1 マニフェスト
「……ヴァイオレット」
眼鏡の奥にある父の瞳が、娘を映した。
「……はい」
いつになく神妙になって向き直ったヴァイオレットは、父の次の言葉を待つ。
「陛下のお言葉にあったとおり、早晩に審判が始まる。知っての通り、人類すべての存続をかけた裁定の時だ。まだ幼いお前には心配もあるが、お前が持っている才能は確かに天匂わす神々からの加護であると、私もお母様も、そう信じている。ただいまからお前は、ライト家の次期当主として私の代理として名乗りを上げる権利を持ち、私に何かあった場合には全ての権限を譲渡して使えるものとする」
「…………はい。お父様」
「……お前はまだ幼い。けれど、できるね」
ヴァイオレットは、上目遣いに父親を見ながら頷いた。
「はい。やってみせます。この血にかけて」
呼応するように、フランクも頷いて見せる。
「よろしい。今からおまえは大人だ。わたしはこれから陰王陛下の名代として首都アリスの王宮へ
廃嫡し、名を捨てたとはいえ、おまえたちのお母様は陽王陛下の妹だ。おまえを陽王派が捕まえてしまえば、ていのいい陰王派への人質となり、おまえ自身とお母様を危険にさらすことになる。お母様はひいおじいさまと共にすでに出奔している。わたしたちの誰も、おまえとともに逃げることはできない」
「はい。わかっています」
「おまえには翼がある。森に紛れ、尾の島を東回りに南下し、迂回して首都を目指しなさい。ひいおじいさまとお母さまは、追手を引き付けて西周りに逃げている。学院にはすぐに陽王の手が伸びるはずだから、ぜったいに立ち寄ってはいけないよ。合流するのは首都の城下町。『銀蛇』という店だ。知っているね」
「はい」
「陰王陛下とお兄様が暮らしている場所。そこにおまえが辿り着けば、陰王陛下の加護が得られる。……いいかい、きっとおまえは、なぜ辺境に向かわせて大切な娘を隠さないのかと思うかもしれない。しかしね、おまえが自分の力でその場所に辿り着くことが、とても大切なことなんだ。おまえは、陽王と、ひいおじいさまと、ライト家の、三つの血を引いている神の……きっとかの天空神の加護がある魔女なのだから。わかるね」
ヴァイオレットは、今日でいちばん深く頷いてみせた。
瞳の奥が熱く、結んだ口の奥で塩辛い味がしていても、心臓は静かに大きく鳴っている。
「お父様。ヴァイオレットは、神の加護ある翼があります。やりとげてみせましょうとも。陽王様を、ぎゃふんといわせてやるんだから! 」
拳を振り上げて胸を反らした娘に、フランクはいつもの明るい笑い声をあげた。
「――ああ! その意気だ! おまえはほんとうに、ひいおじいさまによく似て頼もしいったらないよ」
✡
まったく、しつこいったらないわ!
ヴァイオレットは心の中で、地団駄を踏んでわめき散らした。
落ち葉が詰まった
ふかふかの腐葉土に包まれて越冬しようとしていた栗鼠を腹にいれ、睡眠も取り、ひと安心……と思ったところに、猛禽類に備わった野生が、敵襲を知らせたのだ。
あの影の魔術は、どうやら日が昇って影ができると活性化するらしい。
朝から太陽が出てしまい、中天に立つ昼間には泥仕合のような逃亡劇が、日が暮れるまで続いた。
さらに良くない事実も確かめてしまった。
父があえて口にした魔術学院のあるミネルヴァ領。陽王派の手が最初に伸びると言われたその土地は、大きな湖を有している。シンボルは『知恵』を象徴する紫に、黄金の稲妻と交差する白い
その図面の旗を掲げた船を見つけてしまったのだ。
大きくて新鮮できれいな水場の発見はありがたかったが、それは間違いなく、国内最大の淡水湖であるウルラ湖だった。
ヴァイオレットが捕まったのは、ミネルヴァ領の東隣にあるマリア領西端あたり。
ミネルヴァ領とマリア領の境には、サマンサ領ほど険しくはないが山脈がまたがり、大森林が王都アリスのあたりまで続いている。
緑に紛れるため、ヴァイオレットはその大森林の中を南下していたところを捕まったのだ。
『魔法使いの国』は、首都アリスを有する『尾の島』と、それをぐるりと取り巻く列島群の『頭の島』で構成されている。
『頭の島』の北西にあたるサマンサ領から、最大限に警戒して首都へ向かうのであれば、ぎりぎりまで『尾の島』へは渡らず、『頭の島』の島々を経由していくべきだった。
ウルラ湖沿岸は、生徒たちの下宿や学院関係者たちの店や住居がひしめきあって、広大な学園都市を形成している一面がある一方、軍事拠点としても名高い。
陰王はその役割上、軍や武力を持つことはできない。陰王派の武器は、清廉な信仰と、それによる民衆からの支持なのだから。
