第12話 波

 黒い波が森に向けて迫っている。

 魔獣が群れを成す。

 北の山脈より押し寄せる。

 目指すは人間の国。

 時代は少しだけ荒れようとしていた。


 ◆ ◆ ◆


「淵、この樹海に迫る全ての魔人、魔物の命を魂を奪え」


 淵に下された命令はたったのそれだけだった。

 それだけで淵には十分だった。


 それだけで淵は全てをこなせる。

 淵にとってはそれ以外には何もいらない。


 それだけで全て壊せる――



「オマエ何者ダ――」


 緑色の肌をもつ魔人はほんの一瞬だけ襲撃者を捉えることができた。

 それは幸運と言って良いのかもしれない。

 この魔人は人間の軍隊で言うところの指揮官に相当する地位を持っている。それゆえに樹海への進軍を行っている最中においても、魔獣の進撃するかなり後方、軍を俯瞰できる丘の上にて軍の様子を見ていた。


 この魔人が見たのは自分が率いていたはずの部隊が樹海から流れてくる黒い水のようなものに飲み込まれ消えていく姿。その黒い水が敵からの攻撃と分かったのは飲み込まれていく魔獣や魔人たちが二度と水の中から這い出てくることがなかったからだ。悲鳴を上げることもできずに飲み込まれていく魔人や魔獣たちとは違い離れた場所でこの指揮官だけは襲撃者の顔をしっかりと把握できた。

 襲撃者は波そのものだった。

 黒い水は指揮官には黒い津波に錯覚させるような勢いで――海に近くない樹海の中で津波に襲われるというのもなかなかに稀有なことだが――迫り、その津波が意志を持つようにうねり曲がり、低地から高所へと昇り上がり、逃惑うという選択を取るよりも速くに指揮官の目の前を壁の様に覆ったとき、はっきりと指揮官は目撃した。


『彼岸淵、ただの悪魔です』


 黒い水から浮かび上がる人間の姿に形どられた女を。


 ◆ ◆ ◆


 質が悪い。

 千と二十二体の生物から魂を吸収し終えた淵が抱く感想はそんなところだった。

 この場合の質とは魂を燃料として見た場合の効率、魂の大きさともいえる。魂には味も触感も存在しないが一つ一つでその大きさが変わってくる。鼠よりも象の方が魂は大きく燃料としても効率がいい。ただ、単純に体格が大きい生物程魂が大きいわけでもなく、象よりも人間の方が魂が大きい場合もあるし、鼠が人間を凌駕する魂を持つ場合もある。条件や理由は不明だが、おおよそ生命力や運命に抗う力が強大であるものほど魂の質(淵の基準)は良いと言える。大抵、強大な力を持つ者は魂の質が良く、長年生き延びている生物程一個体あたりの魂が大きく、超自然的な悪魔や天使や神などの存在の魂の質は人間などとは比べられないほどに良い。

 質が悪い、というのは個体あたりの魂が元居た世界の平均的な人間の魂と比べて悪いということであり、流石に鼠や虫けらよりはずっといい。ただ、これでは淵が想定していたよりも燃料(魂)を集められない。


「少し、考えを改める必要がありそうですね」


 淵は大樹の上に静かに佇みながら樹海の様子を眺めていた。樹海の北側、人間の領域と魔人たちの領域を隔てるように連なる山脈からぞろぞろと魔獣なり魔人なりの群れが樹海へと向かっている。

 どうやら魔人が魔獣を飼いならして軍隊を形成している。淵は百キロは離れている場所の魔人の軍――人間たちは魔王軍と呼んでいる――の様子を見ていた。マリーゴールド・グレイからの情報によればこの樹海を通り人間の街に進攻しようとしているらしい。どうにも樹海の外にある平原にて人間どもと戦争するらしい。樹海に人間は入り込まないということを逆手にとって樹海側から攻めこもうとしようとしているらしい。人間たちもその動きに徐々に気が付き始めたらしく樹海付近から現れる魔獣たちに警戒して斥候――冒険者たちを放っているのだとか。

 魔人や人間たちの動向は淵にとっては酷くどうでもいいことだが、戦争自体は淵にとってそう悪いことではない。燃料がタダで手に入るようなものなのだから。しかし、主であるクロハ・グレイが巻き込まれる事態は回避したかった。


 クロハの考えと淵の思考は異なる。クロハは魔人と人間の戦争の余波による被害を抑えようとして淵にオーダーを下したようだが、淵にとっては戦争の被害などどうでもいい。アマゾネスが何人死んだところで淵にとって損失はない。淵が今こうして樹海に攻め込む魔人の軍を殲滅しているのも主人を守りながら自分の燃料を補給できるからに過ぎない。


