1 開幕
ゆらゆらと炎が揺れている。
暗闇にひとつきり。鼻先ほどの位置に火影を感じているのに、ひとつも熱くないのは、夢の中だから。
「火が灯る」
誰かの声が言った。
「炎がやってくる」
視線を感じる。夢の中の自分は透明で、その視線の主もまた透明だった。
暗闇に溶けて見えない『誰か』の微かな呼吸音。
ヴァイオレットは言った。「……陰王様? ううん、ちがう……。ねえ、誰? 」
「災厄の火種と暗闇を照らす
「火事が起こるっての? 」
「あなたは風。風に愛され、風そのものになれる人。きっと、あの方の
「あの方って誰よ! 」
「アルヴィンさまに。我があるじに。さようなら。さようなら。さようなら―――――」
✡
――――あるゔぃんさま。
(誰のこと? )
バチンと目が覚めた。
重いカーテンの隙間から、清々しい晴れ間が覗いている。扉越しに、作業をするミス・グリーンの衣擦れと、器具がぶつかってカチャカチャいう音がする。
彼女にとって、今日という日は何でもない日常のうちの一つだと、唐突に気が付いた。ヴァイオレットは、そんな彼女の平和な日常の片隅にいる不穏分子である。
彼女の所属する研究室は、ほとんど教授とミス・グリーンの二人しかいない少数精鋭だ。ボスである教授はフィールドワークが好きで、研究室にはもっぱらミス・グリーンしかいない。かつては多くの学生が所属していたという栄光も見る影なく、機器の管理と毎日の計測は、ミス・グリーンの肩にかかっている。
(頼ったのはまずかったかしら)
ちらりと後悔がよぎる。けれど、(……いいえ、彼女を頼ってよかったのよ)とすぐに思い直した。
助けてもらえるという確信をもって頼ったのだ。あのまま野垂れ死んでいたら、それこそ、信頼する友人への裏切りになる。
ほんの数時間の仮眠だったが、久しぶりのベッドが、ヴァイオレットの疲れを癒してくれていた。
冬の外気は、薄氷を張った湖の湿気を孕んで、澄んだ水色をしている。ベッド際にある小さな小窓のカーテンを少し開け、盗み見るようにして見た湖を見下ろす景色は、なんだか見慣れたものと少し違って、神聖なものに見えた。
(あんなに湖って青かった? )
冬のこの時期は、いつも実家へ帰っているから、見慣れないのかもしれない。淡いエメラルドグリーンの湖面は新鮮だった。
森もなんだか輝いて見える。深い緑だ。冬というより、まるで春が訪れたような――――。
新鮮な驚きが、違和感へと変わりつつある瞬間のことだった。
ドォン、と地面を突き上げるような地響きと揺れを感じたのは。
波に乗り上げた船のように、床が一瞬傾いたように感じた。ベッドの上に投げ出されたヴァイオレットは、すぐさま体を起こすと、扉を蹴破るようにしてミス・グリーンのいる部屋へと出た。彼女は床から起き上がるところで、やや高価なガラス製の器具を割ってしまったことで元気に悪態をついている。
「今の何!? 」
「地震なんて珍しいこと! すぐ大騒ぎになるでしょうね。ああ、今日の予定はきっと全部中止だわ――――」
「ミス・グリーン!! 」
見て、というふうに、ヴァイオレットは大窓の外を指差した。
湖の対岸、森から煙が上がっている。
尋常な煙ではない。紅蓮を孕み、勢いよく空へ突き上がる黒煙は、とつじょとして顕れた怪物のようだ。
「……山火事? 雷が落ちる天候じゃない。待って、湖の色もおかしい」
天気の専門家であるミス・グリーンが言う。「いったい何が――――」
炎。
今朝の夢を思い出した。
今は暗闇ではない。篝火はいらない。
「災厄の種火って……これのこと? 」
ヴァイオレットはベッドへ取って返すと、外套をひっつかんだ。急いで着込みながら大窓に足をかける。
「ヴァイオレット!? 」
「予定変更! あたし、今すぐ出てくね! 」
「まさかあの山火事を見に行くんじゃないでしょうね! この騒ぎの隙に逃げるほうが賢いはずよ! やめなさい! 」
