第8話 全ての不条理の根源

 彼岸淵は珍しいことに油断していた。

 うつらうつらと自身の主人が舟を漕ぐ姿を見て微笑み、このありふれた瞬間の尊さを切に実感していたのだ。

 油断していた、とは言っても人間と悪魔ではその感覚は違う。少なくとも淵は推しアイドルとの握手会に参加したオタクのような高揚を胸の内に携え自信の主人である都木萩――もといクロハ・グレイの寝顔を見ながら、彼女の体の一部である説明不可な粒子を半径二千四百キロメートルの範囲――面積にして千八百万キロメートル――に散布しオンタイムで情報を収集し索敵を行っているのである。弾道ミサイルだろうともステルス戦闘機だろうとも呼吸と同じように処理してしまう淵にとって警戒すべきは科学の枠組みを外れている超自然的技術、例えば魔術や異能と呼ばれるものになる。しかし淵だからこそ断言する。超自然的技術を完全に防ぐことは不可能だと。淵は既に一度やらかしているし、単純に淵よりも術の扱いに長けているはずの都木萩の祖母である都木野花でさえ自身の孫を殺されているのだから尚更、ただの悪魔でしかない淵が四六時中何時如何なる場所であろうともクロハを守れるわけではない。


 淵にできることと言えば害意を持つ者を文字通り跡形もなく魂すらも残さず消し去ることだけなのだ。


 当然、護衛はする。完璧に守れないことは百も承知。ただ、自身の主人は直ぐに殺されないことに特化している――延命に長けている人物であることを淵は知っている。死んでさえいなければ、いくらでも助けられる見込みはある。淵の主人もそれを分かっているからこその立ち回りを学んでいるし、一分延命できれば確実に助けれると淵は粛々と述べたことすらある。

 

「――異世界創造、或いは限定的な世界との断絶。どちらにせよ物理的、魔術的要素で探知は不可能」


 目の前で、いやクロハと融合をしている淵にとっては身の傍(それも分子結合とかそういったレベルの近さ)でクロハが消えたことを理解するのと、驚愕を後悔を不安を羞恥を激昂を焦燥を全て押し殺し人間が新聞のクロスワードを解くとき並みの冷静さを保つのと、クロハと融合したときクロハの魂に流し込んだ自身の魂の破片からクロハの位置を――物理的に次元が違う場所は位置と呼んでいいのかは不明だが他に表しようもないので位置と呼称する――特定するのはほぼ同時だった。


「どうにも、結界とは違う仕組みのようですね。まさかさも当然のように次元を隔てるとは。流石異世界とでもいうべきでしょうか? あちらの世界とは随分と違う」


 淵は淡々と感想を述べた。

 献立を呟く主婦と同じくらい素っ気なく、機械音声と変わらない抑揚の籠っていない声でありながらも、淵の胸中に渦巻く感情は常に核融合が行われてるように激しい感情が暴発している。太陽のようにある一定の距離を保てばそれは恩恵をもたらすのかもしれないが、近づきすぎれば焼きただれるでは済まない。こと主人のこととなれば冷静さを保ちながらも激情が渦巻くのは淵のいつものことであり、彼女の主を除いてその激情の対象になった者は影も形も――場合によっては名前や存在、過去さえ消し去られている。


都木萩を穿った狙撃手の末路を誰も掴めていないのはそこに狙撃手がいたという情報以外のすべてを淵が消し去ったからにすぎない。

――お陰であの事件は暫くの間収集が着かないことになるのだが。


「何を言っているのかはよくわかんないけれど、その慌てようから察するに彼が唐突に消えたのは少なくとも悪魔ちゃんがしでかしたことじゃないってことかな?」

  

 声の主の方に漸く淵は視線を向けた。

 

