第3話 毒の沼

その女性は疲れていたようだ。

連日連夜の仕事続きで、限界も近いと感じていた。やっと家に帰ることができたと思っても気が付けばすぐに出勤、そんな生活に嫌気がさしていた。


その日は偶然だった。まだ日の沈み切らぬ青鈍の空が見えているうちに帰ることができた。一刻も早く家に帰って休みたい、彼女はそう思って帰路を急いでいた。家々の隙間を抜けつつ道を歩けば、いつの間にか知らない公園に来ていた。普段はこんなところに来ないのに。いや、そもそもこんなところ無いはずなのに。

そして更に不思議だったのは、そこに旧知の仲の友達がいたこと。彼女はブランコに揺られながらうつむいていたが、女性にはすぐ彼女が友人だと勘付いた。

青暗い中に上下ベージュのコンサバな服を着た長い黒髪の友人がゆらゆらと揺れている様は、女性にとっても不気味だった。なんとなく声を掛けるのが憚られるような気がしてあとずさりしようとしたときだった。

「行かないで」

黒髪を垂らした友人がはっきりとした、しかし小さな声で言った。ぎょっとして一歩下がると、友人は黒髪を耳にかけて顔を上げる。

「友達でしょ?」

その屈託のない笑顔は学生時代から変わっていなかった。

「そう・・・だね、久しぶり」

依然としてその気味の悪さは変わらなかったが、懐かしい友人の顔に少し気持ちがほころんだようだった。ベージュの彼女はニコニコとした顔をしたまま、ブランコを漕ぎ出した。少しずつ薄暗くなっていく中、ブランコは音もなくゆら、ゆらと動く。その幼く天真爛漫な動きは学生の頃を思い出させた。下校中に二人で公園のブランコを漕ぎながらお互いの秘密や思いの丈を打ち明けたあの日が懐かしい。

女性は隣のブランコに腰かけた。

「最近どう?」

ブランコを漕ぎながら友人が尋ねる。地面をそっと蹴りだして、女性は現実をふと思い返す。忙しい日々に追われ、恋愛や結婚の話題で持ちきりの同僚とは距離が離れ、人生で何が楽しいのかわからなくなっていた。思わず、本音をこぼしてしまう。

「うん、ちょっと忙しい、というか、辛い、かな」

ゆら、と女性の乗ったブランコが動く。友人のブランコは同情するようにそのうごきを弱める。

「そっか」

二つのブランコは交互に前後しながら静かに揺られる。しばしの沈黙が流れた。

「あなたは?」

女性が友人に尋ねる。友人の黒髪はまるでそよ風のように揺れている。彼女は空を見上げながら軽く微笑んでいた。

「あなたが来てくれたから元気」

友人は子供のように脚を振り上げて、ブランコをより大きく揺らす。その無邪気さに心を奪われて、女性は漕ぐことを忘れてしまう。

藍色の空に飛び出していきそうな友人を見つめながら、彼女はふと悲しくなった。彼女のような童心さえ失って、一人死んだように水底に横たわっている心地に陥って、女性はブランコから立ち上がった。

友人が驚いたようにブランコを止める。そして無垢な声で聞く。

「どうしたの?」

女性は地面を見つめながらぽつりとつぶやいた。

「帰らなきゃ。明日も仕事だから」

青い空気が水のように脚に絡んでくるようだった。どっと疲れを感じて、よろめくように歩みだす。

「待って」

友人が手を掴む。

「もう少し、お話しない?」

そういって彼女は近くのベンチを指さした。

ここから立ち去りたくなかった。彼女なら、すべてを受け止めてくれるはず。この苦しい環境を打開してくれるかもしれない。そんな期待があって、女性は首を縦に振った。そして、ベンチに腰掛けた。

「それで、どうしたの?」

友人は同情するようにそっと覗きこんで言う。女性はぽつり、ぽつり、と現状を語りはじめ、やがて堰を切ったように涙を流しながらすべてを語り始めた。


そうして、長いこと女性は語った。友人は一言もさえぎることなく聞き続けた。女性は大声で泣きながらすべてを語った。そして、一通り語り終えたときだった、友人がふと公園の中央を見つめながら、ささやくように語り始めた。

「ねえ、知ってる?この公園はね、沼地の上に建てられているのよ」

その言葉の意図が、女性にはわからなかった。それでも、友人は話をつづけた。

「その沼地の水はなぜか近づくものすべてを腐らせる。そしてそこにはたった一人、女の幽霊が住んでいると言われていたの。その女幽霊は人を引き込んでは自らと一緒に住まわせようとするんだけど、引き込んだ人は皆腐っていってしまった。だから幽霊はいつも一人寂しく暮らしていたの」

空はいつの間にか真っ暗になっていた。公園の街頭が二人を静かに照らしていた。

「幽霊は諦めきれなかった。何度も何度も人を引き込もうとしては失敗した。そして遂に沼地は埋められて公園になった。それでも幽霊は諦められなかった。寂れた公園になってしまったあとも幽霊は人を引き込もうとして必死になっていた」

そこまで話を聞いて、女性は背中に冷たいものが駆け抜けていくような気がした。今目の前にいるのは友人ではない、幽霊だ。逃げなくては、このままでは殺されてしまう。女性が立ち上がったとき、幽霊がぐるりと首をこちらに向けた。その頬は腐食して肉が見えていた。熟れすぎた柿のように、その顔に触れたらぶにゅりと頬がへこんでしまいそうだった。その腐った顔は、もはや友人のそれではなかった。

ああ、気持ち悪い。腐ってカビの生えた食べ物を見ると寒気がするが、それと同じだ。腐って透けた皮膚を通り越して、壊死した肉が見えている。ぞわぞわと鳥肌が立ち、逃げようにも動けない。

「いかないで、ずっとここにいようよ」

女幽霊は一歩ずつ近づいてくる。じわり、じわり、腐乱した顔が近づいてくる。

突き飛ばせば逃げられる。女性は構えた。幽霊のがら空きの体を強く押せば、その隙に逃げられる。

ふいに、幽霊に両手を握られた。腐って脆くなっているその手は、けれども温かかった。

「ああ……」

もう抵抗しようという気にはならなかった。辛い現実に戻るくらいなら、今ここで腐り死んでしまった方がいい。もう、どうでもよくなってしまった。ぐにゅりとした顔が近づいて、すべてを諦めた瞬間、口に、なにか柔らかいものが触れた。

幽霊の腐りきった唇が、女性の唇に触れたのだった。

ぐちゃりとした嫌な感覚、それが広がったと同時に、彼女は気を失った。


それからというもの、その公園には二人の仲睦まじい腐乱した幽霊が現れるようになったという。

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これはある日の私の夢です。 お月見もちもち @Otsukimimochimochi

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