第二節【勇者コネリウス】
2 犬と老人
「ほれミイや。ミイや。こっちにおいで」
老人が手招いた。並外れた長身をしている。木肌のように皺の刻まれた顔の中、目元はつばの広い革の帽子で隠れていた。
四角く整えた石材を敷き詰めた石畳は、職人の手と住民たちの足の裏で均されて、
住民たちが清水を汲むためにある、ささやかな噴水のある広場だった。噴水を中央にすえ、すり鉢型にくぼんだかたちが、ちょうど円形舞台の様相を成した。
老人の背後には簡素なテントと幕があり、幕の端からは荷車が飛び出していた。幕の鮮やかな緑色で、荷車の存在もひとつの舞台装置に見えている。
町の老人たちが思い思いの楽器を持ちだし、演奏をしていた。息のあったセッションは、もう何千回と紡いだものであろう、豊作と健康を祝う歌だ。
そこは一種のお祭り騒ぎであった。
行商人風の老人は、旅芸人でもある。
昨今には珍しい、旅の吟遊詩人にも近かった。
こうした田舎の、されど少し余裕のある行商の中継点のような町では、芸人は歓迎されるのが常であった。
行商も行う彼らを少しでも引き留め、より物資を融通してもらえるように接待する意図も含まれているのだ。
年の瀬も近いということもあり、興行は盛り上がっていた。
どこからか飲み物や食べ物を配るものが勝手にあらわれ、子供たちは親に引き出されるようにして一番いい席に並べられる。
最初、老人は明るく話をしながら、お手玉や縄投げ、手品を披露していたが、
ワン!
太い声で鳴いてふさふさの
子犬は石畳の上をピョンッと跳ね、舌を出して笑顔を観客に振りまいた。つぶらな瞳を向けられた前列の母娘が、きゃあっと声をあげて小さな旗を振る。
老人は思わせぶりにジャケットのポケットを探ってみせた。
「準備はいいな? ――――ほいっ! 」
ぴゅっ、と弧を描いてベーコンの切れっ端を投げられた。子犬が嬉しそうに甲高く鳴いて、それを空中でパクっと口に納めてみせると、観客は小さな歓声を上げる。
「まだまだ! ほいっ! ほいっ! ほいっ! おまけにもういっちょ! 」
「ウワワン! 」
最後の「おまけ」は、空中二回転つきである。
拍手と歓声が、そう広くない広場を満たす。
「ミイ! よくやった! 」
老人が帽子を脱いで優雅な礼をすると、その足元で子犬もモコモコしたお尻をふりふり上げて、頭を伏せた。
✡
興行が終わる気配に、喝采を背にして、少女は天幕の後ろからのっそりと立ち上がって片づけを始めた。
とはいっても、物はそう多くはない。いくつかのジャグリングに使うボールや、手品のカードの入った箱、玉乗りの玉の空気を抜くだけだ。幕の後ろに隠されていたのは荷車で、そこに無造作に放り投げるだけ。
裸足が『なんでこんなことを』と言いたげに、イライラと石畳を踏みしめていた。
小柄な少女は、頭から被ったボロ布をしきりに引っ張りながら、乱雑な手つきで仕事をこなす。
おもむろにボロ布マントの裾を引かれた。
「なあ、姉ちゃんは何をするひと? 」
「…………」
無言の少女から怒気が漏れる。
きょとんと少女を見つめる子供は、下から覗き込むようにフードの影の中を見つめていた。
「……おねえさん、すごく美人……」
思わず漏れただろう言葉に、少女は眼を細くする。
『……そらアよかったのう』
色の濃い唇から出た声に、子供はギョッと目を剥いた。
『気分が良うなったわい。
男の声だ。若くはない。この子供の祖父ほどの男の声だった。
長く伸びた白く分厚い爪の手が、子供の頭蓋骨の形を確かめるように撫でる。睫毛の先をかすめた爪につむった目を、再び開いたとき、少女は風を立てながら天幕を出ていくところだった。
観客はとつぜん現れたボロ布の子供に、拍手を止める。
すかさず老人が片手を広げた。
