2 襲撃
高齢のコネリウスと過ごす時間を孫息子はとても大切にしていて、その一人娘のヴァイオレットも、父の意をくみ、冬期休暇は必ず帰省すると決めていた。
しかし当のコネリウスは、いささか孫の一家に気後れがあるのか、何かと理由をつけて下山したがらない。放っておけば、雪に埋もれた山小屋で一人寂しく春を待とうとする。
そこでライト家では山に初雪が降り始めると、嫁であるミリアム夫人か曾孫のヴァイオレットが、おじいちゃんを迎えに行くのが慣例だった。
かつて祖国のために数多の冒険を乗り越えたコネリウスといえど、この孫嫁と曾孫娘にはとても甘かったのである。
――――今年の初雪が降るころだった。
麓の村人の幾人かは、奥方が山に向かう姿を見届けていた。さらにその中の数人は、奥方に声をかけている。
「今年もですか? 」
「ええ。お爺様を引きずり下ろしに行くのよ」
毎年のことよ。仕方ないひとよね、と奥方ははにかんだ。
「お足元に気を付けて」
「ありがとう。お互い無事に冬を越せますように」
領民たちにも慣れたやり取り。
山脈の先にあるところからやってきた奥方は、小柄でぽっちゃりした見た目に反して健脚であることは知られていたので、伴をつけず一人で向かう彼女に不思議に思う者はいなかった。
雪空を見上げて、ふと、奥方が義理の曾祖父をともなって下山した姿を見ていないと気が付いたのは、言葉を交わした山境のヤギ飼いだった。
すでに二日が経っている。冬至を一月後に控え、麓はレースのように薄い雪に覆われつつあった。
領主屋敷に馬を走らせたヤギ飼いが目にしたのは、冬空を赤く染める、大きな大きな火影であったという。
焼け落ちた屋敷からは、ひとつの死体も出なかった。
✡
奇襲は、町の人々が酔いつぶれた明け方だった。
小雪がちらつく夜明けの間際、馬が走る。町から海へ続く街道を辻馬車が疾走した。追いかけてくる五頭の馬が、馬車から見て小指ほどの大きさに見える。
辻馬車は二頭立てである。そう遠くないうちに隣へ並ぶであろうことは、容易に想像がついた。
コネリウス・ライト・アトラスは、御者席で馬を
「だア――――から言うたじゃろ! 長居しすぎたから追手が嗅ぎつけた! 」
辻馬車の後部で歌姫が怒声を上げる。
「はははははは! あんたがいたから存分に満喫したのさ! 」
「コネリウス! 貴様、この儂を使う気か! 」
「たまにゃア、ただ飯食らいにも働いてもらわんと! 」
「――――ちっ! 仕方ない! 」
歌姫は防寒着を脱ぎ捨てると、華奢な手をパァンと打ち鳴らした。あわさった手のひらの間から、
歌姫を取り巻いた銀河色の靄は、彼女を乗せて極彩の尾を描きながら空へと飛び出す。
夜明け前のいちばん暗い時刻である。追っ手の目には、辻馬車から奇妙な
薄絹をまとう黒い肌から湯気が立っている。予告するようにかぎ状の分厚い爪を追っ手に向け、歌姫は真っ赤な咥内をパカリと開けた。
―――――真っ白な
乗り手を失った馬たちが千々に草原を逃げていく。
「ふん。馬に罪はない」
フウッと人差し指を吹くと、小さな残り火が、少女の得意げな顔を照らした。
✡
雨が降っている。灰色をした朝だった。
陽が昇っても、海は
頭の島の先っぽにあたる、サマンサ領最南端の海沿いである。
「急げ! コネリウス! 」
歌姫は太い声を上げて船の縁から手を伸ばした。
コネリウスのそれに比べれば小枝のように華奢な手は、その袖口をグッと掴むと、大男の上半身ごと持ち上げるようにして甲板に乗せる手助けをする。
襲撃から五日。
荷馬車を失ったのは二日前のこと。
やまない襲撃は天候とともに勢いを増していた。遠雷と打ち付ける雨音の隙間から、小犬の鳴き声が響いている。
「ミィ! 」