 猩々の風貌を象ったように白い装束に笑みを浮かべた赤い仮面をつけ、色鮮やかな緋色の長髪を地面につくすれすれまで伸ばしている。恐らく仮面の下は美女なのだろうと容易に想像ができる程に声は清らかで艶やか、スラリとした長身に装束から覗かせる腕は白魚のように透き通った白い肌を見せ、何よりも纏わせる雰囲気が見ただけで圧倒する神秘を放つ。しかしながら、髪は結われておらず手入れもされていないようにボサボサと伸ばされ、立ち振る舞いは粗暴で、履物を履いておらず、爪は伸びており、美人な野生児と称するのがもっとも適している。


 淵は珍しいことにこの淵の主が契約を結ぶために名前を付けようとしていた神に近しい怪物に所感を抱いていた。

 こいつは彼岸淵の――名もなき、性別も姿形も曖昧な悪魔の反対側に位置する存在だと。

 鏡合わせに近い。似ているところは名前がないぐらいなもので、それ以外はびっくりするぐらい似ていない。正反対だ。

 姿かたちは固定され、理性的な淵と反対に情に溢れ、纏う衣も白く、野性味の塊のような容姿に神秘的な雰囲気、浅ましくも主に契約を乞う姿。似ているところを探す方が難しい。


 『ああ、いや髪の色は同じく赤か』、ととぼけたように思い至る淵の様子は彼女の主が見たら『漸く淵もユーモアがわかるようになってきたんだね』と真顔で喜ぶこと間違いない。


 その正反対な怪物への淵の感想はただ一つ――“醜い”だ。


「…………。」


「おっと、だんまりはよしてくれよ。ボクも悪魔ちゃんも言葉を発せずして意思疎通ができるんだろうけど。ええっと、あの、そのせっかくだし会話しよう会話!! お話すれば、ほら、仲良くなれるかもだし!!」


 だんまりを決め込む淵にどこか怖気ついたかのような様子で話し込む正反対の怪物に対し淵は『コミュ障かこいつ』と自分のことを棚に上げた内心を隠し通せていないことを知りながらも心に浮かべる。淵と遜色変わりない程度に力のある正反対の怪物は淵の内心を見たくなくても見てしまい、メンタルが弱いことも相まってよりいっそうタジタジし始める。


「……不遜にも我が主との契約を懇願するのならば話などする前に行動を起こすべきでは?」


 淵が口にしたのは淵らしからぬ感情を言葉に詰めて唾棄したように吐き出したものだった。

 前いた世界では、淵の主の前世では決して漏れることのなかった言葉。

 他者に在り方を説くなど淵はしたことがない。

 

 淵は変貌している。

 

 もっとも、よい方向に変わったかどうかは彼女のみ知ること。


「へえ、何となく気が付いていたけど、やっぱり悪魔ちゃんってあの子のことが大好きなんだね。うんうん、わかるよー。ずっと悪魔ちゃんは彼のことばっかり考えてるもんね。いいなー、ずるいなー、羨ましいなー。ボクも早く契約して悪魔ちゃんみたいになりたんだよね。ボクも悪魔ちゃんみたいに全てを預けられるほど信頼されたいよ」


 淵の抱く心中とはまるで真逆のようにクロハの身を一切案じることなく、能天気にも思えるように正反対の怪物は淵の鼻先にまで顔を近づけて言う。


「随分と楽観的ですね」


 我が主とコイツが契約する。

 淵にはその事実が耐えられない程度には激昂していた。

 

「うーん、楽観的ってわけじゃないんだけど……。そうか、もしかして悪魔ちゃんは知らないのか!! 大丈夫だよ、彼には今ボクの加護が届いている。ボクが永遠に望み続けるから彼はずっと死なない。死なない限りどうにでもなるだろう? 何をされたかはわかんないけど、どこにいようと何をされていようとボクの加護はボクが思い続ける限り途切れることはない」


