父は二階に住んでいる
安良巻祐介
父は二階に住んでいる。幼い頃からそうだった。
二階の自分の部屋で、ずっと自分の仕事をしているのだと言い聞かされてきた。
何か変だなと思ったのはいつの頃だったか、今ではもう記憶があいまいだが、小学校に上がる辺りには、わが家の異常性というか、おかしな点にもう自分でもうっすら気づいていたように思う。父は二階から降りてこない。二階を歩き回る足音や、何かものを動かすなどの音は聞こえてくるのだが、家の端に据えられた階段の向こうから、父の足音が下ってくることはない。そして、僕たちも二階へは上がった事がない。誰に禁止されたわけでなく、いつの間にか、そうなっていた。
家事のみならず家にまつわるごたごたした物事はすべて母がやっていて、父はそういうようなことにはまったく介入しかった。
母は普段あまり父の話をしなかった。と思えば、日々のふとした時に、そういえばお父さんがね、と僕が聞き流してしまうような些末なことを呟いたりした。そう、あまりにも些細で、印象の薄いこと。今思えば、母のそんな呟きに、耳を傾ければよかったかもしれない。
僕たちは一階で寝起きし、一階から学校へ行き、一階で母と食事をした。凡庸な種明かし、そう僕たちは実際は母子家庭であったのではないかという疑念、しかしそうではなかった。僕たちはその手の支援金を受けなかったし、学校や役所でそういう扱いをされたこともない。家のことに介入はしなくても、僕たちが食っていけているのは父の収入のおかげだということは、はっきりしていた。父が仕事をしているから、僕たち家族は食べていけていたのだ。不可思議に思うようになってからも、そのことを詳しく話し合うことはできなかった。
父は二階にいて、僕たちは一階。結局、これだけが唯一守られる絶対の決まりであって、それ以外のことは何もわからなかった。それは確かに異常ではあったが、平凡に見えるあらゆる家庭がそれぞれどこかしらに持っている歪な部分の一つに過ぎない、そうやって納得していたように思う。
母は死ぬ時、布団の上で天井を眺めて、父の名を呼んだ。そう、呼んだ気がする。その名前がどんな名前だったか、覚えていないけれど。
そしてそれからまた何十年かが過ぎて、僕もこの家の一階の畳の上で死んでいこうとしている。
父は最後まで僕を養ってくれた。今見上げる天井には、父の昔から変わらない足音が何も変わらないまま響いている。
父は仕事をしている。
父は二階にいる。
僕はその下にいる。
ここが地上だとしたら、父は天の上にずっといたのかもしれない。
いや、或いは、父のいる場所こそが地上で、僕たちはずっと地下の、地獄の国で父に飼われていたのかもしれない。
まっくらに閉じていく視界の中で、僕は、そんなことを考えていた。
父は二階に住んでいる 安良巻祐介 @aramaki88
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