さよなら初恋

かいHけいじゅうろう

第1話



 父が母と別れたのは私が七つの時でした。その時の父は、努めて私に微笑みかけましたが、物悲しげで、今思うにそれには諦感と虚脱が多分に含まれていたのでした。

 父はそんなことは一言も言いませんでしたが、原因は恐らく母の浮気かと思います。彼女からはいつでも女の匂いがしていました。女の匂いということは、転じて男の匂いということでした。私からして彼女には母という役目は向かなかったと思います。

 ですから正直なところ、当時の幼い私ですら彼女が家を出ていくことに然程の違和感も動揺も覚えませんでした。

 そしてそれは父も同じだったのだと思います。父も、殆ど諦めはついていたのでしょう。あるいはただ私の為に、父からは母を責めなかったのかもしれません。幼い娘から女親を奪うのが忍びないばかりに。

 けれども自ら家を捨てていく女を、無理に引き留める程のことはないのだと父も、いよいよきっと思ったのだと。


 私の初恋は父の友人がその相手でした。

 私が九つの頃父は三十路を三つ四つ越したところで、父の友人は、父の一つ歳上でした。そう、当時父はあの人を先輩と呼んでいました。それを真似た私もまた、その頃我が家を訪うようになった彼を先輩と呼びました。それを聞くたび彼らは随分楽しそうに笑うので、それが私も嬉しいのでした。

 彼の随分小さな後輩が出来たなと笑う声は低く色艶良く耳に響き、私はそれをこころなし陶然と聞くのでした。彼が家を訪うと父が嬉しげなのもあって、私は彼を好いていたのです。そして父もあの人も、こと父にあっては手前味噌ではありますが、見目の良い人たちで、その二人の並んで立つのがどこか喜ばしいとも思われました。

 私の大事な父に優しく、私に優しく、見目の良い男が身近にあって、それは当然のように私の初恋となったのでした。


 それから、そんな日々が割合穏やかに二年近くも過ぎて、私の初恋は終わるのでした。ええ、それは、寒い日でした。誰がそれを忘れられるでしょうか。まだ雪は降らないながら寒い日でした。


 彼は、先輩は、私の父の腕を掴んで、その日珍しく彼らは口論していました、特に珍しく声を大きくする父の腕を掴んで、彼は私に、父を自分にくれと言うのでした。それをどうか許してくれと私に言うのでした。


 ああなんてことだろうか。私は黙って瞠目しながら思いました。


 この男は、この、そう男なのです、ですからまさか、私から父を奪って行くなどとは少しも思わなかった。

 その時私は、誰より私を愚かしいと罵りたくなりました。なんてことだろう、まさか、よりによって私から父を奪う男を慕うだなんて!


 腕を掴まれたままに、弱い抵抗をする父の目尻は赤く、しかしこの男に恐怖するというよりは、黙ったまま表情も変え得ぬ私の返事をこそ恐れていました。そう感じました。


 何が父をくれでしょう。もう父は奪われているではありませんか。

 何が許してくれでしょう。

 私が、ここで許すのは、この人だけではなく父もではありませんか。

 私がここで許さないといって、許されないのは、そう思うのは、むしろ父ではありませんか。


 なんてこと、なんて卑怯な男だ。狡猾な男だ。意図的でないなんてそんなこと、聞くつもりはありません、そしてきっと実際違う。ああ、私はなんて愚かしいんだろう。

 私が愛する父を、許さない筈がないではありませんか。




 憎らしい事にこの人は、私が中学に入り一つ学年の上がった今に至って尚、父の隣を陣取っています。

 あまつさえ今や我が家に一緒に住んでなぞいるこの人を、父が幸せそうであることと、一応は私に遠慮して父を全くに独占するのは我慢しているので、仕方なし許してやるのです。

 ですから私が少々、姑ないし小姑のようにこの人を苛めてやったって、それも仕方のないことなのです。

 父の幸せな内は、苛めてやるだけで許してやろうと思うのです。


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