ミネルヴァ領主は穏健派の陰王側で、学院じたいも中立を保っているが、過去、現陽王エドワルドが在学中、兄であるオズワルドの起こした謀反から始まった内乱を、学院に籠城して勝利を収めたという歴史がある。
陽王エドワルドを語る上で欠かせない記念の地であるからして、ミネルヴァ領主も、軍部の訓練地建設を跳ね除けられなかった。
拠点があるので、毎日元気いっぱいの『影』たちが、ヴァイオレットを探してやってくる。
湖沿いの地形を、ある程度把握していることだけはよかった。
しかしこのままでは、そう遠くない未来に援軍を呼ばれてしまうだろう。いや、きっともう、要請はしているかもしれない。
鷹の目は、世間が思うほど暗い場所が苦手というわけではないが、ヴァイオレットの十四歳の少女の心は、夜行性の獣がうろつく夜の森を行くことを良しとしない。
そこでヴァイオレットは、逃げたと思わせるために姿を隠すことを選択した。
時を稼ぐ。しかしそれは、何もしないというわけではない。
夜明け前の暗闇に紛れ、ヴァイオレットは湖を渡った。
海ではないので波が立たず、風も無い。曇天の夜を映した漆黒の湖面は凍りつき、その上を飛ぶヴァイオレットの影を映さない。
湖の対岸に、停泊した船のような形でラブリュス魔術学院がある。
群青の屋根、白い漆喰と、赤レンガの壁。今は闇に包まれているが、今に朝日で照らされるだろう。
『学院』は、かつて要塞として築かれたウルラ城へ、魔術に魂を捧げた魔導士たちが住み着いたたことに端を発する。
五芒星のかたちに配置された五つの塔。その中心に、鐘楼と大時計のある『大塔』。
湖側から外周をぐるりと巡ると、陸側に校庭がある。校庭の中心には、紫の旗がはためく白いポールがあり、先端についた滑車から空へ向かってロープが伸びたままになっている。
(……よかった。あのひと、まだ学院にいるんだわ)
ヴァイオレットはそのロープの先が回収されていないことを確認したかったので、すぐに旋回して踵を返した。
国内最大の名門校であり、在籍生徒数は5千人にも上る大学校である。寮も敷地内に併設され、各地から送り出された見習い魔法使いたちの生活は、学院内で完結する。
冬休みであっても、研究のためや家庭の事情、ただ単に帰省が面倒などの理由で実家に帰らない学生というのは、一定数存在するのだ。
この時間であれば、彼女は塔のひとつにある研究室に詰めている。
出窓のガラスを叩くと、しばらくしてカーテンの端から目だけが見えて、鍵が外れる音がした。
「……ヴァイオレット! 」
女が、抑えた声で驚きの声を上げる。
「やぁ、ミス・グリーン。二週間と三日ぶり? 」
「あんた……! 帰ってくる馬鹿がいますか……! ここが今、どんな状況かお分かりではないの? 」
女は少女の姿を隠すように、カーテンを引いて少女を室内へ招き入れた。
部屋はちょうど欠け始めた月のような形をしていて、ムッとするほど蒸し暑く、そして薄暗かった。蒸気を吹き出す無数の金属の箱が、天井高くまで占領しているためだ。
彼女は二十歳の大学院生徒だった。飛び級の才女である。金髪に澄んだ碧の瞳は、近寄りがたい配分で頭蓋骨に収まり、およそ丸いところといったら、眼鏡とお尻くらいというような痩せた娘だった。
ヴァイオレットはあっけらかんとして言う。
「分かってるから、ミス・グリーンに助けてもらおうと思って。あ、今日は連日と終日まで厚い雲がかかります。日暮れあとに少し雪が降るかも。北西からの風がやや強いです。あとで計測結果と見比べてね」
ミス・グリーンは、頭痛がするというように首を振った。
彼女は天候について研究している学生で、ここは彼女が属するオフィスである。
ヴァイオレットは仲良しの下級生という立場であり、その特異的な能力によって、彼女と契約したオフィスのメンバーだった。
「……あなた匂うわよ」
「仕方ないじゃない。こっちは逃亡生活なんだから! ……ねえ、ミス・グリーンは貴族で陽王派だけど、穏健派でしょう? 助けてくれるよね? 」
ミス・グリーンはいっそう顔をしかめた。彼女ははっきりいって、●●派だとかは大の苦手なのだ。だから穏健派というよりは、『興味ない派』というのが正しい。
「……お願いローズ。力を貸してちょうだい」
「あーもー、実験に使ったお湯ならいくらでもあるから、早くお風呂入ってきなさい! 」
ヴァイオレットはニッコリした。
「ありがと! 大好き! 」
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