デミイ・ルルグ

安良巻祐介

 

「1《アン》・2《トウ》・3《シユリイ》……」

 そう言いながら彼は、黒檀色の袖先から、真っ白い手袋をはめた手を覗かすと、ギュッ、パッと開いて、球のようなものをいくつか出して見せた。

 そのままふいと放すと、掌の上に、大小まちまちな銀の球が、とぶん、とぶん、と浮く。

 部屋の粗末な蛍光灯のもとで、水銀を丸めたようなそれらは、じくじくぎらぎらと凄まじい色で輝いた。おれは目を剥いて見つめた。

「これが我々でいふところのいはゆる涙であります。断つて置いたとほりに間に合わせの品で胡麻化した合成ですからして、非常に粗製です」

 唇の片っぽうを歪めて(ヌッと長い口端から白い頬にかけて、思った以上に深い皺がクッキリ刻まれて少しギョッとした)、彼は言った。

 なるべく見ないように努めていたが、彼の黒服の下から、毛深い山羊の足が出ていて、時おりカツカツと蹴爪を鳴らしている。

「見る限り比重に随分むらがあるようだが」

 辛うじてそう告げると、

「其れは我慢頂かねばなりません。何せ吊るし上げ濾過法の応用です。不純物も多いのですから、偏重しやすいのは已むないことで。……」

「ウム……」

 頷きながら、おれは白墨で描いた矩形の陣から靴先が誤って出ぬように注意した。話をしながらも、彼は火のような両眼で、常におれの足元をいやらしく舐めまわしているのだ。

「毒性は折り紙つきです。くれぐれも……」

「無論だ。イヤ、そうでなくては意味がない」

 おれは澱みなく答えつつ、如何にも血肌を粟立たせそうな、その水銀のカタマリを口に入れてみた時のことを考えて、ひたすらぞくぞくした。

「然しよろしいので」

 もう何度投げてきたか判らぬ問いを、そいつは今一度繰り返す。

「我々の溜めた『涙』とは、意味も希薄な、ただ銀色であるばかりの現象。呑めば最早人とは呼べなくなりますが」

「くどい」

 もうおれの頭の中は、不純で粗製なこの物質を呑み下し、内側からそれによって溶かされ、血反吐を吐き尽し、液体と固体の合いの子のような姿になっているおのれの姿でイッパイだった。爛れた銀の皮膚を、背のまちまちな瓦斯燈にどろどろと反射させながら、ため息のような霧の降る夜の街の、メーン・ストリートを徘徊する……おぞましい。気味が悪い。悪夢だ。まったく悪夢だ。肉体の内と外とが仲良く溶け合って……境界が曖昧になった……本当の「正直者」。滴り落ちる毒の精、おのめく銀の声、凱歌を上げる廃棄物の具象。そういうものに、おれはなりたい。

 矛盾が芸術を肉付けする。タブウの組み合わせが、腑抜けた魂魄を虹と彩る。あらゆる珍味の中で、毒こそが最も美味な事物だ。何と素晴らしいことか……。

 はっと気付けば悪魔は――おれの呼びだした、〈癲狂院の鐘楼突き〉ことデミイ・ルルグは――どこから取り出したのだか、鉱石パイプを咥えて星色の煙をパッパとくゆらしながら、ニヤニヤ笑っていた。

「奇特なお人で。だうやら貴方の魂を取るのは無理なやうだが、それ以上に面白いことになりさうだ」

 とぼん……とぼん……と浮かんでいる銀の涙に顔を近づけ、おれは夢見心地で悪魔の言葉を聞く。

「たしかにこの黒一色の町景色には、銀色の絵の具が一刷けあればずつと美しいですが、まさかまさか、ご自分で其の絵の具にならうとは。……」

 悪魔の言っているのが世辞でもそうでなくとも、もはやどちらでもいい。

「1《アン》・2《トウ》・3《シユリイ》……」

 ウットリと、今まさに銀のかたまりを口に入れようとするおれの視界の端で、悪魔はニヤニヤ笑いをたたえたまま、パチンパチンと指を打ち鳴らし続けた。

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デミイ・ルルグ 安良巻祐介 @aramaki88

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