「それは……呪いをかけたということですか?」


「違うよ、ボクの魂の一部を譲渡したんだよ。強いて言うならば魂を掛けたんだ」


「――――」


 言葉を失う。

 初めてのことだった。

 淵の動揺が表に現れた。


 魂の一部を渡す。

 不可能だ、というには淵もこの怪物も常軌を逸している。

 やってのけたからこそ、怪物は慌てない。

 死んでいない人間を復活させるのは容易いこと。

 そのため死なないように力を明け渡すのは魔術師や呪術師もよくやる方法で、特殊なことではない。

 が、魂を明け渡すなど行うどころか考える者もいない。

 そもそも、人間が魂を譲渡したところで対象を保護する力などないが、神格と同位なる存在がそれを行えば、保護の対象は一時的にその神格を持つものと同じくらいまで引き上げられる。そうなれば不死に近いほど死にづらくなる。神格の位にもよるが不死と呼んでも過言ではない。

 淵と同等の者がそれを行えば、確かに望み続ける限り対象が死ぬことはまずないだろう。

 魂を渡すなんてことができるかはまた別の話だが。


「――認めましょう」


「へ?」


「オマエは我が主と契約するに値する」


「ええと、ありがとう、かな? いきなりだね、そんなにも直接言われるなんて。ちょっと意外」


「では、我が主のもとへ急ぎましょう」


「え?」


「座標を教えてください」


「座標?? いや、ボクは加護を与えただけで――」


「魂を渡したならば、知覚できるはずでしょう?」


「……できないです。もう、ボクの魂は彼のモノになってるから」


「繋がりを絶ったということですか。ならばなぜ加護が届いていると分かるのですか?」


「役目を果たすまではボクのもとへ帰ることがないからだよ。ボクはそう彼と取引したからね」


「理解しました。では少し時間がかかりますが、オマエの魂を探し出し飛ぶとしましょう」


 そんなことをしなくてもクロハの元まで飛ぶことは容易である。容易ではあるがクロハの内側にこの正反対の怪物の魂があることを知覚できなかった淵は気が気でなかったのだ。


「えっと、何故にボクの胸をわしづかみにしているんだい? どうして執拗に揉みしだくんだい? やめてくれ、同性に乳首をつままれても痛いだけだ」


「オマエの魂を記憶しているだけです」


「いやいや、見え透いた嘘つかないでよ! 嫉妬されても困るよ、悪魔ちゃんがいるなんてボクも思わなかったんだって!! ゴメンよ、気に障ったら謝るから、静かにマジギレしながら胸を触らないで!!」



 森の奥地で悪魔と怪物の言い争いを聞いたものは当の本人を除いていない。

 


◆ ◆ ◆


 ミシリと骨が軋むような音がした。

 けれどそれは僕から発せられたわけではない。

 かと言って目の前のあいつ――魔術師であり軍人であり、『異世界創造』という理論どころか存在が眉唾のような魔術を使える元居た世界じゃ常識外れの人間から鳴った音でもない。


「で、どうする? 僕の命乞いに応じるなら、もう幾何の猶予もないと思うけれど」


「……この音は。くそっ!! 次元の境界をぶち抜こうとしてんのかよ!? ふざけんな、力業でも限度ってもんが――いやそこじゃねえ、どうやってここがわかっ――」


 バキリ、バリバリ、ぐしゃり。

 鼓膜の奥の牛耳の更に奥。

 脳髄の中に直接響く。

 不快を超えた気持ち悪さ。

 汚物が脳内に入り込んだような。

 歪んだ音。


『お待たせ致しました――我が主。ただいまここに参上いたしました』


 淡々とした。

 いっそ場違いと言ってもいい。

 恐ろしく澄んでいて、恐ろしく邪悪。

 

 見た目は麗しく、可憐で、凛とした。

 お淑やかで、静謐として、蠱惑的に見える。

 ――ただし、その本質は不条理。


 指先で魂を砕き。

 呼吸とともに不可逆の呪いをかけ。

 瞬きする間に世界を滅ぼす。


 当たり前のように、ごくごく自然に、何事もなく。


 ――魔術師の首は跳んだ。


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