飴と傘

myz

飴と傘

 傘立ては絶体使わないようにしてるんです。


 大きなお店とかだと、傘をビニールに包んでくれる器械がありますよね? その袋を捨てずに取っておいて、繰り返し使ったりなんかして……傘は必ず建物の中でも手離さないようにしてます。

 なんで? ですか……それは、まあ……信じてもらえないかもしれないんですけど、


 前、こんなことがあったんです。


 この街って、雨が多いじゃないですか。

 朝、空を見て、薄曇りの、降るかな、降らないかな、って空模様の時は、必ず降るんです。私は小さい頃からここで暮らしてますけど、一度だって降らずに済んだことはないんです。

 そういえば、どちらのご出身ですか……そうですか、それはまあ、遠いところから……。

 びっくりされたんじゃないですか? 雨ばかり降って。……そうですよね。……まあ。この街に来てから、生まれて初めて傘を盗まれた? それはお気の毒さまです……そうなんです、この街の人間の悪い所は、置いてある傘は自由に持っていっていいと思っていることです。私も何度もやられました。

 だから気をつけてたんです。テープで自分の名前を貼ったりして、少しでも盗む気がしなくなるようにって。でも、無駄でした。

 その時も、図書館でちょっと本を選んでる間に私の傘は無くなってたんです。

 ちょうど、さっき言ったような空模様の日で、いつ降り出してもおかしくない感じでした。空一面に薄曇りの灰色がぴんと張り詰めています。

 家までは歩いて十分ぐらいでした。一番安全なのは、大急ぎでコンビニに寄って傘を買うことなんですけど、家にはもう、そうやって買ったビニール傘が何本もあるんです。それをまた増やすのも億劫ですし、それにそうすると、なんだか傘を盗んでいった人に負けたみたいで、悔しいじゃないですか?

 私はそのまま走って帰ることに決めました。

 でも、そうすると、やっぱり駄目ですね。半分もいかないうちに、ばらばらっと来たんです、雨が。

 私は後悔しました。コンビニはもう通り過ぎてしまっています。せめてもう少し図書館で空の様子を見ていればよかった、と思いました。

 でも、幸いなことに、ちょうど近くに地下道があったんです。

 入り口には厚いコンクリートの庇が張り出しています。私は一目散にそこに走り込みました。

 このまま屋根のあるところを通って家まで帰れたらいいんですけれど、残念ながらそこまで都合よくはありません。地下道を進むと家とは反対方向に出てしまいます。

 それでも、雨を凌げる場所があっただけ良かったです。

 雨はあっという間に、ざあざあと土砂降りになっていました。私はしばらく雨宿りすることにして、庇の下で、ぼんやりとそれを眺めていました。

 そんな天気で、街を歩いている人はいませんでした。

 細かい水滴の幕を透して、街全体がぼんやりと煙って見えます。

 ですから、その人がいったいいつ近付いてきたのか、私には分かりませんでした。

 ふと気づくと、庇の下のすぐ外側、目の前に、人が立っていたんです。

 男の人、だと思いました。

 大きな黒い蝙蝠傘を雨に打たせながら、地下道に入ってくるのでもなく、じっと立ち尽くしています。

 不気味でした。

 コートを襟を立てて着込んでいて、山高帽を被っています。雨の日なのにサングラスをかけていました。

 じっとこちらを向いて黙っています。

 私は不審に思って、「あ、あの」と、おそるおそるその男の人に話しかけました。「なにかご用ですか……」

 するとその男の人は、角ばった顎をもごもごと蠢かせて、くぐもった声でなにか問いかけてきます。

 「なんですか?」聞き取れなくて問い直すと、男の人は同じ言葉を繰り返したようでした。

「飴玉、いる?」

 今度はわたしにもその言葉が聞き取れました。

「飴玉、いる?」

 そう、繰り返しているんです。

 そういえば、もごもごした口の動きは、飴玉を口の中で転がしているときの動きだ、と私は気づきました。

「飴玉、いる?」

 くぐもった声で繰り返しながら、男の人が傘を握っていないもう片方の手をこちらに差し出してきます。

 「えっと、あの、困ります」見知らぬ怪しい人物から飴玉を貰うなんて、私には考えられませんでした。私は断ろうとしました。

 断ろうと、したんです。

 ……人間、本当に怖ろしい時、声が出ないんですね。

 「ぃ――っ」男の人が握っていた物を見た瞬間、私は声にならない悲鳴を漏らしながら、地下道の階段に飛び込みました。

 そのまま地下の通路を駆け抜け、反対側に飛び出して、私は一心不乱に走り続けました。

 雨は止んでいました。あんなに激しく降っていた雨が、私が地下通路を駆け抜ける短い間に、すっかり止んでいたのです。

 悪い夢でも見ていたんじゃないかって今では思うんですが、それから私は傘を絶対失くさないようにしてるんです。

 もう二度とあれと遭わなくて済むように。

 あの時、あれと眼が合いました。

 男の人の手の中で、虚ろに私のことを見つめ返す血走った眼球。

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