 もっとも、クロハが淵の思考を知らないわけではない。そして、淵もクロハが自分の思考を大方見抜いていることを分かっている。


 主人に思考を見抜かれることは淵にとって歓喜する事柄だが――実際に淵は歓喜してクロハの見ていないところで小躍りしているほど――クロハは淵の思考を知っていてなお自分の考え、ワンダの民を守るようにとは命令しなかった。


 いや、恐らくマリーゴールドという姉がいなかったらクロハは守ることすらしなかったのではないかと、淵は思う。

 クロハと一体化している淵はクロハの心内環境を十全に把握している。把握しているだけで理解している訳ではないが。クロハがワンダに対して実のところ全くもって恨みや憎みを感じていないことも淵には分かっている。追放されたことも、蔑まれたことも、禍根になっていない。 精々、女帝に絡まれたことを面倒だと思っていることくらいか。ワンダへの思い入れも家族や師匠、また追放された後に助けてくれた数人のアマゾネス以外には特にないようで、ワンダを助けようとは一切思っていない。

 擁護する気がない。ワンダの常識に慣れてしまい半分ほど戦闘狂じみた発想が半分ほど染みついていることも相まって、降りかかる火の粉を払えない方が悪いと思っていることを除いても、クロハは必要以上に人助けをしないと決めているのを淵は知っている。都木萩のときと変わらず。彼は事なかれ主義。何もないことを望む。己の無力さを知っているから、邪魔をしないように、日々をただ淡々と暮らすことを望んで――


 ――などということはない。


 不明の悪魔にしてすべての理不尽の根源である彼岸淵主人である都木萩――もといクロハ・グレイがそんなありふれた一般人のような考えをしているわけがない。


 淵は知っている。

 自分の主の本当の願いを。


「魂を燃料とし戦うよりも、肉体に含まれる魔力をそのまま流用し、魔術を行使した方が余程効率がいい。この世界は魔力が満ち溢れているから、魔術を使う方が却ってロスがない。あちらの世界では魔力を集めるのも一苦労でしたから。これが世界観の違いですか」


淵は願う。 

主の願いが叶うことを。


「肉体に含まれる魔力量に比べて魂が貧弱。あちらの世界では魔力を保有するために魂の容量が大きい必要があったというのに。デタラメですね。まあ、相も変わらずこの世界に生まれ直した我が主もまた魔力を持ち得ていないので、全てのものに適用されるとは限らないのでしょうが。あれほどの魂を持つ主が常人と同じように魔力を持ち得るというのもおかしな話かもしれませんが」


 クロハの願いはただ一つ、『終焉』。


「では、残りも平らげるとしましょう。全ては我が主のために」


 純粋無垢に、ずっと昔から彼は願い続けている。

 世界が滅びますように、と――



 ◆ ◆ ◆


 マリーゴールド・グレイは少しだけ後悔をしていた。もっと早くにクロハに会いに来れば良かったと。


 タイミングとしては今が一番良いということは分かっている。人間と魔人たちが争い始め、ワンダの領域であるこの樹海に侵入し、戦力が分散するこのときが狙い目だと。

 ただ、愛しい弟に会いに行くだけならばもっと早くに来てもよかったのだ。

 一年間はクロハの隠蔽により彼を見つけることすらできなかったため、その一年のロスは仕方ないとはいえ、流石に時間をかけすぎたとマリーゴールドは思う。通算五年間の空白が出来たわけだ。

 空白が出来てしまったのには理由がいくつかある。例えば、魔術結社を組織するのに時間が思いの外かかったことなど。しかし、今思えばそれらのことはあまり重要ではなかった、とマリーゴールドは考え直す。1も2もなくクロハに会いに行くべきだった、と反省する。


 臆したのである。クロハに会うことに。


 彼女はクロハが村を出て直ぐに行方を眩まし、家族にすら言伝てもなく消えたことをクロハの家族に対する拒絶だと受け取ってしまっていた。

 事実としては、間違っていない。クロハはワンダ全てを拒絶していたのだから。村を追い出されれば近寄りたくもなくなるのは道理である。

 しかし、家族にすら頼らないのはいくらワンダという戦闘民族であったとしても薄情であると言えた。クロハはあまり家族に頼らない性格であったのはマリーゴールドも知っている。だとしても、と思わなくもない。

 が、原因も原因だった。先に拒絶したのは村の方だ。

 あの時庇えなかったことをマリーゴールドは死ぬほど後悔している。今でも憤りを覚え、どうしようもなく自分を許せなくなる。

 クロハを必死で村に引き留めようとして、村中全て――家族も含めて――敵に回して、それでも力足りずに敗れて、クロハは消えた。

マリーゴールドは無力を実感した。自分が何もできない小娘だと分かった。

 強くなければならない。

 ワンダの思想をマリーゴールドは憎むことはなくむしろ受け入れた。

 どれだけ努力しても強くなければ意味がないことも理解した。

 クロハを救うために強さが必要だと考えた。



 ――言い訳だった。


 マリーゴールドは自嘲する。

 