「だって、行けって言われてる気がするんだもの! 」
そのとき、廊下から扉がけたたましく叩かれた。
「――――ミス・グリーン! いるんだろ! 山火事だ! 天候魔法で雨を降らせるから、装置をお借りしたいんだが――――」
「学部長だわ! 」ミス・グリーンは舌打ちをして、叩かれるドアをそのままにヴァイオレットの襟首を掴んで引き寄せ、小声で怒鳴るという器用なことをした。
「……いいことヴァイオレット! 危険はなるべく避けなさい! 陰王様から授かった使命があるのなら、それを優先するのですよ! 」
痺れを切らした学部長が扉を開けたその瞬間、ミス・グリーンが引いたカーテンが、窓の外へ飛び出したヴァイオレットの姿をうまく隠した。
時刻は昼近く。
飛翔した赤毛の鷹の姿を窓から誰かが見ているかもしれなかったが、ヴァイオレットはまっすぐに湖の上を森に向かって飛んだ。
今朝とは真逆の進路。上を飛んでみると、やはり湖の色が青ざめて見える。色はどんどんサファイアブルーに変わっていっているように思えた。
ほんの数分で湖を飛び越えると、そのころには対岸の森は黒煙に埋もれてひどく暗くなっていた。
ヴェールのような薄雲がかかった爽やかな朝は無く、不吉にまみれた闇と、悪魔の舌のような紅蓮の炎が森を一口ずつ呑み込んでいくようだった。
(なんにも見えないわ)
舞い上がる煤が下から雨のように翼を打つ。動物たちの悲鳴がした。逃げまどう鹿の親子に悪魔の舌が追いすがる影が大きく野原を駆ける。
(暗闇――――これが暗闇だ……)
心臓がどくどくと嫌な音を立てていた。予感が告げている。あの夢は真実を告げる警告だったと。
炎の中で、人影が起き上がった。発熱するように白い眼球が浮かぶ顔。炎を纏わりつかせた裸体。するすると熱風に躍る髪。夢みるような表情。
無造作に右手が上がり、発熱する目が木の影に身を潜めた赤毛の雌鷹をとらえた。
枝を蹴り落下する。酸素を求めて地面を掠めながら滑空する。
炎が追いかけてきて、尾羽ごと、左の足へとかじりついた。
甲高い猛禽の悲鳴の声も炎に飲まれる。
ヴァイオレットの体は、かろうじて森に残った湿った下生えの中に突っ込んだ。人間の姿に戻るも、体を丸めた格好から動くことが出来ない。食いしばった歯の間から、滝のように流れる汗が下へ流れた。
「――――っぐ、ぐっぞ、こんな、こんなところで……!! 」
暗闇。災厄。その種火。暗闇を照らす篝火。
篝火があらわれると、夢の中であの人は言った。助けてと。さようなら、と。きっとあれは、あの人が必死に届けた意味ある言葉なのだ。
神秘をごく当たり前に信じてきたが、ヴァイオレットはそれをはじめて後悔しているかもしれなかった。
「飛べなくなったら、恨んでやるんだから……! 」
朝露の名残りで湿った土をつかむ。腕の力で這い、息を潜めて煙の下を進む。
「天下のヴァイオレットちゃんが、空が見えないところで死ねるもんですか……! 」
暗闇だった。硬く目を閉じ、土と水の匂いを頼りに前に進む。
「天空を統べる天空神よ……あまねく空の支配者、風の手綱を握る御方……雷霆持つ御方よ……しもべたる我が身をお守りください……お守りください……」
祈りを何巡口ずさんだことだろうか。ヴァイオレットの顔を、強い風が吹きつけた。
冷たく清涼な大風に、目の前が晴れる。ヴァイオレットは肺いっぱいに空気を吸い込み、目前に切り立つ崖から、身を躍らせた。
空と再会した歓びの声を上げ、赤毛の鷹が飛翔する。
光り輝くウルラ湖から、何かがやってくる。
『それ』は水しぶきを上げて高く、空高く舞い上がると、虹色の透き通る翼を広げ、そっと薄氷の湖面に降り立った。
胸に灯る青い炎。灼銅の魔人。
――――『星』の化身の篝火が。
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