救えたのだと、ますます納得するでしょうね」

「はあ、なるほどねえ。分かるような、分からないような……」

 ミツキはやれやれと首を振り、一口大にちぎった饅頭を口の中に放り込んだ。

「人の子一人に、一体どれだけの責任があると思っているのかね。たった一人の行いの悪さで、町を巻き込むほどの災害に見舞われるなど、普通に考えておかしいじゃぁないか」

「普通に考える、ということは存外難しいことなのかもしれませんね。

 なんでも彼女は、かつて大黒天様にお会いしたことがあるとか。本当か嘘かは、大黒天様に伺わないとわかりませんが。ちょうど交代だったので、聞く間もありませんでしたから」

「それで、己は特別な存在だと思い込んだっていうのかい?」

「というよりは、神に縁がありながら、神の怒りを買ってしまった己にしか、何とかすることはできないと思い込んだみたいでした」

「このご時世、神でさえ代替がきくというのに? 何にも代えがたい存在など、果たしてこの世のどこぞにあるのかな」

 ミツキのその言葉に、御使いは何とも言えない微妙な表情を返した。

「けど……まあ、本人が満足なら、それでいいんじゃないのかな」

 ミツキは薄情にもそう言った。だから火鼠はきちんと反論せねばならなかった。

「良くありませんよう。あれは我らの手柄です!」

「まあまあ」

 泣きべそで大声を張る火鼠をなだめながら、ミツキは火鼠にまた酒を勧めた。

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豊葦原の旅の話 佐倉 杏 @an_s

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