海面を穿つ水粒で、浜辺は真っ白に煙っていた。小船は大きく揺れながら、名残惜し気に陸地を離れつつある。歌姫が口汚く罵しりながら舌打ちし、進行方向を見つめて頭を振った。
両手を口に当て、コネリウスは高く小犬を呼び続けている。
「ミィ――――! 」
「―――もう待てん! 行くぞコネリウス! 」
「クロシュカ! 」
「もう日が無いのだろうが! おまえまで
雷鳴が音を掻き消した。穿たれた世界に白黒が焼き付き、光の影が網膜を焼く。
空に向かって、歌姫……クロシュカが吠えた。喉からほとばしったはずの声は重なる雷鳴に消え、紫電の光が暗い浜を照らしあげる。白い『それ』は、光が瞬くたびに浜辺に足跡を刻んだ。船はすでに揺れる波間を削るようにして流れ始めている。
浜辺は岩場に変わりつつあった。コネリウスは身振りで岸に船を寄せるように、船首に立つクロシュカに合図をする。すかさず沖に向けたクロシュカの手から、銀河色の霞が間欠泉のように吹きだした。
コネリウスは雨を抱くように、大きく腕を広げる。
ポ――――ン……白い塊が、半ば崖となった岩場から高く跳んだ。
船は振り子のように揺れた。クロシュカは素早く振り返って、雨粒が叩きつける甲板を睨む。
小犬を抱いてうずくまる老いた友の姿に、クロシュカは雷のような声を落とした。
「重い! 船が転覆する! 早う中に寄らんか! 」
束の間、岩場に立ち尽くす追っ手の人影が見え、あっというまに雨の向こうに消えていく。身をかがめるように重心を低くして甲板の中央まで寄ったコネリウスは、腕の中にいる濡れた毛玉を、毛束が吸った水を落とすようにして撫であげた。
「ケガはないか? 痛いところは? 」
小犬は老爺の尖った鼻先をぺろりと舐めあげ、甲高く一声上げてみせる。
安堵に息をついたコネリウスを尻目にクロシュカが海にかかげる腕を二本に増やし、船がさらに加速した。
「――――らから―――るぞ! 」
――――空から来るぞ!
クロシュカは霞が吹き出す右手を、肩を支点に振り上げた。紫電が放射状に跳ね、潮の香りにイオン臭が混じる。
『雲除け』の魔術を使うと、『除け』られた雲が嵐を起こす。嵐の規模は魔術を行使した日数で跳ね上がり、一度嵐が来れば、準備を整えた魔術師ならば雷の指南性を操ることも容易であった。追っ手は何日も前から、このあたりに網を張っていたのに違いなかった。
クロシュカもコネリウスも、荒い息をしていた。雨が体温を、雷光が視力を奪う。
クロシュカが言うまでもなく、コネリウスは甲板に頭を伏せた。
下を向いた口に流れ込む雫に、血の味を感じる。雨に冷えた体は麻痺して、どこから流れ出した血なのかも分からない。
雨音を掻き消す轟音が、船の上で弾けては消え、弾けては消える。
目蓋の裏ともつかない暗闇の中、コネリウスは揺れる船底にしがみつき、手のひらで小犬の鼓動を聴いていた。
体を打つものが緩やかになったと気が付いたのは、ずいぶん経ってのことである。
「――――おいコネリウス! いつまでオネムでいるつもりでおるのだ? 」
のろのろと瞼を開けたコネリウスの目に、水色の光が弾ける。
薄雲の空が覗いていた。
時刻は昼過ぎだろうか。波は穏やかとはいえないものの、それなりに落ち着きを取り戻していた。
甲板の中心にあぐらをかいたクロシュカは、左右の角の具合を確かめるようにさすっている。褐色の肌と白い貫頭衣は煤けていたが、怪我は見受けられない。黒いねじれた角が左側が半ばから折れているのもそのままだ。
「……ああ。ありがとう、クロシュカ……」
「ふん。わしがいてよかったじゃろう? 」
「ああ、もちろんだとも。死ぬまで恩に着るよ」
僅かに膨らんだ頬に笑って、老人は背中を丸めて座りなおす。
気まずげにクロシュカは鼻の下をこすった。
「よせやい」
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