「――――おお! なんと! 我が劇団の気まぐれな姫君がお見えになりもうしたぞ! こちらにおわすは
子犬が小さく鳴く。子犬の咥えてきた弦楽器を拾い上げ、老人はゆっくりと弦を爪弾き始めた。
緩慢に始まった
石畳を少女の裸足が擦る。噴水の伸びる空に、灰色のボロ布と、バラ色の三つ編みが飛び上がった。遅れて、シャリン、と鈴の音が追う。
一対の鮮烈な
―――――
『Ce qui cause mon tourment.《なんでオイラが悩んでるかってこと》
Papa veut que je raisonne,《親父はオイラにマトモでいてくれってさ》
Comme une grande personne.《知らねェ大人みたいにさ》
Moi, je dis que les bonbons《俺に言わせれば、甘い飴玉のほうが》
Valent mieux que la raison. 《マトモでいるよりずっといい》』
観客たちに、歌詞の意味はわからない。しかし、どこか遠いところの情熱をあらわす歌だということは伝わっていたに違いなく、それを歌うのが男の声を持つ少女だということも疑いようがない。
弦を爪弾く老人の口は閉じている。少女は同じフレーズを歌いながら、ゆっくりと観客に近づき、自分が謡っていることをアピールした。
しなやかな褐色の体。金細工で飾った、薄布を巻きつけた脚もあらわな衣装。そして鮮やかなバラ色の髪と――――そのコメカミの延長線上にある、
『Moi, je dis que les bonbons《俺に言わせれば、甘い飴玉のほうが》 Valent mieux que la raison. 《マトモでいるよりずっといい》―――――』
「ギャラはいるかい? 歌姫さま」
差し出された串焼きに、少女は木彫りのコップを傾けたまま横目で睨んだ。
このあたりは内陸に位置するが、塩を運ぶ行商がよく立ち寄るとあって、串焼きにもたっぷりのハーブとともに塩がまぶされている。
東西に細長いサマンサ領を、山岳沿いに南東へ行くと海に出る。その山裾と海岸線の真ん中にあるのが、この小さな町だった。
住民は酪農と漁師が半々で、雪が解けきる前から夏にかけては男たちだけで海へ出稼ぎに行く。女子供や老人は、ここで土の作物を蓄えて、収穫時期に帰ってくる男たちを待つ。そうしてともに冬を越え、春の気配がすると、男たちはまた海へ出稼ぎに行った。ここはそういう土地だった。
今は冬。家族が揃う100日の時期にあたる住民たちは、誰もが顔が明るい。不在の間に生まれた赤ん坊を抱く父親や祖父、それを見つめる母子や祖母たち。逢瀬を楽しむ若者にも、旅芸人の興行はありがたいものなのだ。
わざわざこの日のために絞められた羊肉を串からむしり取るように食む歌姫の歯は、ぎざぎざに尖っていた。
温められた果実酒は、歌姫の臓腑を焼くには甘すぎる。肉も、血が滴るほど赤いものを彼女は好んだ。
それを
赤い篝火が、冷たい冬の夜風を少しだけ温めている。
「なかなかいいものだろう? 」
老人が目を細めて言った。
「出発は明朝じゃろ。ジジイは
相変わらずの男の声で、歌姫は吐き捨てるように言う。
老人はオーバーに肩をすくめた。
「おいおい! 俺よりもジジイのくせに、ツマランことを! 」
「儂は貴様の
「ははは! わかっておるさ。でもまあ、少しばかりはいいもんだろ。ともに旅をした昔を思い出す」
「ふん。そんなもん、ついこの前のことじゃろが」
「そうだな。つい五、六十年前のことだ」
「生意気言いよって」
「ははははは! ジジイになって、ようやく兄貴のような皮肉が出るようになったよ」
「へんっ! ジーンに比べりゃ、ペーパーナイフにもならんな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます