8 Raise your flag
ふと、男の鼻に、泥と水と緑が香った。
王都の外壁の外からだ。ここにはない降り注ぐ雨の気配の中に、まだ温かい血の臭気が立ち上りつつあった。
男は、足元に転がる真新しい死体から、ナイフを抜き取りながら身を起こす。噴き出す液体の勢いは、もはやさほどもない。
ゆったりと見渡した周囲には、死体と男のほかには、ただゴミや瓦礫が転がるばかりの路地裏が広がっている。
外壁沿いの下町の中でも、かつて建物の増減が激しかった区画の裏側には、誰のものとも知れない空き地が、ぽっかりと迷路のような路地の奥に存在していた。
それらはならず者や浮浪者たちの巣であり、華々しい魔法都市に落ちる影そのものであり、男が見定めた、ひとつのスタート地点であった。
そんな摩天楼にできた洞窟の底で、一仕事を終えた男は、静かに煙草へ火を灯す。
ごく小さなオレンジ色の光源が、ゆらゆらと煙ごしに、いびつで巨大なシルエットの帽子の下にある、漆黒に濡れた瞳に灯った。
雨の匂い。血の臭気。タバコの香り。
それらに包まれた物言わぬ死体を、男は観察するように見下ろしながら、おもむろに自らの頭へと手を伸ばす。
つばの上に載っている、男の頭より大きな『それ』から抜き取ったのは、大人の肘ほどの長さもある羽根だった。
男がそれを降らせるようにして放ると、死体の胸の上に、そうあるべきかのように着地する。
「ギャアーッ! 」
赤ん坊のような絶叫が、路地裏に響いた。
男のつばの上で、ぎょろりと濁った黄色の目が開き、大きく翼を広げる。長い首の羽毛が丸く毛羽立った。
「シィー……」
たしなめ、労うように男が撫でると、鳥は数度羽ばたいてまた腰を下ろし、男の一服が終わるのを待つ体勢になった。
「さあ、兄弟を増やせ」
煙とともに唇が囁いて、その手が抜き取ったばかりのナイフを死体へ差し出す。
変化は
死体は、今まで幾度となくそうしてきたように、立ち上がって路地の先へと歩き出した。
その手に乾きつつある自分の血液を纏わせた刃物を握ったまま、仲間を増やすため、歩きなれた暗がりを行く。
その先にあるのは、家族が待つ家かもしれない。それとも行きつけの酒場や、職場かもしれない。
羽帽子の男はそうして去りいく背中を見届けると、みずからも誰もいない闇の中へそっと姿を消したのだった。
◇
たえまなく降り注ぐ闇色のカーテンを切り裂くようにして、アルヴィンの光が進んだ。
風雨の夜天を進むアルヴィンをしるべに、箒に乗ったサリヴァンは、王都上空をドーナッツ状に切り抜く雲の端にたどりつく前に、大きく手を振ってアルヴィンを地上へといざなった。
この魔人の体となってから大きく変わったアルヴィンの知覚は、それにきちんと応え、サリヴァンの導くままに王都の城壁を目前とした農地の一角へと、その足を下ろした。
雨に濡れた農地は、冬枯れの中でも短い草が生えている。熱を持つアルヴィンのまわりには、気化した水滴が白くまとわりついた。
ブーツを泥で濡らしながら、サリヴァンは暗闇の草原を見えているように進み、アルヴィンの目には目印も何も見えないところで立ち止まった。
「――――王都に入る前に、皇子にもこれを。他の語り部たちにもお渡ししてあります」
サリヴァンが手袋を外し、小箱を差し出した。
「つくりは魔法使いの杖と同じもの。呪わしき存在を退ける作用があります。悪魔の選ばれしものは心を操る力を持ちますから。杖があるかぎり、奴はあなたに干渉できない」
アルヴィンは空の頭蓋の奥から、サリヴァンの顔を見つめた。雨のしずくが顔にかかるのにも構わず、注視されている。アルヴィンの中にその『悪魔』がいるのかを確かめているのだろう。
「もし、あなたが操られていても、あなた自身にも分かりません」
アルヴィンは大丈夫というように頷いて、サリヴァンの指に触れないよう気を付けて小箱を手に取った。
これを受け取らなければ、この先にはいけないということだ。アルヴィンは、抵抗なく小箱を開くことができた。
銀色のメダルがついた指輪だった。
そっとつまんでみても、アルヴィンの熱に溶け出す心配はなさそうな感触が伝わってくる。
不思議なことに、それは『冷たい』という感触に似ていた。それこそが何かの力がこめられているということだというのは、触った瞬間にわかった。
左手で取った指輪を、右手の中指にはめると、それは瞬く間にアルヴィンと同じ温度を持つ。この体に何かが同化していくのを感じ、そしてそれは、悪いものではなかった。
《何も起きません。大丈夫そうです》
「よかった。……先を急ぎましょう」
じっと様子をうかがっていたサリヴァンも、どこかホッとしたように見える。
魔法使いは袖から杖を伸ばして腕を高く上げ、短く呪文を口にした。
「《蛇の道を開けろ。――――
草地が青白く輝く。
円陣は蛇の絵姿をしていた。いつのまにか、足元が石畳の感触に変わっている。光の円陣が回転し、連動して中心の円盤状の石が動き、暗い穴を開けた。ひとりぶんの肩が通りそうな穴ぐらだ。
「これは陰王の抜け道。王都の中へと通じています。……他言無用ですよ」
抜け道は、大人が立って歩けるほどの直径を保った正円であった。
周囲は隙間なく四角い石で組まれたつくりであり、人の手ではこうはならない精緻さであった。
壁の奥のほうからは、絶えず水の流れる音がしている。気温は温かいほどで、サリヴァンが『陰王の抜け道』と呼んだように、大蛇の住み家のような風情が漂っていた。
入り口と同じように、出口だけが一枚の石でできている。
サリヴァンは入る時と同じように呪文を口にし、暗い室内へと這い上がった。
「ジジ。外のようすを」
「りょーかい」
「殿下。ここがうちの工房です」
魔人を影から放ったサリヴァンが、アルヴィンを振り返って言った。
サリヴァンが杖を振る。天井の端から、次々と明かりが灯った。
冷たくなった空の炉があり、石の天板がついたテーブルがあり、壁一面の棚には、職人の道具と作りかけの『杖』そのものが、四方の天井近くまで隙間なく整理されているように見える。
主人のいないそこには、驚くほど神秘的な雰囲気はなく、ただ仕事に忠実な職人の『職場』という質感だけがあった。
棚と一体化した、急こう配の階段をのぼり、蝶番の軋む扉を開けると、中庭に出た。
窮屈そうに枝を広げるニワトコの樹と井戸があり、樹のてっぺんより高い塔を持つ古ぼけた建物が、四方を囲むようにあった。
通りが近いのか、喧騒が聞こえてくる。
(もう朝も近いのに……)
そう思ったのは、アルヴィンだけではなかった。サリヴァンはいっそう厳しい顔を崩さぬまま、速足で中庭を突っ切り、扉を開けて中へアルヴィンを迎え入れる。
それは話にきく『銀蛇』のカウンター裏手に出る扉だった。外を気にしてか、サリヴァンは明かりをつけることなく、ガラス扉の外をうかがう。
空が赤い。夜明けの方向ではなかった。
「サリー」
ジジが煙のように扉の下から姿をあらわした。
「ジジ、どうだった」
「人が殺されてる。殺したやつが次のやつを。倍々に増えて大混乱だ」
「例の『死体起こし』か」
魔人は、肯定するかわりに主人をうながした。
「急いだほうがいいぜ」
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