 結局会いに行くのが怖かっただけだと。

 何よりも未だにクロハに聞けずにいる。


 自分達を恨んでいないか、と。


「グリーン・グリーン、お前のオーダーを変更する。ワンダの連中はもう相手にするな。彼岸淵に巻き込まれないように魔人と人間を拉致ってこい」


 そんなことを尋ねて何になるのか。

 何にもならないことくらいマリーゴールドは分かっている。


「はー、まあ戦闘民族を相手にするよりはマシっすかね。何人くらい必要で?」


「数は多くなくていい。戦力になりそうで有能なやつ」


「はいよ」


「あとできるだけ美人を連れてこい」


「戦場に美人なんているんすかね?」


「赤の国には『破砕の魔女』っ呼ばれている美人の魔術師がいるらしいし、『金剛姫』とかいう女の将軍が紫の皇国で台頭している。案外、美女も戦場に出てくるものよ」


「美人さんが戦う必要なんてあるんすかねー。美しいってだけで生きていけると思うんすけど」


「暇をもて余しているんじゃない?どうせ大きな野望も果てしない夢も懐いてないわよ」


「よくわかんないっすよ、そういうの。平和に飯を食って、平和に暮らすのが一番じゃないすかね」


「それが出来ない人間もいるのよ」


 ――弟みたいに、とは彼女は言わなかった。

 境遇、才能、運命、或いは人格。

 放浪し五年間人を見続けてきたマリーゴールドは自身の弟の異常さを改めて知った。

 弟は劇物である。世界すらも溶かしてしまいそうな劇毒。


 マリーゴールドは怖かった。弟に再び会うのがとてもとても怖かった。


 ともすればなんの理由もなく弟に殺されてしまうかもしれない。


 そう、思えるほどにクロハに恐怖している。


 別に実の弟に殺されるのは問題ではない。十歳のときに樹海に追放しているのだ。恨まれて当たり前、殺されて当たり前。


 最終的にはクロハに殺されるつもりでいた。

 いや、今も変わらずマリーゴールドは殺される覚悟を持っている。


 恨まれて、憎まれて、そうして弟に殺されるのは別にいい。


 だけども、何も思われず、ただ敵として、作業のように殺されるのだけは嫌だった。


 何もない弟だった。

 夢も、欲望も、ともすれば生きる気力すらなかったかのように思える。


 そんな弟だからこそ何も感じず、何も思わず、殺すのだろう。

 実の姉を。

 邪魔だからとか、いらないからとか、そんな理由で殺される。


 溺愛する最愛の弟に、何の感慨もなく虫を潰すように殺される。


『まあ、そんな弟がとっても可愛いのだけれども』


「――で、そいつらは殺さないんで?」


 グリーン・グリーンは倒れ伏せる数人のワンダの戦士の上に座るマリゴールドに言った。


「別に殺す理由がないわ。恨みも特にないし、それに使えるかもしれないから」


 彼女たちは狩猟をしつつ樹海を哨戒していたワンダの戦士たちであり、たまたまマリーゴールドを見つけてしまったに過ぎない。奇しくも五年前に半殺しにしたメンバーでもあるが。


「本格的にワンダも動き始めているみたいね。察知能力は馬鹿みたいに高いから予想はしていたけれど。ま、女帝が動き出してからが本番だけども」


 ん~、と伸びをしながらマリゴールドは言う。

 もともと大戦士以上の実力があるマリーゴールドであり、五年前でも無傷でボコボコにしているのだから実力差は明らかである。それでも、息一つ乱さず十秒もたたずになぎ倒しているのは彼女の隔絶された強さを物語っていた。


「……いいんですか?弟さんについていかなくても」


「うーん、まあ少ししたら様子見に行くけど問題ないんじゃないの?ワンダにお前みたいな魔術師は基本いないし、女帝ぐらいならどうにかできそうだったし」


「でも、そんなに近接戦が得意なようにも見えませんでしたけど」


「近接戦はしないんじゃない?知らないけど。まあ、クロハちゃんが真っ当に戦ったことなんてないから大丈夫だと思うよ」


 さて、クロハちゃん好みの美少女でも見つけに行きますか、とマリーゴールドは立ち上がった。


 その蕩けるような笑みを見てグリーン・グリーンは戦いた。

 ああ、ろくでもないことを考えているなと。



 ◆ ◆ ◆


「――で、久しぶりにこの場所に来たわけだけど、何をするつもりなんだい?」


「人を待っているんだよ、春。恐らく君に出会ったこの場所なら。見つけられる人なら見つけられるからね」


 波が起こる。

 魂の舞う波が。

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